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バントゥースタン Bantustans
1950年代から94年まで南アフリカ共和国(南ア)にあったアフリカ人(バントゥー語系の黒人)自治区。ブラック・ホームランド、バントゥー・ホームランド、あるいはたんにホームランドともいわれた。南アの人口の大半を占めるアフリカ人に対して、アパルトヘイト(人種隔離)政策の一環としてつくられたものだった。
1950年代、南ア政府はアフリカ人を部族によって区分し、政府がそれぞれの部族にホームランドとみなした地域をわりあてた。バントゥースタンあるいはバントゥー・ホームランドという呼び名は、さまざまな部族の言語がすべてバントゥー語属に属するとみなされたことに由来する。バントゥースタンは10あり、部族にもとづいて、ボプタツワナ(ツワナ族)、シスカイ(コーサ族)、ガザンクル(シャンガーン族およびツォンガ族)、カングワネ(スワジ族)、クワンデベレ(ンデベレ族)、クワズールー(ズールー族)、レボワ(北ソト族)、クワクワ(南ソト族)、トランスカイ(コーサ族)、ベンダ(ベンダ族)の10のバントゥースタンがもうけられた。うち、トランスカイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスカイの4つはのちに名目上の「独立国」となったが、経済的にも政治的にも南アに依存していた。94年4月に南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、暫定憲法が発効した。この暫定憲法により、10のバントゥースタンは解体されて新生南アフリカ共和国の9つの州に編入された。
1910年に南アフリカ連邦が生まれ、その直後から白人指導者たちの手で人種隔離政策が国策として推進された。13年に原住民土地法が制定され、アフリカ人が所有あるいは占拠できる土地として、原住民居留地(リザーブ)がさだめられた。この居留地の面積は南アの国土のわずか9%しかなく、36年の修正法(原住民信託土地法)でも13%にとどまった。これらの居留地を基礎として、のちにバントゥースタンが建設された。
1950〜58年に原住民問題担当相だったヘンドリック・フルブールトが、50年代初期にバントゥースタン政策をうちだした。51年のバントゥー統治機構法で、アフリカ人の部族が定義された。南ア政府は先の原住民居留地の中からそれぞれの部族にわりあてる地域を指定し、行政組織を設定した。各地域の行政にあたったのは、南ア政府に任命された地域統治機構である。これら地域統治機構は、教育制度、道路、医療施設などの管轄権をもっていた。59年のバントゥー自治促進法によって部族ごとにホームランドが設定され、これをいわば国家単位とみなして、南アから分離する動きがでてきた。アフリカ人はすべてバントゥースタンの市民とみなされたが、南アの市民権はそのままのこされた。
1963年にトランスカイ制憲法が施行されてトランスカイが最初の自治国となり、トランスカイを管理する立法評議会と行政評議会が設置された。また、71年にはバントゥー・ホームランド制憲法が制定され、トランスカイと同じ形式の自治政府がすべてのバントゥースタンに適用されることになった。これによって、南アの大統領にすべてのバントゥースタンに憲法と立法府を設定する権限があたえられた。バントゥー・ホームランド制憲法には、バントゥースタン自治政府の設立にむけて、2つの段階が設定されていた。第1段階として、各バントゥースタンは、南ア政府が任命した地域統治機構のメンバーからなるホームランド立法評議会と行政評議会をもうける。第2段階は、新しい行政府の定員の半数を一般選挙によって選出し、残りの半数には首長層をあてる。この段階まで達成したバントゥースタンは、自治国とみなされた。
自治国と認証されたバントゥースタンは、その後の修正法により、税を徴収し、学校や病院、刑務所、道路輸送、さらには警察にかかわる法律を制定することができるようになった。だがバントゥースタンの自治権は、外交や防衛、通信、銀行などにはおよばなかった。バントゥースタン政府による法制定には、すべて南ア大統領の承認が必要とされ、またバントゥースタンの財政の最終的な管理者は南ア政府だった。
1972年から77年までに、クワズールー、ボプタツワナ、シスカイ、レボワ(以上1972年)、ガザンクル、ベンダ(以上1973年)、クワクワ(1974年)、カングワネ(1977年)に自治政府がおかれ、「自治国」となった。クワンデベレだけは南ンデベレ部族統治機構のもとにおかれた。ついで、76年10月にトランスカイが、77年12月ボプタツワナが、79年9月ベンダが、81年12月にはシスカイが「独立国」となった。あるバントゥースタンが「独立国」となると、そのバントゥースタンの「国民」とみなされる人々は、たとえ一度もバントゥースタン内に居住したことがなくても、南アの市民権をうしなうことになった。
大部分のバントゥースタンは、複数の飛び地からなっており、しかもバントゥースタンにわりあてられる土地は農耕に適さない不毛の地がほとんどだった。したがってバントゥースタンの経済は、ほぼ完全に南アに依存していた。アフリカ人がバントゥースタンの外に居住することはきびしく制限されていたので、バントゥースタンの住民は、毎日数時間かけて、バントゥースタンの外の白人が経営する企業に通勤することを余儀なくされた。また、それ以外は、「外国人」の出稼ぎ労働者として南アに滞在した。
国連は、この名ばかりの「独立」を非難し、バントゥースタンを「独立国」とみなす国は南ア以外どこもなかった。ズールー族のバントゥースタンであるクワズールーの首相マンゴスツ・ブテレジは「独立」を拒否し、南ア全体の多数支配を主張した。1983年ブテレジは、レボワおよびカングワネの首相とともに、南アからの「独立」をうけいれないことを宣言した。
1980年代の後半になると、制度としてのアパルトヘイトが崩壊しはじめた。86年、「独立」バントゥースタン4国の「国民」に対して、南ア市民権を回復する法案が南ア議会に提出された。だが、1カ月後、政府は、バントゥースタンの外に居住している人にかぎって南ア市民権を回復することを決定した。90年5月南ア政府は、のこる6つのバントゥースタンの「独立」計画の放棄を発表した。
アパルトヘイトに反対する闘争を展開してきた、アフリカ民族会議(ANC)は、バントゥースタン制度を完全に解体することを主張した。バントゥースタンの指導者の中には、バントゥースタンが解体されてみずからの政治権力がうしなわれることをおそれる者が少数ながらいたが、アフリカ人の大半はANCを支持した。1994年、バントゥースタンはANCのマンデラにひきいられた新政府のもと、正式に南アに再編入され、旧バントゥースタンの「国民」は南アフリカ共和国の国民となった。[1]
[1]"バントゥースタン" Microsoft(R)
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