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Intcomの犯罪、ノーム・チョムスキー(翻訳:寺島隆吉+北村しおり)
哲学者ルドウイヒ・ウイトゲンシュタイン は意味を決めるために言葉の使い方に注意を払うよう読者に忠告した。
その指示に従うと、政治的談話は文字通りの意味から非常にかけ離れた教義上の意味で使われていることが一般的になっていることに人は気づく。
例えば‘テロリズム’という単語は表向きの定義に従っては使われていなくて、我々アメリカと我々アメリカの友好国に対して実行されたテロリズムに限定されている。
(要するに、テロリズムの内容は定義どおりなのだが、それを相手が実行すればテロであり、同じことを自分の側が実行してもテロではないのである。)
同じような使い方が「戦争犯罪」「防衛」「平和維持」等の普通の表現にも及んでいる。
ひとつのそのような例としては「国際社会」という言葉があげられる。文字通りの意味は非常にはっきりしている。国連総会、あるいは国連を構成する実質的な多数の国が、最も意味の近いものになるだろう。
しかし、「国際社会international community」という言葉は、技術的な意味では、アメリカとその同盟国・従属国を示すものとして使われているのが普通になってきている。(したがって今後、私はこの技術的な意味で“Intcom,”を使用するつもりだ。)
したがってアメリカにとって国際社会を無視することは論理的に不可能である。このような慣例的用語法は現代の関心事に十分よく例証されている。
たとえば、イスラエルとパレスチナの境界をめぐる紛争を外交的手段で解決する努力に対して、この25年間、アメリカが妨害していたことは、誰も知らない。
紛争解決のため繰り返し提案された路線は、本質的には2002年3月にアラブ連盟によって採用されたサウジアラビアの提案と同じものである。
このサウジが主導権をにぎった提案は、歴史的機会として広く賞賛されているが、それは、もしアラブ諸国が少なくともイスラエルの存在を受け入れることを認めた時だけ和平は実現できるとするものであった。
しかし実際は、既にアラブ諸国は(パレスチナ解放機構を含め)1976年1月の国連安保理会の決議を支持し、国際社会に参加して以来、くり返しイスラエルの存在を認めてきたのである。
この決議は占領された領土からのイスラエルの撤兵に基づいた政治的解決を求めて次のように述べていた。
「中東地域における総ての国家の主権・領土・政治的独立、正当であると認められた国境の中で安全かつ平和に暮らせる権利を、適切な協定で尊重すること」
実際、国連安保理決議242は、この「総ての国家」のなかにパレスチナ国家を含むように、広い意味で解釈されていたのである。
しかしアメリカは、この決議に拒否権を使った。それ以後、アメリカ政府は同じような提案を絶えず妨害してきたのである。
アメリカ人の大部分はサウジアラビアの案の中で再提案されている政治的解決を支持しているのだが、しかしそれは米国政府が「国際社会」すなわち国内世論を無視している、ということではない。
例の慣習的用語法の下では、そんなことはあり得ない。なぜならアメリカ政府は定義上、民主主義国家として「国際社会Intcom」すなわち国内世論を無視できないし、当然のことながら国内意見に留意している。
問題は、政府が今までにしてきたことをアメリカ国民が知らない、知らされていないということなのである。彼らは一度も新聞でそのような記事を読んだことがないのである。
同じように、主要な新聞が報道しないので、アメリカ国民はアメリカ政府がテロに関して国際社会を無視していることを知らないのである。
しかしながら実は、アメリカは、テロを根絶するために総ての国によびかけた1987年12月の重要な国連決議にたいして事実上、単独で反対票を投じたのだった。この決議は、テロという現代社会の疫病をきびしく非難し、あらゆる国家に根絶を呼びかけるものだった。
(これに賛成したのはイスラエルだけであり、ホンジュラスだけは棄権した。)
アメリカが拒否権を行使した理由を研究することは有益であり、今日、極めて適切な行為である。しかし、アメリカが上記の件に関して拒否権を行使したという事実は、通例のとおり、すべて歴史から消え去ってしまっている。
なぜなら、いわゆる「国際社会Intcom」が、文字通りの意味での「国際社会」に反対しているからである。アメリカが賛成しないことは歴史から抹殺されるのである。
当時、アメリカ政府は中米での平和的な解決をしようとするラテンアメリカの努力を土台から掘り崩す行為を行い、それにたいして国際司法裁判所は国際テロリズムとして有罪判決を言い渡した。
そして国際司法裁判所はアメリカにそのような犯罪行為を終わらせることを命じたが、アメリカはそれにたいしてテロ行為の拡大をもって応じた。要するに、どんな歴史も、同じようなどんな出来事も、テロリズ゛ムにたいする「アメリカ政府Intcom」の態度には何の影響も与えていないのである。。
