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チョムスキー「教育論」第1章
「家畜化」教育を超えて:対談
翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2005年1月17日
下記の対談は、1999年6月に行われた、マセードによるチョムスキーへのインタビューです。これを読むと今まさに東京都の石原都政下で起きている「日の丸・君が代」問題を語っているのかと錯覚しさえします。教育基本法の「改正」を唱えている人たちが何を考えているのか、これに対して教師は何をしなければならないのか、などを深く考えさせてくれるインタビューだと思います。同時に現在、イラクで進行している事態について新しい視点を与えてくれるものと信じます。近く発刊される予定の『チョムスキー「教育論」』第1章の翻訳でもあります。 |
ドナルド・マセード:
私は数年前にボストン・ラテン語学校の一二歳の生徒デビッド・スプリッツラーに興味をかき立てられました。彼は忠誠の誓いを朗唱するのを拒否したことで退学に直面しました。彼は忠誠の誓いは「愛国心を偽善的に勧めるもの」であり、その中では「自由も正義もまったく」ないと考えました。私がお尋ねしたい質問は、教師や役人ができなかったのに、なぜ一二歳の少年が忠誠の誓いに存在する偽善性を容易に見通すことができたのかということです。教師は仕事の性質上、自らを知識人だと考えているものですが、その教師が、そんな少年に明確に分かっていることが分からない、あるいは故意に分かろうとしていないということは、実に驚くべきことです。
ノーム・チョムスキー:
これは理解しにくいことではありません。いまあなたが描写されたことは、学校でいつも起こっている深層レベルの教化の兆候です。それが一二歳の少年でも理解できる初歩的考えを、教育のあるひとに理解できないようにしているのです。
マセード:
高い教育のある教師と校長が、忠誠の誓いを朗唱するよう要求して、生徒に服従を強要しようとして、忠誠の誓いの中身を犠牲にしようとしたことに私は仰天しています。
チョムスキー:
その仰天が私にはまったく分かりません。実際、デビッド・スプリッツラーに起こったことは学校に要求されていることなのです。学校とは教化のための服従を強要するための機関ですから。
学校は歴史を通して常に、支配と強制という体系のなかで、自力でものを考える人間を作り上げるどころか、それとは逆の制度的役割を果たしてきました。そしていったんうまく教育されれば、権力側を支援するやり方で社会化されてしまったことになり、権力側はそのお返しに莫大な報酬で報いることになります。
ハーバードを例にとってみましょう。ハーバードでは数学を学ぶだけではありません。さらに行動に関してハーバード卒業生として要求されることや、けっして尋ねてはならない質問の類も学ぶことになるのです。カクテルパーティの微妙な違い、すなわち適切な服の着こなし方、適切なハーバード訛りの話し方を学びます。
マセード:
また特別な階級内での人脈の作り方や支配階級の目的と目標と利益についても学びますね。
チョムスキー:
そうです。この場合、ハーバードとMITには鋭い違いがあります。MITのほうがハーバードよりも右翼的機関だとの性格づけは間違いではありませんが、MITのほうがハーバードよりも開放的なのです。ケンブリッジ周辺にはこの違いを言い当てている言い伝えがあります。すなわち、ハーバードは世界を支配する人を訓練し、MITは世界を動かす人を訓練する、というものです。その結果、MITはイデオロギー的な支配とは関係が非常に少なく、自立・独立した思考の余地があるのです。
MITにおける私の状況を見れば、私の言っていることがお分かりでしょう。私の政治的仕事や行動に私は何の妨害も感じたことはありません。こう言ったからといって、MITが政治的行動主義の拠点であると私が言っているわけではありません。それどころか未だにMITは、世界についてと社会についての真実の良き部分を回避する制度的役割を演じているのです。さもなければ、もし真実を教えていたとしても、そんな長きにわたって存続できなかったでしょう。
世界についての真実を教えていないからこそ、頭上に民主主義の宣伝を掲げつつ、学校は学生を鞭打たなければならないのです。もし学校が実際に民主主義的であったなら、民主主義についての決まり文句で学生を責め立てる必要はなかったでしょう。単に民主主義的に行動し振る舞っただけでしょうし、そんなことがけっして起こらないことは皆が知っています。民主主義の理想について話す必要があればあるほど、組織は民主主義的ではないのが普通なのです。
これは政策をつくるひとにとっては周知のことですし、時には彼らはそれを隠そうとすらしません。三極委員会(旧・日米欧委員会)は、学校を「若者の教化」に責任のある「機関」だと述べています。学校が概して社会の支配層すなわち富と権力を持つ人々の利益を支援するように設計されているからには、教化は必要なのです。
教育の初期に「権力構造(主として会社・企業家階級)を支える必要性」を理解するように社会化されるのです。教育による社会化のなかで学ぶ教訓は、もし富と権力を持つ人の利益を支援しなければ、あまり長くは生き残れないということです。組織から引っこ抜かれ周辺化されるだけです。学校は、三極委員会の言葉を借りれば「望ましくない考えや情報を歪めたり抑圧したりするプロパガンダ(宣伝扇動)システムの中で機能する」ことによって、「若者の教化」に成功したのです。
マセード:
プロパガンダ・システムの中で働くこれら知識人は、どうすれば「権力の利益に奉仕する虚偽を広める」このような共同謀議から逃げることができるのでしょうか。
チョムスキー:
どこからも逃れることはできません。知識人は実際、機関によって彼らに要求されている貢献を行っているだけなのです。彼らは喜んで(おそらくは無意識に)支配体制の要求を成し遂げるのです。
これは大工を雇っているようなもので、彼がそうする契約になっている仕事をしているとき、それからどうやって逃げるかを尋ねているようなものです。知識人は期待通りに機能したのです。
