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チョムスキー、スポーツについて語る
「見るスポーツ」はどんな役割を果たしているか
翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2004年8月30日
Chomsky原文: SPECTATOR SPORTS
ようやく2004年オリンピックが終わろうとしています。この間はテレビも新聞のオリンピック一色といった感がありました。その結果、イラクやパレスチナでどんな悲惨な状況が展開されていても皆の眼はオリンピックにしか向けられていません。したがって、その裏で監視・密告社会の体制が秘かに着々と進行していたとしても私たちには殆ど知る術がありませんでした。チョムスキーの論考を通じて、いま改めてスポーツの持つ意味を問い直したいと思います。以下は、UNDERSTANDING
POWER: THE INDISPENSABLE CHOMSKY(『権力を理解する:必読チョムスキー読本』)の一節“Spectator
Sports”(pp.98-101「見るスポーツ」)を翻訳したものです。
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Q:スポーツが社会の脱政治的な人々に果たす役割についてもう少し話していただけないでしょうか。私には人々が普通に推測しているよりももっと重要なことと思われるのです。
Chomsky::
それは実際とても興味深いものです。
私は個人的には、それについて全てをよく知っているわけではありませんが、部外者としてスポーツ現象をちょっと見るだけでも、プロスポーツは(つまり参加しないスポーツのことを一般的に言いますが)巨大な役割を演じているということが明らかです。
私が言いたいのは、人々が本当に恐るべき関心をスポーツに注いでいるということは間違いないということです。
実際、私にはこうした視聴者参加型のラジオ番組をつけてよく運転します。そしてスポーツについてのそんな番組を聞くと、そのことが驚くほどハッキリ分かります。
それには何人かのスポーツレポーターがいて、あるいはいろいろな種類の番組の専門家がいます。人々は番組に電話をかけ、彼らと議論します。
まず第1に、聴衆は明らかにそれに対して膨大な時間を捧げています。
しかしもっと顕著な事実は、電話をかける聴衆が恐るべき量の専門知識を持っているということです。彼らはあらゆることについて詳細な知識を持ち、極めて複雑な議論を続けるのです。
そして驚くほど、人々は専門家達に畏敬の念を全く持っていません。それは少し異常なくらいです。
御存知の通り、社会のほとんどの部分では、専門家に従うように奨められています。私たちは異常なくらいに皆そうしています。
しかしこの分野では、人々がそうしないように思われるのです、人々はボストン・セルティックスのコーチと議論できるのを全く楽しんでいます。そして彼に「[あの試合では]こうすべきだった」とか言ったり、彼と激論になったりすることもあるのです。
そこで、実際このスポーツの領域では人々はともかく全く自信を持ち、多くを知っているのです。多くの知識情報が明らかにスポーツの領域に入っているのです。
実際に、それは私に幾つかのことを思い出させます。たとえば、読み書きが出来ないとか科学技術的でないとか言われている世界で(すなわち「原始的」文化と呼ばれるものですが)、非常に複雑な血縁関係のシステムが存在することです。
何人かの人類学者は、これらのシステムが近親相姦を忌避するためのものだと信じています。が、そのシステムが機能的には実用不可能なくらいに複雑なシステムだということを考えると、にわかには信じがたいものです。
そのシステムの構造を見ると、一種の数学のように見えます。それはまるで人々が数学の問題を解くことに成功したいと望むようなものです。そして彼らは数学や算術の知識を持たなくても数学以外の構造に関しては問題を解いてしまうのです。
そして、全ての人が持っているその構造のうちのひとつは血縁関係なのです。そこであなたは手の込んだ構造を血縁関係に作り出し、それに関する専門家や理論などを発展させるのです。
あるいは、読み書き出来ない文化圏で見いだされるもう一つのものは、並はずれた言語システムの発展です。読み書きが出来なくても、その人たちの話し言葉には、しばしば恐るべき複雑さと洗練があり、人々は言語で全てのことを行うのです。
だから、そこには思春期の儀式があり、その中で人々は同じ通過儀礼の時期を経て自分たち特有の若者ことばを発達させるのです。それは普通、実際の言語をいくらか修正したものですが、極めて複雑な精神的操作で区別化し、それが彼らの残りの人生にとって他の人々とは違った自分の言葉となるのです。
これら全てのものに見られることは、人々は正に自分の知能を何らかの方法で使いたいと望んでいるということなのです。そしてもしあなたが多くの科学技術等を持っていないのであれば、それを別の方法でおこなうということなのです。
たとえば私たちの社会では、政治のように自分の知能を使える分野があります。しかし人々は実際には政治に真剣なやり方で関わることができないのです。そこで彼らがやるのは、自分の関心を他のこと、たとえばスポーツに向けるのです。