時々、「アメリカ政府Intcom」の孤立が認められ、そのことが世界の精神病的研究、しかも混乱した研究にたちむかわせることになる。リチャード・バーンスタインの1984年1月『ニューヨークタイムズ』の雑誌記事「国連VSアメリカ」(「アメリカVS国連」ではないことに注意)は、その適切な例である。
世界の足並みが揃っていないことの、より詳しい兆候は、既に国連の早い時期に見られた。その当時から米国政府の執行令状が法律だったのである。たとえば、米国政府は国連安全保障理事会の決議における拒否権の行使率は群を抜いている。
拒否権の行使率はイギリスが2位で、ソビエト連邦(後のロシア連邦)はそれより遙かに低く、3位だった。国連総会の記録も安保理と似たり寄ったりである。しかし国際社会については、まだどんな結論も出ていない。
現代の主要なテーマは、「Intcom」すなわちアメリカ政府が90年代に遂行したとされる規範革命である。残虐な犯罪を終わらせるために人道主義的介入という義務を遂に引き受けたというわけである。
しかし、次のようなことは報道されず、したがってひとは、そのような記事を目にすることはほとんどない。
すなわち、国際社会が「いわゆる人道主義的介入の
‘権利’を拒絶している」ことや、強圧政治の別の形態すなわち新しい衣を装った伝統的な帝国主義を拒絶していること、特に西洋の教義ではグローバライゼーションと呼ばれる経済統合形態が拒絶されていることなどである。
そのような結論は2000年4月の南側サミットで苦労して練り上げられ宣言されているのだが、その宣言はいわゆる「一流紙」では非難めいた数言の批評を得たのみであった。この会議は世界人口の80%を占めるG77(以前は非同盟諸国と呼ばれていた国々)の首脳たちが初めて集った記念碑的会議だったにもかかわらず。
1990年代は人道主義的介入の10年として広く考えられている。しかし実は1970年代こそは、恐ろしい犯罪に終始符を打つための最も重要な二つの介入事件で区切られる10年だった。
すなわち東パキスタンの残虐行為にインドが介入し、カンボディアではヴェトナムが人道的介入をして残虐行為を終わらせた10年だったのである。しかし70年代は何故「人道的介入の10年」と称されないのか。
理由ははっきりしている。「Intcomアメリカ政府」はこれらの介入を遂行していないからである。それどころか実際上は、「Intcomアメリカ政府」は、その介入に痛烈に反対していたのである。
たとえば、インドに対して経済制裁を加え脅迫的態度を繰り返し、さらにポルポトの残虐行為を終わらせたという理由でベトナムに懲罰を加えたのである。しかも、これはポルポトの残虐行為が最高点に達していた時なのだった。
それに引き替え、インドや中国や世界の多くの国々から、その行為に対して強い反対があったにもかかわらず、90年代、アメリカ主導のセルビア爆撃は「新しい国際啓蒙関係を切り開く画期」として評されているのである。
ここは「Intcomアメリカ政府」の「信頼性」を維持するために着手された人道的介入を詳しく論評している場所ではないが、アメリカの宣伝目的のために犯罪を終わらせようと遂行された人道的介入は、実は民族浄化という犯罪を促進させただけであった。
またここは、東チモール問題のような、上記に匹敵するか更にもっと悪い犯罪に荷担し続けて引き下がろうとしない「Intercom」と、その行為が「Intercom」の有益な評価にとって何を意味するのかを吟味する場所でもない。
そのような話題は、文明国だと自己宣言する国家の、その責任に関する広範な文献に記録されることはない。そのかわりに、高く評価されている学術分野があり、他国の犯罪にたいして正しく応答するのを妨害している「Intcom」の、文化的な欠点を研究している。
しかし、如何なる妥当な方法をもって測定しても、未だに答えられずに残されている次の問に優るほど、疑いもなく、面白い問題はないだろう。
「自分が直接に手を下した犯罪であれ、あるいは凶悪な目下の同盟国を支援することを通じて間接的に犯した犯罪であれ、自身の犯した実質的な犯罪になぜIntcomは固執し継続するのだろう?」
私にとって議論を続けることは簡単だが、認識されなければならないのは、そのような議論だけでは「Intcom」の革新に結びつかないということである。思い出すのも不愉快な類似物も含めて、それらは歴史的普遍性に近い。
ノーム・チョムスキーは、マサチューセッツ工科大学の言語学研究所教授である。著書は、ごく最近のものでは『9・11』(New York:SevenStories、2001年)がある。彼のエッセイや講義は、Peter R. Mitchel &、John
Schoeffel (ed.)『Understanding Power:Indispensable Chomsky』(New York:New Press,
2002)で読むことができる。
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