そうです、知識人は(大工と)まったく同じ貢献をするのです。知識人は、富と権力をもつ人々の利益に合致する程度に現実を正確に記述することによって、期待されたとおりの仕事をするのです。富と権力をもつ人々は、私たちが学校と呼ぶこうした機関を所有し、そうすることによって実際には社会をも所有しているのです。
マセード:
知識人が支配体制を支持し歴史的に不名誉な役割を演じてきたのは明らかです。とても高潔とはいえない彼らの姿勢を考えると、彼らは本当の意味で知識人と言えるのでしょうか。
あなたはしばしばハーバード大学の教授陣の何人かを「人民統制委員」(ロシア革命期におけるコミッサール)だと言ってきましたが、権力機構における共同謀議や、いわゆる「文明化的価値観」を支持する機能的役割を考えると、「人民統制委員」という用語は実にピッタリだと思います。というのは、その「文明化的価値観」が多くの場合まさに正反対のもの、すなわち不幸、大量虐殺、奴隷制度、民衆の一斉搾取を産み出してきたからです。
チョムスキー:
歴史的には、ほとんど正にそのとおりでした。聖書の時代にさかのぼっても、のちに「間違った予言者」と呼ばれる知識人は権力者の特殊利益のために働きました。当時も、それに異議申し立てを行う知識人がいて体制とは異なる世界観を提示しました。その人たちはのちに「予言者」と呼ばれたわけですが、「予言者」というのは不明瞭な言い回しであり、「真の知識人」の翻訳としては疑わしいものです。
さて、これらの知識人は周辺化され、拷問にかけられ、あるいは追放されました。私たちの時代でも事態はさほど変わってはいません。異議申し立てを行う知識人はほとんどの社会で軽んじられ、エルサルバドルのような場所ではまさに虐殺されてしまいます。それがロメロ大司教と六人のイエズス会の知識人に起こったことでした。彼らは、[米国によって]訓練され武器を与えられ米国民の税金で支援されたエリート軍に殺されてしまいました。
あるエルサルバドル人イエズス会士が自分のジャーナルで正しく指摘しました。たとえば彼らの国では、ヴァーツラフ・ハヴェル(チェコスロバキア大統領になった元政治犯)は刑務所に入れられず、滅多切りにして殺され、路傍に捨て置かれたでしょう。ヴァーツラフ・ハヴェルは、西側とってはお気に入りの抵抗者になり、米国議会で演説をして西側支持者にりっぱにお返しをしました。
しかし、それはエルサルバドルで六人のイエズス会士が殺害された数週間後のことでした。しかも彼は、エルサルバドルで抵抗し異議申し立てをしている彼の同士との連帯を示す代わりに、「自由の擁護者」として米国議会を賞賛したのです。この恥知らずな行為は余りにも明白ですから、もう解説の必要はないでしょう。
この恥知らずな行為がどれほど並はずれたものであるのかを簡単なテストが示してくれます。たとえば、次のような仮想の事件を取り上げましょう。チェコの六人の指導的知識人がロシア人によって訓練され武装された治安部隊によって殺害された直後に、一人の黒人アメリカ共産党員が当時のソビエト連邦に行ったとします。そしてソ連邦議会に行って、その暗殺行為への支援を「自由の擁護者」だと賞賛したとします。それに対して、米国の政治家や知識人のあいだで、どのような反応が起きるでしょうか。言うまでもなく、彼は殺人者の制度を支持しているとして即座に糾弾されるでしょう。
ハヴェルの米国議会における演説は、この黒人アメリカ共産党員のソ連邦議会における演説と全く同じ類のものです。だとすれば、なぜ米国の知識人がハヴェルの演説に歓喜したのかを尋ねる必要があります。
米国の代理軍に暗殺された中米知識人の書いたものを、何人のアメリカ人知識人が読んでいるでしょうか。あるいはブラジルの貧困撲滅のために闘ったブラジル人主教ドン・エルデル・カマラのことを、何人のアメリカ人知識人が知っているでしょうか。ほとんどのひとは、ラテンアメリカやその他の残虐な専制政治のもとで反体制運動をしている人の名前すら挙げることはできないでしょう。
ところが私たち米国は、そのような専制国家を支持しそのような専制国家の軍隊を訓練しているのです。そして、その専制国家の知識人が私たち米国の知的文化に対して興味深い批評をしているのです。つまり支配体制にとって都合の悪い事実はまるで存在しないかのごとく即座に無視されるのです。全く隠蔽されるのです。
マセード:
この見ないという社会的構造は、パウロ・フレイレが教育者として記述した知識人の特性を示しています。フレイレによれば、これら知識人は科学的姿勢を要求し、「彼らが科学的研究の中立であると見なすものに隠れようとし、自らの発見がどのように使われるのかに無関心であり、自分が誰のために何の利益ために働いているのかを考えることにすら興味を示さない」のです(1)。
フレイレによれば、これら知識人は客観性という名の下で「まるで自分がその一員ではないかのように社会を単に研究対象として扱う。まるで汚染したり汚染されたりしないために‘手袋とマスク’をはめるかのように、支配体制から賞賛される公平さで、彼らはこの世界に接近する」のです(2)。
私は、これら知識人が、「手袋と仮面」をはめているだけではなく、明白なものが見えないようにする目隠しをしているのだということを付け加えたいと思います。
チョムスキー:
残念ながら私は、客観性についての、このポストモダン的批判と攻撃にはあまり同意できません。客観性は、私たちが捨て去るべきものではありません。それどころか、私たちは真実を追究する際に、それを極めて大切にするよう懸命に努力しなければならないと思います。
マセード:
おっしゃることに異議はありません。私の客観性についての批判は、それを捨て去るということを意味していないからです。問われるべきなのは、客観性という偽装なのです。多くの知識人はこの客観性という偽装を使って、自分の分析のなかに入り込んでくる都合の悪い諸要因を避けようとします。というのは、彼らが支配的イデオロギーに奉仕し、真実の隠蔽に共謀していることを、それらの要因が暴露するかもしれないからです。
チョムスキー:
