無料-
出会い-
花-
キャッシング
Constructive Action?
建設的な行動?
by Noam
Chomsky
May
11, 2002
ZNet Top
| Mideast Watch
Home
1年前、へブルー大学の社会学者バルーチ・キマーリング氏は次のように言いました。
「私たちが恐れていたことが起りました。戦争、『邪悪な植民地戦争』は避けることができない宿命であるよう思われます」と。
彼の同僚であるゼヴ・スターンヘルは次のように注意を促しています。
「イスラエルのリーダーシップは今や植民地政策である。この政策はアパルトヘイト時代の南アフリカ共和国において白人の警察が黒人たちの貧しい近隣『自治』諸国を奪取していたことを思い起こさせます。
両方の政策とも明らかに次の点で共通しています。それはこの紛争において2つの民族国家的な集団の間に歴然とした力の不均衡があるということです。
この紛争の中心は35年の間厳しい軍事力による支配のもとでのテロ行為であるということです。
オスロ「平和プロセス」は支配の様相を変えました。が、根底的部分を変えたわけではありません。その証拠に、エフッド・バラック政権に参画してからまもなく、歴史家シオモ・ベンアミは次のように言いました。
「オスロ合意は、新植民地主義という基本的な思想、すなわち一方が他方に永遠に依存するという設定で作られた。」
彼はやがて2000年、キャンプデイビッドでのアメリカ・イスラエル提案を作成しました。そしてそれが現在の状態を継続させているのです。
その当時、ヨルダン川西岸にいるパレスチナ住民たちは、200のバラバラの地域に閉じ込められていました。ビル・クリントンとイスラエル首相バラックはこの提案をさらに前進させました。
すなわち、この離散している200の地区を3つの地区(canton)に合併させ、それらをお互いに分離することによって事実上、イスラエルの支配下においたのです。
さらに第4の離れたパレスチナの居住地、つまりパレスチナの人たちがコミュニケーションを図る中心地である西エルサレムの小さな地域からも、それらの地域を分離してしまったのです。
さらに分離されている第5の地区(canton)がガザでした。アメリカの主流メディア(新聞・テレビ)のどこを探しても、これらの状況を示す地図が見つからないのはうなずけるところです。
この原型となっているにおけるバンツースタン「ホームランド」の地図も見つけることができません。これは、かって指摘したように、南アのアパルトヘイト支配下における「自治国」ですが。
これに対するアメリカの役割が決定的であり、これは将来も続くであろうことを疑う人はだれもいません。その役割がどんなものであったか、そして国内ではどのように受け止められているかを知ることはとても重要です。
「ハト派」の意見をニューヨークタイムズ編集長が掲載しました。それはブッシュ大統領の「道を切り開く」演説と彼が述べた「姿をあらわし始めたビジョン」を絶賛したものでした。
その最初は、「パレスチナ人のテロを直ちに終わらせる」というものでした。そして、「凍結、その後の押し戻し、ユダヤ人の入植、新しい国境の取り決め」と続きます。これがパレスチナ国家の設立を可能にするというのです。
その意見によれば、もしパレスチナ人のテロが終われば、イスラエルの人々は、イスラエルが退くことを交換条件にした「全面的な平和とパレスチナ国家の承認」というアラブ同盟の歴史的な提案をもっと真剣に受け止めるだろうと言うのです。
しかし、それにはまず、パレスチナの指導者たちは、テロを止め、自分たちが合法的な外交のパートナーであることを身をもって示さなければいけない、というわけです。
現実の世界は、自己献身的な描写とは似ても似つかないものです。何故なら、これは1980年代の事実上の焼き直しにすぎないからです。その当時、アメリカとイスラエルは、交渉と政治的な解決というPLOの提案を徹底的に回避しようとしていました。
「姿を現しつつあるビジョン」に対する最大の障壁は、現実の世界では、一方的なアメリカ側の拒絶であったし、今もそうなのです。現在の「アラブ同盟の歴史的な提案」と呼ばれているものも、以前とほとんど変わっていないのです。
その提案は基本的には、1976年1月の国連安全保障理事会決議と同じ言葉を繰り返しています。それは国際的に承認された国境をもとに政治的を図ろうとするものです。
それは「適切な協定をもって、その地域における全ての国家主権、領土の保全、政治的独立を保証する」というものです。この提案は事実上、アラブ諸国やPLOを含めた全世界から支持を受けていました。
しかし、イスラエルからは反対され、アメリカからは拒否されていました。それゆえ、歴史からも拒否を受け抹殺されたものです。同様にこれまでいろいろなものがアメリカによって阻止され、公けの論評においても、ほとんどが押さえつけられ、表に出ることはありませんでした。
占領地における指導原理が絶え間のない恥辱的なものであったということは驚くべきことではありません。何故なら、パレスチナの人々に対するイスラエルの計画はモーセ・ダヤンによって作成されたガイドラインに従っていたからです。
彼はパレスチナが置かれている苦境に対してより同情的な労働党の指導者の一人でした。そのダヤンでさえ、30年前、内閣に対して次のように忠告していたのです。
「イスラエルは難民に対して、『我々は解決策を全く持っていない。あなたたちは犬のように生き続けなければならないだろう。出て行きたい人には出て行ってもよい』とはっきり言うべきだ」と。
