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ラルフ・ネーダーの立候補をめぐって
Zネット・コメンタリー2004年2月28日、マイケル・アルバート
翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2004年4月6日
左派の人が立候補するときには、種々様々な理由があります。たとえば
(1)議席を手にして、その権力を当選させてくれた選挙区に利益をもたらすために使う一方、より幅広い利益のために運動を促進させようとする。
(2)選挙キャンペーンを通じて世論を左寄りにし、他の候補者の選挙公約を価値あるものに変えること。そうすると、他の候補者が勝利しても、当該選挙区に利益になる。
(3)誰が選挙で勝利しようが関係なく、民衆の一部を直接的に教育し、さらなる活動へと組織化する。民衆の理解を広げ、活動への情熱を生み出し、運動の有益な社会基盤を開拓し、草の根の支援を広げ、資金調達の手段を開拓する。
ネーダーの場合は理由(1)は当たりません。彼は勝つことはないからです。
理由(2)は辛うじて有効です。ジョン・ケリーや他の民主党員は潜在的ネーダー支持者との論争を避けるために選挙遊説においていくつかの発言を変えるかもしれません。
しかし、おそらく、たとえこのようなことが起きても、それ以降ケリーの実際の見解にほとんど影響を与えないでしょうし、大統領になってもほとんど変わらないでしょう。
候補者は嘘を言うものです。たくさん、切れ目なくです。そしてどんなことがあっても、彼らが実際に信じていることと当選してやることには、わずかしか関係しないのです。
いったん公職に就くと、候補者は様々な選挙区に対応することになります。ほとんどの場合その会計部長[選挙資金の提供者]の要求に応じることになります。自分のたたく選挙ドラムの音[すなわち公約]に答えることはほとんどありません。
したがってネーダーの選挙キャンペーンにとっては、過去も現在も、理由(3)が、唯一の要因ではありませんが、中心的事項になることは確かです。そして2つの広い問題がネーダーと運動の高まりにしたがって起こっているように私には思われます。
第一に、左派を代表すると称して大統領選挙に自分勝手に立候補することは適切なことだと、左派の誰かが考えるとでも思ったのでしょうか。
ネーダーが、私を含めて、国中の進歩的なすべての種々の組織の明白な支持を得て、緑の党から立候補するのは一つのやり方でした。それは合理的で民主的な手続きであり、有効に機能しました。ネーダーが自分で勝手に立候補するというのはまた別の話です。
我々は民主主義、参加、説明責任を問題にしています。左派候補者が自薦するのはどれほど賢明なことなのでしょうか。思慮分別があり責任感があると彼が過去に絶賛した組織の実質的全支持者が、彼に立候補しないでくれと言っている時には、なおさらのことです。
たとえネーダーが抽象的には正しくて彼の出馬が良いことであっても、もし彼が立候補者として出てくる過程が民主主義的で包括的であったとしても、ただ良いだけになるでしょう。しかし実際にはそうではなく、それは横暴なものでした。
第二に、2004年のネーダー大統領選挙は、どちらが新大統領と政権になっても、結局は、せっかく拡大した左派の能力を無駄遣いし犠牲を高めることになるようなやり方で、運動の参加者を教育し組織することになる恐れがあることです。
運動を構築する際の情動的要因を考慮する第一の指標は次の点です。ネーダーは、2000年の大統領選挙では非常に印象的な立候補で、最初は非常な支持を引き起こしたのですが、その後は大きく後退し、草の根に眠っている支持者を掘り起こし対抗勢力に対する援助を与えるよりも、むしろ支持者のエネルギーを浪費して選挙戦から姿を消すことになってしまったのです。2004年においては、私の推測は事態はもっと悪くなるというものです。ネーダーは以前より少数の支持、少数の力、少数の運動しか得られないでしょうし、また多分、選挙後には前回より早い時期に撤退することになるでしょう。
運動構築を考える第二の指標は、ネーダーが伝えるメッセージと関係があります。彼の経済や環境や国際問題に関する政策はかなり良いのですが、男女差別・同姓結婚・人種問題の政策は、かなり弱いのです。
そして第三の指標は、2000年選挙ではネーダーが緑の党の政策キャンペーンの一部として行動したのに反して、今回はどんな現存する組織も、その過程から利益を得ないし、その過程に影響を与えない、という点です。ただ自分のためだけに立候補したのだと私は思います。これは運動構築ではありません。