そうです。支配体制に奉仕し、事実を歪曲し誤った情報を伝える手段としての、客観性という見せかけは鋭く非難されるべきです。そのような立場は社会科学においては更に容易に維持できるものです。外界から研究者に課される制限が非常に弱いからです。こうして自然科学よりも社会科学の理解はさらに浅くなり、しかも直面する問題はさらに不明瞭で複雑です。その結果、見たくないことや聞きたくないことを簡単に無視することがさらに容易になるのです。
このように自然科学と社会科学には著しい違いがあります。自然科学では、研究者の好みの信念と矛盾する事実があっても、自然の事実は研究者がそれを無視して簡単に捨て去ることを許しませんから、間違いは社会科学と比べて長続きしにくいのです。自然科学においては実験が追試されますから間違いは容易に暴露されます。知的努力を導く自律的要因が自然科学にはあるのです。それでもなお、真面目な研究さえすれば真実につながるという保証は何もありません。
「学校は重要な真実を回避する」という最初の点に戻ってみましょう。その点については、つまり真実を語ろうとすることについては、教師の、あるいはすべての誠実な人間の知的責任です。それは確かに議論の余地がありません。正しい聴衆に対して、重大事について最善を尽くして真実を見つけ、真実を語るということは道徳的義務です。
権力者に真実を語るのは文字通り時間の無駄ですし、その努力はしばしば自己満足に過ぎません。ヘンリー・キッシンジャーやAT&Tの最高経営責任者やその他の威圧的機関で権力を行使している人に真実を話すのは、私の意見では、時間の無駄であり意味のない追求です。概して彼らはこれらの真実をすでに知っているからです。
ただし、自分の働く組織・機構で仕事として権力を行使する人が、その組織・機構との関係を絶って一個の人間すなわち道徳的行為者になるなら、その時には、彼らは他のすべての人と手を結ぶことができるかもしれません。しかし権力を行使する人間としての任務にあるとき、彼らに真実を話す価値はありません。時間の無駄です。最悪の暴君や犯罪者に真実を話す価値がないのと同様、権力に話す価値はありません。最悪の暴君や犯罪者は、たとえ行為がどんなに悪辣であっても彼らはまだ同じ人間ですが、権力に真実を話すことだけはとくに誉めた仕事ではないのです。
真実を語るに値する大事な聴衆を見つけ出すべきです。教える場合はそれが学生なのです。彼らは単に聴衆と見なされるべきではなく、共通の関心をもち共に建設的に参加したいと願う共同体の一部と見なされるべきなのです。それは話しかける相手ではなく共に語りあうべき仲間なのです。それが良い教師の資質であり、良い作家や知識人もそうあるべきでしょう。
良い教師は「学生の学びを助ける最良の方法は、自力で真実を発見するよう手助けすることだ」ということを知っています。学生は単なる知識の伝達によっては学びません。機械的記憶で消耗させられ、そのあとで吐き出すだけだからです。真の学習は真実の発見を通して起こるのであって、公式の真実の押しつけを通してではないのです。それでは決して自立的批判的思考の発達に至ることはありません。
教師の義務は学生が真実を発見するよう助けることであり、情報や洞察力を抑制しないようにすることです。たとえ、その情報や洞察力が、学校の方針を作成し設計し実行する裕福で権力のある人々には厄介なことになる可能性があるとしても。
真実を教えることはどういう意味なのか、そして人々が真実と嘘を区別するとはどういう意味なのか、もっと詳しく考えてみましょう。このために私は常識以上のものが必要だとは思いません。私たちの敵だと想定されている社会主義国家の宣伝煽動(プロパガンダ)体制に対して、私たちが批判的立場をとることを可能にするのは、その同じ常識なのです。
すでに示唆しましたように、米国の指導的知識人は、私たち米国の支配権が及ぶ地域の専制政治たとえばエルサルバドルで反体制運動を行った著名知識人の名前を挙げることができません。にもかかわらず、その同じ知識人が元ソビエト連邦で反体制運動をおこなった人物の名前は苦もなく提示できるのです。また彼らは、敵だとされている社会主義国の政治体制における真実と嘘を区別し、民衆に真実を見せないようにするために利用されている歪曲と曲解をなんの苦もなく認識するでしょう。
ところが、私たち自身の政府と私たち米国が支援する専制政治を批判する段になると、いわゆる「ならずもの」国家で広められている虚偽の仮面を引っぺがす彼らの批判的技術は消滅するのです。知識階級はほとんどが、歴史を通して、このような宣伝煽動(プロパガンダ)装置を支持してきましたし、純粋な教義から逸脱する知識人が抑圧されたり周辺化されたりしてはじめて、プロパガンダ・マシーンは一般にすばらしい成功を収めるのです。これはヒトラーやスターリンによってよく理解されていましたし、今日に至るまで閉鎖社会と開放社会の双方とも知識階級の共同謀議を追求し、それに応じた人物に報いているのです。
知識階級は「専門的知識階級」と呼ばれ、政治的・経済的・イデオロギー的機構において、ものごとを分析・実行・決定・運営を行う小集団です。この専門的知識階級は一般に人口の数パーセントで、ウォルター・リップマンが「迷える群」と呼んだ民衆から保護されなければならないのです。この専門的知識階級は「執行機能」を遂行しますが、つまり彼らが思考し立案し、「共同の利益」すなわち企業家階級の利益を理解するということを意味しています。
リップマンが明確に表現した自由民主主義の信条にしたがえば、「迷える群」という大多数の民衆は、私たちの民主主義の中では「傍観者」として機能するだけであって「活動する参加者」であってはならないのです。私たちの民主主義の中では、「迷える群」の成員は、いわゆる「選挙」を通じて指導者を推奨する行事にたまに参加することだけが許されているのです。しかし、いったん彼らが専門的知識階級の成員の一人または別の成員を推奨すると、彼らはその場を去って再び傍観者にならねばならないのです。
