新刊紹介
塚田幸三・訳『「ならず者国家」と新たな戦争:米同時多発テロの深層を照らす』(荒竹出版、2002)
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チョムスキーと言えば、言語学、哲学、認知科学、心理学の分野で誰ひとりとして、その名を知らないひとのないくらい有名な「知の巨人」である。ところが不思議なことに、政治学における彼の巨大な仕事は、ほとんど日本では知られていない。
その証拠に、言語学、哲学、認知科学、心理学の分野での彼の仕事は、そのほとんどが翻訳されて紹介されているのに、彼の政治学における仕事で翻訳され現在、手に入るものは、下記の数点に過ぎない。
益岡賢[訳]『アメリカの「人道的」軍事主義』現代企画室、2002.(The
New Military Humanism. Monroe, ME: Common Courage Press, 1999.)
益岡賢[訳]『アメリカが本当に望んでいること』現代企画室、1994.(What
Uncle Sam Wants. Berkeley, CA: Odonian Press, 1986.)
土屋俊・土屋希和子[訳]『ノーム・チョムスキー:学問と政治』産業図書、1998.(Barsky,
Robert F. Norm Chomsky: a life of dissent. Ontario, Canada: ECW Press,
1997.)
木村雅次・水落一朗・吉田武士[訳]『アメリカン・パワーと新官僚:知識人の責任』太陽社、1970.(The American power and the new mandarins. Pantheon
Books, 1969.)
このように書くと、チョムスキーは言語学者であって政治学者ではないから、それは当然のことだと思われるかもしれない。しかし、チョムスキーの仕事を紹介する下記のホームページを見れば分かるように、彼の政治学関係の出版物は言語学関係の出版物よりも多いくらいである。
The Chomsky Archive (http://www.zmag.org/chomsky/)
Bad News: the Chomsky Archive (http://monkeyfist.com/ChomskyArchive)
このような現状は、日本の言語学研究者の知的退廃を示すものと言って良いかもしれない。なぜなら、上記の翻訳者で言語学を専門に研究しているのは土屋俊氏だけだからである。しかし、その土屋氏もチョムスキーが創始した生成文法の研究者ではない。
しかし、よく考えてみると、「チョムスキーの仕事が余りに巨大すぎて、彼の創り出した言語学の仕事を追いかけるだけでも息が切れて、とても政治学の分野まで手が回らない」というのが、チョムスキー言語学の研究者の、正直なところなのかも知れない。彼の言語学は、それほど進化が激しかったからである。
だとすれば、政治学研究者でチョムスキーの仕事を紹介するひとがいても良いはずなのに、不思議なことに日本では、その本格的研究者が見当たらない。私が推測するに、彼らにとってチョムスキーは「言語学者であって政治学者ではない人物」として映っているのではないか。
ところがアメリカの外交政策を鋭く批判するチョムスキーの仕事は世界中の良心的知識人にとっては常に関心の的であり、今度の「アメリカ同時多発テロ」と「アメリカによるアフガニスタン爆撃」について世界中の良心的メディアは、上記の事件の意味を求めてチョムスキーに殺到したのであった。
そして「9.11」以来、世界中のジャーナリズムから(ただしアメリカを除く)引っ張りだこのチョムスキーに対するインタビューを集めて緊急出版されたのが山崎淳[訳]『9.11−アメリカに報復する資格はない』文芸春秋、2001.(9.11,
New York: Seven Stories Press, 2001.)であった。上記の翻訳をした山崎氏は「あとがき」で次のように語っている。
「言語学者チョムスキーが、9月11日のテロ以来、世界中のジャーナリズムから引っ張りだこで、そのインタビューを集めた本があるから翻訳せよ、という仕事の話を戴いたとき、私は同名の別人だろうと思ったほどである。
しかし、原稿を一読して驚いた。言語学者は世界政治の現実を曇りのない目で直視する政治学者でもあったからだ。本書を読まれた読者の大半がそうであろうと想像するのだが、チョムスキーがつかみ出して見せてくれる世界像・米国像は、米国や日本のいわゆる「主流」の新聞雑誌が描くそれとは全く違うものである。
私は、つい2年ほど前まで20年間ほど、毎週欠かさず『タイム』と『ニューズウィーク』を読んでいた。国際情勢の推移については多少の知識はあると思っていた。米国の事情にも、ある程度は通じているつもりだった。しかし実際は、多くのアメリカ人がそうであるように、本当のことは何も知らなかったのである。
私がいかに迂闊であり眼が節穴同然だったか、本書はそれを見事に証明してくれた。目から鱗(うろこ)が落ちた。本書を翻訳しながら、チョムスキーの他の本も読んでみた。ますます、その犀利(さいり)なアメリカ分析に感じ入った。」
この「あとがき」から少なくとも二つのことを読み取ることが出来る。そのひとつは世界のジャーナリズムから引っ張りだこのチョムスキーでも、アメリカの主要メディア(新聞NY TimesやテレビABCなど)からは無視されているし、一般のアメリカ国民も彼の意見を知ることはほとんどないということである。したがって自国アメリカの実像を知る機会もないということである。