そこで私の意見は、もしブッシュが今回の選挙において確実に明確な敗者であったとしても、すべての人が2004年は活発な左派キャンペーンの完璧な時だと同意したとしても、左派候補者としてネーダーは望ましくないということです。ましてや、根拠のない説明不可能な理由による立候補であればなおさらのことです。ネーダーは草の根の人たちの説明責任からかけ離れすぎていますし、私の意見では、最高の全国的キャンペーンを作るには政治的にあまりに狭いものになっています。
とはいえ、多くの人たちがこれらの問題について私が見るのとは違った判断をすると私は理解しています。
たとえば、ネーダーは余りに理想的であるために孤独なカウボーイと同じなんだと考える人もいるでしょう。確かに、その手続きはもっと良いものであるべきだったが、それでもなお、他の候補者と比較すれば、彼のキャンペーンは教育的であり、活動家のエネルギーを引き出す可能性があるし、我々はそれをでる限り成功させるものとなるよう努力しなければならないと考える人もいるでしょう。
そのような予測が正しいかも知れませんし、ネーダーに注意を払わない方が賢明だろうという私の見解が正しいことが分かるかも知れません。あるいはこれら両方よりも他の推測・評価がより正しいことが証明されるかもしれません。
たとえば、突然ネーダーが大規模な反応を活気づけ、新しい人々を投票所に向かわせ、討論を左寄りに推し進め、意識を向上させる等というように想像することもできます。
こんなことを私は期待するでしょうか。いいえ。もしそんなことが起こったとしても、私はその立候補のプロセスを依然として批判するのでしょうか。そうです。
しかし明白な欠陥にもかかわらず、上記のような想像が何人かの人々に、ネーダーのために懸命に働くことを正当化させるでしょうか。確かにそういうひとも出てくるでしょう。
そしてそれが私が言いたい主要なことです。
まるで何が正しくて何が間違っているのか絶対的に確実であるかのように、すべての人が、自分のナイフを取り出して、選挙を巡って相互に戦っても無駄です。
理性的な人々は、すべての人が同じ進歩的な価値を共有するということに、芝居がかった賛同はできないのです。
人々は自分の期待に照らして自分にとって最良に思われるコースに従うべきなのです、そして他の人にも同じような選択をさせるべきです(いずれにせよ、誰もが何らかの疑問を持っている場合、すべての人はそんなふうに行動しているのです)、そして実践が結果を明らかにするようにさせるべきです。
私はネーダーに立候補をやめるように促すことは意味のあることだったと思います。そして彼が聞き入れないのは左派原理という私の感覚と大きくかけ離れたものです。
もし内容や同盟に関して彼が[右派と]更にもっと妥協するなら、それは更なる批判の根拠になるでしょう。
しかし多くの他の人たちが彼の立候補にうろたえ何の支持も与えていないにもかかわらず、ネーダーは立候補し何人かのひとが彼を支持しようとしているのです。
一方はブッシュが負けることを願い、他方は社会運動ができる限り発展することを願いつつ、戦略を巡って互いに果てしなく非難し合っている、この二つの派閥に得られるものは何もありません。
理にかなったことは充分に明瞭です。民主主義、説明責任、正直さで一貫した姿勢。他方、戦術上のことはそんなに確固としたものではありません。
悪いプロセスの相対的コストと、選挙運動で相対的に得られるものとを、どのように比較検討するのでしょうか。そして選挙の混乱に起因する相対的な損失と、新しい人に興味を持たせ投票所に行かせることによる相対的な利益とを、どう比較評価できるのでしょうか。
誰の予測が現実により近いのか、時間がたてば分かるでしょう。その間は、限りない非難論争によって、お互いをさらに悪化させることがないようにしましょう。そんなものは意識を向上させませんし、運動の組織化になりませんし、どの陣営も勝利に向かわせませんし、良い選挙結果をもたらしません。
我々の見解を魅力的かつ情熱的に提示するのは、良としましょう。もちろん特に彼らがより広い教訓を持っているときには。しかし戦術問題を違った観点で見ている人々の誠実さや動機については質問しないことにしておきましょう。
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