そして「迷える群」が傍観者以上になろうとすると、すなわち人々が民主主義的活動の参加者になろうとすると、知識階級はいわゆる「民主主義の危機」に対して敏感に反応するのです。だからこそ、一九六〇年代にはエリートの間に憎悪が渦巻いたのです。なぜならその当時、歴史的に周辺化されてきた人たちが組織化し始め、専門的知識階級の外交方針(とくにベトナム戦争)だけでなく国内の社会政策に異議を唱え始めたからです。
「迷える群れ」を支配する唯一の方法は、学校に対する三極委員会の考えに従うことです。すなわち、「若者の教化」に責任を負う機関としての学校です。「迷える群れ」の構成員は私企業・国営企業の価値と利益を深く教え込まれねばなりません。支配体制の価値観を学校の中で抵抗なく受け容れ、支配体制への忠誠を証明する人のみが、専門的知識階級の一員になることができます。
「迷える群れ」の残りに関しては、混乱を避けるために彼らを一列に整列させ、常に行動の傍観者であることを要請し、重要な本当の問題から注意をそらしておく必要があります。知識階級は、彼らがあまりにも愚かなので自分の問題も巧く処理できないと考えています。したがって彼らが「不当な見解」をもとに行動する機会を持たないように専門家集団が監視し確認する必要があるのです。
民衆の七〇パーセント位がベトナム戦争は道徳的誤りだったと考えていますが、専門的知識階級によれば、そのような理由で戦争に反対する「不当な見解」から彼らを「保護」し、ベトナム戦争が単なる戦術的誤りだったという公式見解を信じさせる必要がある、というのです。「迷える群れ」を彼ら自身と彼らの「不当な見解」から守るために、開かれた社会における専門的知識階級はますます宣伝煽動(プロパガンダ)の技術を磨かなければならないのです。それは婉曲的に「広報」と呼ばれていますが。
他方、全体主義国家における「迷える群れ」は、頭上の適当な場所に金槌を振りかざして置いておき、もし彼らが列からはみ出したなら頭上の金槌を振り下ろして鎮圧するだけでいいのです。しかし民主主義社会においては、民衆を支配するためにむき出しの暴力に頼ることはできません。したがって人心を支配する一形態としてプロパガンダに大きく依存する必要があるのです。知識階級はマインド・コントロール(洗脳)という努力を欠かすことができなくなりますし、学校はこの過程において重要な役割を果たすのです。
マセード:
あなたのご意見は、まったくおっしゃるとおりだと思います。開かれた社会においては、検閲制度が構造の非常に大きな一部をなしています。そして、その制度に依拠して、プロパガンダと「人心を支配する」試みが遂行されるのです。
しかしながら私の意見では開かれた社会における検閲は全体主義社会で行使される検閲の形態とは本質的に異なります。米国内で私が見てきたものは、検閲の仕方が全体主義社会とは異なっているだけでなく、自動検閲の形態に依存しているということです。
メディアと教育がこの自動検閲の過程でどんな役割を演じているのでしょうか。
チョムスキー:
あなたが自動検閲として言われたことは、教化という「服従を良しとし自立思考と戦う」一形態である社会化という手順を通じて、非常に早い時代に始まりました。学校はこの社会化機構として機能しています。目標は、民衆が直接、自分たちや他の人たちに影響を及ぼす大切な問題について重要な質問をしないようにすることです。学校の内容を学ばせるだけではいけないのです。態度を教えるのです。
私が述べたように、もし数学の教師になりたければ、数学について多くを学ぶだけではいけません。それに加えて、いかに振る舞うべきか、いかに適切な服装をすべきか、どんな類の質問ならしても良いか、いかに適合すべきか(いかに従うべきかという意味です)等をも学ばなくてはなりません。もし自立性を見せ過ぎたり、しばしば職業規範について質問し過ぎたりすれば、特権機構から放り出されることもあり得ます。
だから成功するためには支配体制の利益に奉仕しなければならないということをいち早く学ぶのです。したがって教師は物静かにして、学生には真の権力をもつ人々の利益に奉仕する信念と教義を染みこませなければなりません。企業家階級と彼らの個人会社は、国家企業結合体がその代表をしています。しかし学校は唯一の教化機関ではけっしてありません。他の機関も、教化過程を補強するために歩調をあわせて機能しています。
私たちがテレビから何を吹き込まれているかを見てみましょう。私たちは一連の空虚な番組を見るように勧められています。娯楽として企画されてはいますが、実は人々が真の問題を理解しないように、あるいは問題の真の原因を発見しないように、注意をそらす機能をしているのです。こうして頭を使わない番組は視聴者を社会化し、受動的消費者になるよう仕向けるのです。満たされない人生に対処する一つの方法はもっともっと物を買うことだからです。
そのような番組は人々の情緒的要求を起こさせ、ほかの要求から目を逸らさせるのです。公共空間はますます解体される一方ですから、学校と比較的わずかな公共空間だけが人々を良き消費者にするために機能するのです。
マセード:
これは個人主義の過大な称賛と合致していますね。
チョムスキー:
いや、そうではありません。私は個人主義の一形態だとは見ません。個人主義は、本領を発揮すれば、行動に対して何らかの責任を必要とします。しかしこの知性を必要としない娯楽の場合は、単に人々を体制に順応させ、ほとんど感情と衝動で支配されるようにするだけです。その衝動とは、もっと消費し良い消費者になることです。この意味で、メディア、学校、大衆文化(ポピュラーカルチャー)は理性ある人々へと分配され、政策立案者と政策決定者は社会と残りの人々に分配されるのです。
したがって理性をもちあわせ専門的知識階級に入る人々が成功するためには、ラインホールド・ニーバーの言う「必要不可欠な幻影」と「感情的に説得力ある過度の単純化」を作り出さなければならないのです。「迷える群れ」(だまされやすい愚か者)が、いずれにしろ彼らでは解決できないそうにない複雑な真の問題に悩まないようにするための配慮なのです。
人々の目を真の問題からそらし、お互いを孤立させることが目標です。共同体を組織したり、共同体との関係を確立したりする試みはみな押しつぶさなければなりません。全体主義国家と同様、開かれた社会でも、形こそ違え検閲が非常に現実化しています。支配体制(教義機構)にとって不愉快で厄介な質問は立ち入り禁止で、踏み込んではいけない聖域なのです。都合の悪い情報は隠されます。