反論を受けたとき、彼はベン・グリオンの言葉を引用して言いました。
「道徳的な点からシオニストの問題を解決しようとする人は、シオニストではない。」
彼はまたイスラエル初代大統領チャイム・ワイズマンの言葉を引用することもできたでしょう。ワイズマンは次のように考えていたのです。
「ユダヤ国ホームランドにおいて数十万人の黒人の運命など重要な問題ではない」と。
パレスチナの人々は長い間、拷問、テロ、財産の破壊、イスラエル人の入植による移住、基礎的資源、特生活必需品としての水を奪われてきました。これらをもたらした政策は決定的なアメリカの支持とヨーロッパの黙認によるものです。
「バラク政府はシャロン政府に驚くべき遺産を残しつつある」と、政権の移行した時、イスラエルの新聞は報じました。
「オスロ合意の前、アイエル・シャロンが1992年に入植・建設大臣になって以来、イスラエル人の住宅着工件数が、その領域において最高に達している。」
しかも、その資金はアメリカの納税者によって供給されているのです。そして、いつも必ず次のような主張が繰り返されています。
イスラエルの存在を認めようとしないアラブ(これは全く事実と異なっています)によって、そして「私たちの信頼」を失ったアラファトのようなテロリストによって、すべての平和の提案が無となったと。
その「私たちの信頼」を取り戻すためにどうすればよいのかについて、クリントンの中東顧問エドワード・ウォーカーは次のように説明しています。
「アラファトは『我々の未来と運命はアメリカの手の中にある』と公の場で言わなくてならない。」
しかし、このアメリカこそ、30年の間、パレスチナの人々の権利を根底から否定する宣伝活動を先導してきたのです。
ですから今のところ、基本的な問題はワシントンにあると言えます。というのは、ワシントンは、広い国際的な合意を得てきた政治的な解決を、イスラエルが拒否することに対して首尾一貫して支持してきたからです。アメリカの拒否の姿勢は現在少し修正されてきましたが、それは戦略的なものです。
イラクへの攻撃が暗礁に乗り上げているという事情のため、アメリカは、「イスラエルは新しく侵攻した領土から遅滞することなく撤退すべし」との国連決議を受け入れました。ただし、この「遅滞することなく」は「できるだけ早く」という意味だと、国務長官パウエルは即座に説明しています。
パウエルはイスラエルへの到着が遅れましたが、それはイスラエルの防衛軍がその破壊的な軍事行為を継続可能にするためでした。これは、見落としようがない事実で、アメリカの要人によっても確認されている事実です。
現在の反イスラエル闘争「インティファーダ」が起こったとき、アメリカ製のヘリコプターを使い、イスラエルは市民の住むところを攻撃して何十人ものパレスチナの人々を殺害し負傷させました。この行為はとても自衛と呼べるものではありません。
クリントンは(ハーレツにおける報道によると)このインティファーダに対して「この10年間でイスラエル空軍による最大数の軍事用ヘリコプターの購入」を手配することによって答えたのです。数週間後、イスラエルは、いくつかの暗殺のために、このアメリカ製のヘリコプターを使い始めました。
これらの暗殺行為は、政治的指導者アブ・アリ・ムスタファを最初に暗殺したのを皮切りに、昨年の8月まで続きました。彼の暗殺は黙殺されましたが、それとは逆に、報復としてイスラエルの内閣大臣レハバム・ゼヴィルが殺されたときの報道姿勢は、全く異なっていました。
今起訴されているゼヴィルの暗殺者をアメリカとイギリスが監督することの見返りとして、地下牢(イスラエル軍によって包囲されている自治政府地下室)からアラファトを釈放することを手配したということで、今ブッシュは賞賛を受けています。
しかし、ムスタファの暗殺に対して責任がある人々に罰を与えるために、いかなる努力があってしかるべきだという議論は、考えられてもいないのです。
「テロ行為をさらに助長する」ことに貢献するような、さらなる行為が昨年の12月に起こりました。つまり、昨年12月にワシントンは安全保障理事会決議に対して再び拒否権を行使したのです。それは国際的な査察団をイスラエルに派遣することを求める決議でした。
その10日前、アメリカはジェノヴァで開かれた国際会議をボイコットしました。その会議では、ジュネーヴ協定第4条が占領された領土にも適用されるべしとの結論を再びくだしたのです。その結果、占領地における多くのアメリカ‐イスラエル軍事行動は「重大な協定違反」であり、それゆえ重大な戦争犯罪であるということになったのです。
自国のリーダーシップも含めて、このような犯罪に責任を負う人々を控訴することを、アメリカは厳粛な条約によって義務づけられているのですが、アメリカは、自分を「特別に高度な契約当事国」と見なしているため、上記のことの全てが黙殺されて静かに進行しているのです。
アメリカは、そのジュネーブ協定が占領された領土に適用されるべきだということ、イスラエルの侵攻は「占領のための軍事行動」だということ、を公式には退けていません。
しかし、2000年10月の安全保障理事会は上記の合意を再確認し、イスラエルの「占領軍」が誠実に法的な義務にしたがうことを呼びかけたのですが、投票結果は14対0で、クリントンは投票を棄権しました。
このような問題が討論に入ることを認められ、それらの問題が何を意味するのか理解をされるまでは、平和のプロセスに関わることをアメリカに求めることは無意味であり、建設的な行動への見通しは厳しい状態が続くでしょう。
(翻訳:寺島隆吉+谷口雅英)
[PR]動画