もうひとつは、訳者のように「米国東部のある大学で日本語の教師をして」いて(「あとがき」による)今は翻訳業をしている英語通でも、毎週欠かさず『タイム』や『ニューズウィーク』を読んでいるアメリカ通でも、アメリカが本当は何をしてきた国なのかを知る機会がほとんどなかったということである。『タイム』や『ニューズウィーク』を読めるアメリカ通だからこそ、逆に間違ったアメリカ像を持っている可能性があるということである。
「新刊紹介」の前置きが非常に長くなったが、以上の事情を紹介しておかないと、塚田氏の今回の翻訳が持つ重要な意味が読者には良く分からないのではないかと思ったからである。「日本ではチョムスキーの政治学に関する意見が翻訳し紹介される機会がそれほど少なかった」「だからこそ今回の塚田氏の翻訳が大きな意味を持っている」ということを言いたかっただけなのである。
さて塚田氏の新刊だが、その構成は次のようになっている。
第1章 テロに対する新たな戦争
第2章 覇権か生存か―宇宙戦争
第3章 「ならず者国家」は誰か
第4章 「ならず者国家」の論理
第5章 東チモール問題の深層
第1章の出典はThe New War against Terror(Oct. 18,
2001- at the Technology & Culture Forum at MIT, ZNet Magazine)であり、第2章はHegemony
or Survival (July 3, 2001, ZNet Magazine)、第3‐5章はRogue states: the rule of
force in world affairs(Cambridge, MA: South End Press. 2000.)となっている。つまり、チョムスキーの何か1冊の本を訳出したものではない。
念のために手元にあるチョムスキーの著作Rogue statesで構成を調べてみると次のような目次になっていた。これを見ると、上記翻訳の第3‐5章は上記原典の第1、2,4章を翻訳したものであることが分かる。
1. Rogue’ Gallery: Who Qualifies?
2. Rogue States
3. Crisis in the Balkans
4. East Timor Retrospective
(中略)14. Socioeconomic Sovereignty
ここで、やや残念なのは第3章の「Crisis in the Balkans」が訳出されていないことである。なぜなら、ここで取り上げられているコソボ紛争は、今まで軍隊を海外に派遣したことがなかったドイツが、NATO軍の一員として戦後初めて海外に派兵することになった重大な事件だからである。
そのときドイツ国内では「ミロシェビッチによる民族浄化を許すな」「ヒトラーの犯罪を二度と繰り返させるな」という口実で、労働党はもちろんのこと「反戦平和」を旗印にしていた緑の党すら上記の世論で押し切られ「海外派兵に賛成」という事態に追い込まれたからである。
しかし事実は全く逆で、アメリカ主導で強引にユーゴスラビアへの爆撃を強行した結果、コソボでの「民族浄化」が激化し難民の激増をもたらしただけであった。このことを上記原典の第3章は、湾岸戦争の隠された事実とも比較しつつ、詳細に論証しているので、是非とも訳出し紹介して欲しかったと思うのである。
これがドイツの大きな転換点になった事件だけに、また日本では湾岸戦争や今度の事件を機に憲法9条の改正が大きな問題になりつつあるだけに、原典第3章の訳出が欠けていることを少し残念に思っただけである。訳出されている第2章も大切な問題だが、全体の流れからすると原典第3章と入れ代えても良かったのではないか。
とはいえ、この部分の訳出が欠けているからといって、塚田氏の上記訳書の価値が減ずると言っているのではない。と言うのは、訳出された第1章はチョムスキーが奉職するMIT(マサチューセッツ工科大学)で催された「チョムスキーとの夕べ」での講演を活字にしたもので、これを読むだけでも「同時多発テロ」の背景と意味が十分に理解できるからである。
チョムスキーはアメリカこそが「ならず者国家」であることを同書で繰り返し論証しているのだが、彼の皮肉混じりの論述は、それを「皮肉」だと理解できないと、時には読む人の頭を混乱させる恐れがある。その点で読み手には若干の予備知識が必要であるし、訳出するときにも、その点の工夫が必要であろう。その点で前掲の益岡氏の訳出は参考になる。
というのは、益岡氏の訳出書は各ページに大きく余白を取り、その余白に翻訳だけでは理解できないであろう背景知識の注釈が随所に埋め込まれているからである。また同訳書はアメリカが中南米でどのようなテロ行為を繰り返してきたかが生々しく叙述されていて、この訳書そのものが塚田氏の訳出書の背景知識を豊富に提供することになっているからである。
また下記のホームページは大阪大学の数学科学生が立ち上げたものであるが、これを読むとチョムスキーの他の論文の翻訳も知ることが出来て、さらに理解が深まるはずである。
異分子(仮):チョムスキ・アーカイヴ日本語版 http://www.hct.zaq.ne.jp/akubi/chomsky/
私事で恐縮だが、私が自分の研究会仲間(記号研)と訳出してきた全てのチョムスキー・インタビューや講演も上記のアーカイヴに収録されている。参照していただければ幸いである。(岐阜大学)