このような結論に達するためには遙か遠くを探す必要はありません。メディアでは何が報告され何が除外されているのかを、ただ公正に分析しさえすれば良いのです。どんな情報が学校で許され何が許されないかを公正に理解しさえすればよいのです。平均的知能をもったひとなら誰でも、メディアがいかに情報を操作し、メディアが好まない情報はいかに検閲しているかがわかります。情報の歪曲や抑圧を発見するには少しばかりの努力が必要かも知れませんが、必要なのは真実を知ろうという要求です。
米国の保護国ラテンアメリカに対して、知識人が(社会主義国という)敵の領土にたいしてと同じ姿勢を取ることができない理由は何もありません。私たちの敵が犯した残虐行為の分析調査に使ったのと同じ知性と常識を使う意欲があるかどうかだけなのです。
もし学校が一般大衆の役に立つとすれば、人々に自己防衛の技術を提供しているでしょうが、これは世界と社会についての真実を教えることを意味します。ここでいま議論している類のことにまさに学校は精力を傾け献身してほしいものです。というのは開かれた民主主義的社会で成長する若者が、国営全体主義的社会におけるプロパガンダ装置にたいしてだけではなく民営化されたプロパガンダ機構にたいしても自己防衛できる技術を身につけることができるようにすべきだからです。この民営化プロパガンダ機構には、学校、テレビなどのメディア、何を国民の関心事にするかを決める新聞、知的な定期刊行物が含まれていますし、それは教育産業をも本質的には統制しています。
教育機構を支配している人たちは「人民統制委員(コミッサール)」ともいうべき階級です。人民統制委員はおもに支配的社会秩序を再生産し正当化し維持するために働く知識人であり、彼らはその社会秩序から利益を得るのです。他方、真の知識人は、真に重要なことについて真実を究明しそれを皆に伝える義務があります。この点は西側知識人に失われているわけではありません。彼らは公式の敵には初歩的道徳的原理を適用することに何の問題もないのですから。
マセード:
これは選択的道徳主義の一形態ですね。また、この選択的道徳主義に加わることで人民統制委員は、テオドール・アドルノのいう「見ることを堅く拒否する」ことに自分たちが共謀していることを正当化する理論的根拠をえられるのです。
私は非常に異なる二つの独裁政権、ポルトガルのアントニオ・サラザール独裁政権、スペインのフランシスコ・フランコ独裁政権下で生きてきました。これら全体主義政権での検閲はあからさまで疑う余地のない警察による統制でした。
しかしここ米国民主主義下での私の経験では、検閲はさらに広がり、しばしば意識下で働く自己規制であったり、仕事関係では同僚(学生も含めて)間で働く相互規制であったりもします。
民主主義についていえば、「第一世界」で第一級の最も民主的社会であると自慢している国、米国で、学校がいまだに極めて非民主的であるというのは皮肉ではないでしょうか。学校は、統治構造に関してだけではなく(たとえば校長が選挙で選ばれず任命制です)、支配的イデオロギーを再生産する場所としても、非民主的なままです。このことが逆に自立的批判的思考の育成を阻止することになります。
学校が本質的に非民主的だとすれば、教育はどうしたら学生の創造性・好奇心・知的要求について批判的思考を励ますことができるでしょうか。
チョムスキー:
ご指摘になった現在の非民主的学校教育に代わるものが昔はありました。私個人は非常に幸運にも民主主義的理想に基づいた学校に行くことができました。その学校はジョン・デューイの考え方に強く影響され、子どもたちは自分で真実を発見する過程として調べたり学んだりすることが奨励されました。
ですから、民主主義教育を強要しなければならない学校はどれもすでに疑わしいのです。学校が民主主義的でなければないほど、学校はますます民主主義の理想を教え込む必要があります。もし学校が実際に民主主義的であったなら、つまり実践を通じて子どもたちに民主主義を経験させる機会を提供しているのであれば、民主主義についての決まり文句を子どもたちに教え込む必要を感じないでしょう。
再び私は幸運だと感じているのは、私の学校時代の経験では、私たちの民主主義がどんなにすばらしいものであるかという嘘を丸暗記しなくても良かったということです。デューイが北米自由主義の指導的人物であり、二〇世紀の偉大な哲学者のひとりだったとしても、デューイの影響はすべての学校に広がっていたわけではなかったのです。
少年の頃、私は夏のキャンプで相談役になり、先にあなたが述べられた忠誠の誓いの朗唱にそっくりの、教化プロセスの成功をよく目にしたことを覚えています。意味も分からない愛国的なヘブライ語の歌を朗唱するとき、子どもたちが感情的になって泣き出す子もいたのを私は覚えています。中には言葉を完全に間違えて憶えていた子もいましたが、だからといって感情的な興奮状態を損なうものではありませんでした。
真の民主主義的授業とは、民主主義の理想を丸暗記させ愛国心を注入することではありません。そんな風に学生は学ばないということを私たちは知っています。真の学習は、民主主義の本質とそれが実際に機能する仕方を、自力で発見するよう促されるときに起こるのです。
民主主義はどう機能するものかを発見する最良の方法は、残念ながら学校はあまり巧くやっていませんが、とにかくやってみることです。学校と社会で、民主主義が機能しているかどかをはかる確実な尺度は、「言っていること」と「していること」が、どの程度一致しているかです。そして学校でも社会でも多くの場合、理論と現実には大きな溝があることを私たちは知っています。
理論上、民主主義ではすべての個人が自分たちの生活に関係のあるすべての決定に参加することができます。たとえば国の収入支出、社会がどんな外交政策をとるべきか等を決定することです。単純なテストで理論と現実のギャップが分かります。理論では、すべての個人が自分たちの生活に関連のあるすべての決定に参加することができることになっていますが、実際は政府レベルに権力が集中し、個人や集団が自分たちの問題を(たとえば彼らが採用したい外交政策を)自分で決定することができないようになっているのです。