あなたは従順であるように訓練されています。また興味ある仕事に就いているわけではありませんし、あなたにとって創造的である仕事が周辺にありません。文化的な環境では、普通は安ビカものを受動的に見せられているだけです。政治的社交界の生活はあなたの範囲外です。それは金持ち階級に握られているからです。
だったら何が残っているのでしょうか。そうです、唯一残っているのがスポーツなのです。そこで、あなたは多くの知識・思考・自信をスポーツにつぎ込むのです。
そしてそれが、概して住民が多数を占める社会において果たす基本的機能のひとつでもあると考えます。つまり、本当に重要なことに関係しないように、それから住民を遠ざけるのがスポーツの仕事なのです。
私が思うに、ここに「見るスポーツ」が権力ある巨大な組織・協会によって実際これほどまでに支えられているもう一つの理由があるのです。
「見るスポーツ」が持つ別の役立つ機能がまだ他にもあります。ひとつは、それらは「ショービニズム(好戦的盲目的愛国主義)」を築き上げる素晴らしい方法になることです。このような完全に非理性的な忠誠心を、まだ小さい頃から育て上げ、それを見事に他の分野に移行させるのです。
私が言いたいのは、高校時代に私は一種の「啓示的体験」をしたことを非常に良く覚えています。そうです。突然に悟ったのです。そして自問しました。「なぜ私は自分の高校のフットボールチームが勝つかどうかがこんなに気になるのだろうか」と。
私はチームの誰も知らないのです。彼らも私を知りません。もし私が彼らに出会っても彼らに何て言って良いかも分からないのです。だのに何故こんなに気になるのか。もしフットボールチームが勝利したら何故こんなに興奮するのか、もし負けたら何故こんなに意気消沈するのか。
そしてそうなるのは本当なのです。そこに住んでいましたから、子供の頃からフィラデルフィア・フィリーズのことを心配しなければならないと教えられているのです。
実際、自信の欠如のような心理的現象が明らかに出てくるのです。それはフィラデルフィアで成長した私の年代の少年に影響を及ぼしました。なぜなら全てのスポーツチームがいつも最後の砦であり、負けたときは何か自我への打撃があるのです。
大人はいつもそんな風に横柄に振る舞って、子どもにそのような価値観を植え付けているのです。
しかし肝心なのは次の点です。何か意味のない共同体に対する非理性的忠誠心というこの感覚は、権力への従属訓練、すなわち「ショービニズム(好戦的盲目的愛国主義)」のための訓練なのです。
そしてもちろん、あなたは闘士を見つめています。あなたには決してできないようなことをやってのける人を。あなたは17フィートの棒高跳びなどできません。あるいはこれらの人々がやるようなこれら全ての狂気じみたことをできません。
しかし、それは競争・競技してみようと私たちが考えるモデルなのです。そして彼らは大義のために戦う闘士なのです。だから彼らを応援し始めるのです。そして敵のクオーターバックが競技場から押し出され敵のティームが大破されると、幸せな気分にならざるを得ないのです。
こうしたものは全て人間心理の非常に反社会的側面を築き上げます。私が言いたいのは、そういう側面が人間の心理にあるということです。間違いなく、そういうものが人間真理にあるのです。
しかし、それらは「見るスポーツ」によって、強調され、誇張され、引き出されます。非理性的競争、権力機構に対する非理性的忠誠、極めて恐ろしい価値観への受動的黙認などが、実際に「見るスポーツ」によって、強調され、誇張され、引き出されます。
権威主義的態度に対して、実際、これ以上に根本的貢献をするものを想像するのは困難です。多くの知能を総動員し、かつ人々の関心を他の重要事から遠ざけるという事実を考えると、尚更です。
したがって、この全ての現象を見てみるならば、スポーツが本質的に重要な社会的役割を演じているように、私には思えます。
ただし、それが、この手の影響を与える唯一のものであるとは思いません。たとえば、メロドラマは他の領域で同じ役割を果たしています。それは人々に別の種類の受動性と不合理について教えてくれます。
実際もし、あなたが真剣なメディア批判をすぐに全面的に行いたいなら、結局は、これらの番組を検討しなければなりません。それらがメディアの大半を占領するいくつかのやり方なのですから。
政治的にはっきりものを言う人たちにとっては、それら(「見るスポーツ」や「メロドラマ」など)の大半はエルサルバドルについてのニュースを形成することはありません。その役割は一般的な人々を本当に重要なことから関心をそらすことなのです。
その意味では、エド・ハーマンと私がメディアに関して行ってきた仕事には、実際は欠点があるのです。私たちはそれ(「見るスポーツ」や「メロドラマ」など)について多くを語っていないからです。
しかし、これは全ての教化・宣伝システムで非常に大きな役割を占めているものでから、もっと詳細に研究する価値があります。それについて書いた人々がいます。ニール・ポストマンなどです。ただ残念なことに、私はそれについて更に語るにはまだ充分な知識がありません。
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