現在のコソボとイラクにおける爆撃を見てみましょう。三月二四日の爆撃以前、コソボの状況は確かにひどいものでした。しかし三月二四日に爆撃が始まり、その数日中に、数千人の難民がコソボから追い立てられ、強姦・大量殺人・拷問が行われたのです。それが、少数民族アルバニア人を保護するという人道主義的名目で行われた爆撃の直接的結果であり、実際に予測された事態でもありました。
既にひどかった状況が爆撃後いっそう破滅的になったことを理解するのにたいして努力は必要ありません。コソボでは既に恐ろしい状況だったのに、それが、NATOの「人道的介入」以後、破滅的レベルにまでエスカレートしたのです。世界人権宣言に依拠して、NATOはアルバニア人の民族浄化をやめさせるため「人道的介入」の権利があると主張しました。
しかしご覧の通り、NATOの爆撃は即座にコソボにおける民族浄化と大虐殺の急増をもたらしました。この爆撃が少数民族アルバニア人の殺害・強姦・拷問の急増につながったのは、寝耳に水ではありませんでした。実際、NATO軍総司令官ウェスリー・クラークは、これが爆撃の「完全に予測可能な」結果だと直ちに新聞社に通知していたからです。
もし私たちがコソボにおける「人道的介入」を正当化するのであれば、同じ論法でNATOは他の国を爆撃しなければならないのです。たとえばコロンビアとか、NATOの一員であるトルコを、です。
コロンビアでは、アメリカ国務省の見積もりに従えば、コロンビア政府と準軍事組織による政治的殺害の年間レベルが、NATOによる爆撃以前のコソボの水準とほぼ同じで、一〇〇万人を遙かに越える難民がいます。主としてコロンビア政府と準軍事組織による残虐行為から逃げてきた人たちです。
一九九〇年代を通して暴行が増え続けていたときは、コロンビアは米国から武器および軍事訓練を受けていた西半球の筆頭国でした。そのコロンビアへの支援は今でも「麻薬戦争」という口実の下でさらに増えつつありますが、そのような口実は真面目な監視者ならみな退けるものです。クリントン政権はコロンビアのセサル・ガビリア大統領にはとくに寛大でしたが、人権団体によれば、彼が大統領だったからこそ「身の毛もよだつ暴力」が起きたのです。
トルコの場合、一九九〇年代のクルド人鎮圧は、NAT爆撃以前のコソボの規模を遙かに越えていました。そして一九九〇年代中頃に頂点に達しました。一つの指標は、トルコ軍が地方を壊滅的に破壊していたので、百万人以上のクルド人が一九九〇年から一九九四年までに地方からクルドの公式首都ディヤルバクルに逃れたことです。
一九九四年に二つの記録がありました。ひとつは、一九九四年がトルコによる「最悪のクルド地方鎮圧の年」であり、二つ目は、その年トルコが「単独として米国製軍事兵器の最大輸入国になった、したがって世界最大の武器購入国」になった年でもあった、とジョナサン・ランダルは現地から報告しています。トルコがクルド人の村を爆撃するのに米国製ジェット機を使用したことを人権グループが暴露したとき、クリントン政権は、インドネシアその他でおこなっているように、武器供給禁止を要求する法律を巧妙に回避する方法を発見しました。
もう一度言いますが、もしNATOがコソボ爆撃を正当化するものとした国際人権宣言の論法にしたがうのであれば、それ以上の論拠でNATOはワシントンを爆撃することを正当化できることになるでしょう。
次にラオスの場合を考えてみましょう。長年にわたり数千人の人々が、ほとんどが子どもや貧しい農民ですが、北部ラオスのジャール平原で殺されました。明らかに民間人を標的にした史上最悪の爆撃地点であり最も残酷なものでした。貧しい農村社会にたいするワシントンの猛攻撃はその地域の戦争とはほとんど関係がありませんでした。
最悪の期間は一九六八年に始まりましたが、それはワシントンが定期的な北爆(北ベトナム爆撃)を終え、(民衆や企業の圧力で)和平交渉に着手するように強要されていたときでした。ヘンリー・キッシンジャーとリチャード・ニクソンはその時ラオスとカンボジアの爆撃へと飛行機を移動させる決定をしました。
死をもたらしたのは、bomby「爆弾ちゃん」(babyとの掛詞)と名付けられたクラスター爆弾、すなわち地雷よりもさらに悪辣な小型対人兵器でした。明らかに人間を対象とし、トラックや建物には影響がないように設計されています。ジャール平原は数億個のこうした殺人装置で満ちあふれ、製造会社ハネウェルによれば不発率二〇−三〇パーセントの故障品です。
この数値が示唆するのは、明らかにお粗末な品質管理かあるいは一般市民をゆっくりと殺害する方針か、です。「爆弾ちゃん」は米国が配備した高度な科学技術兵器(そのなかには家族が避難する洞窟すら貫通する先進ミサイルも含まれています)のほんの一部に過ぎません。「爆弾ちゃん」による現在の年間死傷者数は数百から「二万」と見積もられています。
ウォールストリートジャーナル紙の古参アジア通信員バリー・ウェインがアジア版で報告した記事によれば、「年間の全国死傷者率は二万人」で、その半分以上は死者です。だとすれば、その控えめな見積もりは、ラオスにおける危機はその一年だけでも、爆撃以前のコソボに匹敵するものだということを示しています。しかも、キリスト教メノナイト派中央委員会が報告した分析によれば、死者の半数以上が子どもに集中しているのです。メノナイト派は、継続する悲惨な死を少しでも食い止めるために一九七七年以来そこで活動してきているのです。
米国のメディアは、コソボ爆撃が民族浄化やほかの残虐行為を悲劇的に増大させたにもかかわらず、「アルバニア人の民族浄化をやめさせるため」と称するNATOのコソボ介入に拍手喝采をしました。しかしラオスの場合は、私たち米国がその死に直接の責任があるにもかかわらず、米国の反応は何もしないということでした。メディアとニュース解説者は、対ラオス戦争が「秘密戦争」に指定されていたという基準に基づいて沈黙を守りました。秘密とはつまり有名だが伏せられていることを意味します。一九六九年三月以降のカンボジア爆撃の場合もまったく同じでした。
当時の自己検閲の水準は並はずれたものでした。現在もまた同じですが、このゾッとするような例との関連は明白です。国際司法裁判所がスロボダン・ミロシェビッチを人間性にたいする罪で起訴したとき米国メディアがはしゃぎまわっていたのに反して、ラオス大虐殺の立案者のひとりキッシンジャーは自由の身のまま「外交問題の専門家」として賞賛され、コソボ爆撃についての彼の「見解」がメディアに熱心に取り上げられているのです。
イラクの場合も事情は同じです。イラクでは、冷酷な生物兵器で一般市民が殺戮されるなど、残虐行為にあふれ、この五年間で五〇万人のイラクの子どもたちが死んでいます。この殺害にたいして国務長官マドレーヌ・オルブライトが一九九六年の全国放送のテレビで意見を求められたとき、彼女は「その犠牲にはそれだけの価値があると考えている」と答えたのです。現在の概算でも、いまだに毎月四千人の子どもたちが殺されていますが、その犠牲は彼女にとって今なお「その価値がある」のでしょう。
湾岸戦争は、詳細に分析すると、米国の「人道的介入」すなわち米国流「民主主義」を擁護するために世界中に介入するという指導原理に基づいて遂行されたことが暴露されています。メディアと知識階級は本分を守り、ブッシュ大統領の言い回し「米国は従来と同じ姿勢を堅持する。侵略にたいして、法の支配を力の支配で置き換えようとする人々にたいして」をオウムのように繰り返しました。数ヶ月前に米国がパナマを侵略したとき、米国が米国の原則「侵略にたいして、法の支配を力の支配で置き換えようとする人々にたいして」に違反していたのですが。
当時ブッシュ大統領は米国の対ニカラグア戦争で「不法な軍隊の使用」をしたとして世界司法裁判所に非難された唯一の国家元首でした。ブッシュの主張する高潔な原理は、米国が湾岸においても他のどの国においても高潔さをまったく保持していなかったので、世界で嘲笑の対象でした。サダム・フセインにたいする空前の報復対応も、彼の残酷なクウェート侵略のためではありません。マヌエル・ノリエガが数年前に行ったのと同じように、彼が誤って米国を怒らせた[米国に対する不服従]からでした。
両者とも悪漢でしたが、ブッシュ大統領のかつてのお友達でもありました。サダム・フセインは殺人的悪漢ですが、湾岸戦争以前と変わりません。しかしその当時は私たち米国のお友達であり、大好きな貿易相手国でした。クウェート侵略は確かに残虐でしたが、米国支援のもとで彼が行った[クルド人虐殺などの]残虐行為には及びもつきませんでしたし、米国とその同盟国がおこなった多くの犯罪とほとんど変わらないものでした。
たとえばインドネシアによる東ティモールへの侵略と併合は、ほとんど民族抹殺(ジェノサイド)というレベルに達していました。人口(七万人)の四分の一が殺され、人口比では同じ頃のポルポト派による大量虐殺をはるかに越えるものです。ところが米国とその同盟国の双方とも、これらの虐殺を支援していたのです。たとえばオーストラリアの外務大臣は、東ティモールへの侵略と併合を自国が黙認していることを正当化し、「世界はまったく不公正な場所だ。力による併合の例は数限りない」と簡単に述べただけでした。
しかしイラクがクウェートを侵略したとき、オーストラリア政府は「大きな国が小さな隣国に侵入し、それを併合することはけっして許されない」と世界中に響き渡るような調子で侵略を非難しました。湾岸における米国の本当のねらいは、中東のずば抜けたエネルギー資源をひきつづき米国支配下におき、それが生み出す莫大な利益によって米国と仲間の英国の経済を支えることだったのです。
マセード:
本当に悲しいことですが、あなたがお話しになった事実があまりに明白であるにもかかわらず、米国の知識階級は、少数を除いては、世界について冷徹な理解を深めるための必要な歴史的連帯をつくりあげるに至っていません。
副大統領ダン・クゥェールは思わず口をすべらせて「侵略軍の感動的な勝利」と言って、湾岸戦争を正しく見抜きました。ブッシュ大統領も、ボストンのチャンネル五のTVニュースキャスター、ナタリー・ヤコブソンのインタビューで、思わず漏らした本音で身動きがつかなくなりました。ブッシュは湾岸戦争に言及して「私たちは遂に侵略(アグレッション)を成し遂げた」と言ったのです。彼はおそらく「私たちは遂に使命(ミッション)を成し遂げた」と言うつもりだったのです。
一見したところ、ブッシュとクゥェールの両者が思わず間違って失言してしまったように見える発言は、彼らのつく大きな嘘の教育学がもつ意味を暴露しています。ホセ・オルテガ・イ・ガセットが「もし我々のいわゆる文明が‘我々米国の策略に委ねられ’ヘンリー・キッシンジャーのような人民統制委員の意のままになるなら、原始主義と野蛮主義の復活をもたらすだろう」と主張する本質を、彼らの発言はもっと正確に捕らえるという程度にまで至っているということなのです。
あなたが指摘されたコソボ、トルコ、コロンビア、ラオスにおける野蛮の例は、文明の野蛮主義を示すものです。多くの場合、我々のいわゆる文明によって達成された高水準の洗練された専門的技術は、ユダヤ人のガス処理、ラオスやカンボジアへの爆撃で証明されているように、もっとも野蛮な方法で使われてきました。戦争の親玉サダム・フセインを依然として権力の座に居座わらせたまま、女性や子どもを含め数万人の無実の犠牲者を殺し、イラクを工業化以前の水準にまで破壊したと自慢するのは、確かに啓蒙された文明ではありません。
チョムスキー:
おおかたの予測では、米国の軍事行動は、依然として国連による国際査察を妨害し、サダムに武器計画を思い通りにつづけさせ、イラクの殺人的暴君をひきつづき権力の座に居座らせるだろうということです。
また強調されなければならないのは、
サダム最悪の犯罪は、彼が米国のお気に入りの同盟国であり貿易相手国であった時におこなわれたこと、
彼がクウェートから撤退直後に、反乱を起こしたイラク人(初めはシーア派、後にクルド人)を虐殺する行動に転じた間も、米国がそれを静観したこと、
このとき米国は、米国が手に入れたイラク軍の武器を彼らに手渡すことさえ拒絶したこと、です。
公式の報道では、正確に何が起こったのかは滅多に分からないものです。また公式の報道は、真実を明らかにする構造を提示してくれません。したがって民主主義的世界を求める教育は、嘘と虚偽を暴露する連帯をつくる批判的道具を生徒に提供すべきなのです。民主主義の神話を生徒に教え込む代わりに、学校は民主主義の実践に取りくませるべきなのです。
マセード:
学校が民主主義の神話を学生に教え込むのをやめることはあり得ないでしょう。というのは、この神話の煽動力を使って、支配的イデオロギーは真の文化的民主主義の発現を押さえ込み、現在の文化的経済的主導権を維持しようとしているからです。
もちろん私は、学校は学生を民主主義の実践に参加させるべきだというチョムスキーさんのご意見に同意します。しかしそうするためには、既に何度もご指摘されたように、学校は神話のイデオロギー的内容を解読する批判的武器を学生に提供する必要があると思います。
そのような武器が与えられて初めて学生は、たとえば、なぜデビッド・スプリッツラーの学校の教師や校長(彼らは支配体制のために身も心も投資してきた人物です)が、忠誠の誓いの原理を犠牲にするためなら、どんなことでもしかねなかったかを、もっとよく理解することができるようになると考えるからです。
真実の中で生きたいと望む個人は、支配体制にとって真の脅威を代表しており、したがって取り除かれるか、あるいは少なくとも無力化されなければならないのです。だからこそ、教師や校長は、スプリッツラーが真実の中で生きるのを妨げようとしたのでしょう。したがって、階級なき社会だとされている私たちの社会の、偽善と階級の違いをデビッド・スプリッツラーが指摘しようとし、それを教師と校長がやめさせようとするのは驚くに当たりません。
チョムスキー:
階級なき社会に私たちが生きているという神話は、まさに冗談ですが、多くの人たちが信じています。州立大学で教師をしている私の娘は、ほとんどの学生が自分を中流階級だと考え、階級意識のきざしすら示さないと私に言っています。
マセード:
そのまさにアカデミックな会話が階級意識のなさを物語っていますね。メディアでは労働者階級と中産階級(たとえば「中流階級のための優遇税制措置」というように)という用語が使われるのに反して、支配者階級や上流階級という言葉使われることはけっしてありません。
チョムスキー:
確かに支配階級という用語は見ませんね。まったく伏せられているのですね。そして私の娘のクラスにいるような労働者階級の学生は、自分を労働者階級だとは考えないのです。これが真の教化のもうひとつの表れでしょう。
マセード:
支配階級のエリートは、知識階級の援助を得て、米国が階級なき社会であるという神話を永続させる仕組みを作るために、必要なことはなんでもしてきました。階級問題が学校教育の成功にとって決定的要因であるにもかかわらず、この国の教育の失敗に関するあらゆる議論でけっして言及されない一変数は階級です。
落第しそうな学生のほとんどは一般に下層階級の出身です。それにもかかわらず教育者は問題を分析し見解を述べる際に、その要因として階級という概念を用いることを厳正に回避します。その代わりに、彼らはあらゆる種類の婉曲語法、たとえば「経済的にぎりぎりだ」とか「恵まれない境遇」とか「危機に瀕している」学生だとかの用語を使うのです。それが階級的困苦の現実だと銘うたない手順なのです。そしてもし分析の一要因として階級を使用すると、即座に階級闘争に従事するものとして告発されるのです。
一九八八年の大統領選挙のことを覚えているでしょう。その時ジョージ・ブッシュは民主党の対立相手をこう言って叱りとばしました。「リベラルな支配者にこの国を分裂させさせるつもりはない。そんなものは欧州の民主主義か何かのためのものだ。米国のためのものではない。私たちは階級に分裂させられることはない…私たちの国は、大きな夢の、大きな機会の、フェアープレーの国であり、米国を階級によって分裂させようとする企みは失敗するだろう。なぜならアメリカ人は自分たちの国が特別な国であることを認識しているからだ。機会が与えられた人は誰でもアメリカの夢を実現させることができるからだ」
チョムスキー:
そうです、もし金持ちならばまさに特別な国ですね。一つだけ最近の実例を挙げましょう。昔から企業に与えられてきた大減税や莫大な補助金で金持ちがますます金持ちなっているのに、税制がますます非累進的になっているのを見てください。
ブッシュが階級闘争について言及したのは、その意味で正しいのです。しかしながら、それは貧しい人をさらにもっと押しつぶすよう意図された階級闘争なのです。すべての指標は、子どもの貧困が相変わらずきわめて高く、「家族の価値」を推進するために実施されている計画が栄養失調をさらに悪化させていることを示しています。
福祉国家への攻撃は、貧困者を、福祉援助を受けている母親を、助けを必要としている人を、さらに粉砕します。その一方、金持ちの乳母には手をつけず、企業移転のためには大金を援助するのです。私たちは福祉国家をもっていますが、それは金持ちのための福祉国家です。金持ちにとって効率的に機能する福祉国家を維持するためには、非常に高度な企業家的階級意識をもたなければなりません。そして残りの人々には階級なき社会に生きていると確信させなければなりません。学校はつねにこの神話を存続させるために役割を果たしてきたのです。
註
この対話は一九九九年六月に行われた。
1 パウロ・フレイレ著『教育政策:文化、権力、解放』(サウス・ハドレー、マサチューセッツ:ベルゲン&ガーベイ社、一九八五年)一〇三頁。
2 同上
The Trilateral Commission :http://www.trilateral.org/
三極委員会(旧・日米欧委員会)の公式サイト。日本、アメリカ、ヨーロッパの民間非営利による政策協議機関。3地域の政治、経済情勢をテーマとする総会を毎年開催し、政策研究、政策提言をまとめた「トライアングル・ペーパーズ」を刊行している。(事典 現代のアメリカ:URLリンク集)
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