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一世紀の後に
『ピース・レビュー』第10巻、No.3、pp.313-319、1998年9月
ノーム・チョムスキー
(翻訳:寺島隆吉+岩間龍男、公開2003年9月7日)
この小論は米国の世界制覇にとってひとつの転換点だった1898年から丁度100年後の1998年に書かれたものです。これを読むと、米国によるアフガニスタンやイラクへの侵攻は、かって米国がハワイやフィリピンを侵略・併合・植民地化したり中南米諸国の政府を転覆したりしたことの延長にしかすぎないのではないか、という思いが強くなります。また英国流「承諾なしの承諾」の原理は支配をする側の倫理観を如実に示すものであり、米国がそれを忠実に引き継いでいることもよく分かりました。日本のアジア支配も同じ論理で行われたのでしょう。さらに最後の、南米とくにブラジルと東アジアとくに韓国の経済発展(経済破壊)の比較分析は私たち日本の未来を考える上で示唆的です。
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ノーマン・グラブナーは「1898年は米国史の分岐点であった」と述べることで、米国外交史の主要な論評を始めている。トーマス・ベイリーが1969年に書いたように、1世紀の間、米国人は「木とインディアンを打ち倒し固有の境界を完成する仕事に集中してきた。」19世紀の終りまでには、米国は国際的な舞台ではまだ大きな地位を持つまでには至っていなかったが、世界でずば抜けた経済大国となっていた。1898年はその点に関しては実際分岐点となった。
その10年前、ジェームズ・ブレーン国務長官は「獲得するのに十分な価値のある3つの地域があり、それはハワイ、キューバ、プエルトリコである」と述べていた。そのすぐ後に、米国公使はワシントンに「ハワイの西洋梨は今十分に熟しており、米国がそれをもぎ取る一番いい時だ。」と述べた。1898年7月、正式にハワイを併合し米国軍が戒厳令を敷いた。先住民族に対する勝利を祝って、米国植民者の新聞がハワイは「偉大なアメリカの最初の前哨基地」であると宣言した。
それより70年前、ジョン・クウィンシー・アダムズは、キューバを「熟した果実」と述べていた。英国の抑止力が取り除かれれば、キューバは米国の手中に落ちるだろうとのことだった。1898年までに、キューバ人たちはスペインに対する解放戦争にうまく勝利を収め、「植民地支配や伝統的所有関係以上の」脅威となっていた。これは歴史家ルイス・ペレスの言葉であるが、さらに次のように付け加えている。「キューバはまた米国の支配権欲を危うくしている。」キューバの独立は、「トーマス・ジェファーソン以来、北米すべての政策立案者にとっては呪い」であった。
1898年、マッキンレーはキューバ侵略を行い、この危機を退けた。ペレスによれば、この戦争は「表面上はスペインに対する戦争であったが、実際はキューバ人に対するものであった。」しかし、通常の学説ではこれを「米西戦争」と呼んでいる。ケネディのテ−プの中では、歴史家のアーネスト・メイとフィリップ・ゼリコウは、1959年まではキューバは「米国の事実上の植民地」であったと述べている。アイゼンハワーから始まる歴代政権の狂信的なキューバ政策は、その歴史的な深さを認識しないと理解ができない。
キューバを侵略する前でさえも、マッキンレーはフィリピンを「解放する」ために行動していた。そしてすぐに人生の悲しみから数十万の人々の魂を開放した [数十万人の人々を殺害した] 。当時の新聞は、次のように述べていた。「英国のやり方で原住民を虐殺することは」、原住民に我々の武力を尊敬させ、最終的には我々は彼らの「自由」と「幸福」を望んでいることを認識させることになるだろう。我々に抵抗する人々は、「誤り導かれて」抵抗しているだけなのだから。
もっと洗練された論理が、社会学者フランクリン・ヘンリー・ギディングズによって明確に述べられた。「議論されていた関係が、被征服者のための高度な利益を目指したものであったことが、征服された人々によって理解し認められれば、後年、その統治機構は被統治者の賛成を得て打ち立てられたものだと考えられるようになるだろう。」この「承諾なしの承諾」の原理は英国倫理学の中にちゃんとした起源があり、たとえどのように引き継がれたものであっても、「被統治者の承諾」の内容の有効な大部分を表現している。
第3の「価値ある場所」プエルトリコも1898年に引き継がれた。他の場所とは違った形態ではあるが、ここもまた「実質的な植民地」であった。プエルトリコの独立運動の闘士たちは首都から閉め出されていた。これはプエルトリコを降伏者スペインから新しい統治者米国に明確に引き渡させるためであった。プエルトリコは米国の農業関連産業のプランテーションに変えられ、その後、納税者の補助を受けた米国企業の輸出の舞台、そして米国の主要な軍事基地と石油精製所の場所となった。
地域の標準からすれば、プエルトリコ人の一人当たりの所得は、米国納税者の補助金のために、比較的高いものである。それにもかかわらず、40%の人々が1980年代中頃までに米国の都市のスラム街に移住してきていた。これは、もし米国が自由貿易原理の基本事項のひとつである労働力の自由な移動を受け入れるならば、他の実質的な植民地でも起こり得ることだ。経済学者リチャード・ワイスコフがその過程を述べているように、「米国の大衆がプエルトリコ人を引き受け、その一方で米国企業がプエルトリコの工場を通じて、無税でその利益を米国に還流させる。」もしワシントンの産業政策が変われば、犯罪と麻薬そして暗い見通しに支配され、「生活保護にひどく依存をした経済、手足を切断され破綻した経済」はそのまま放置されることになる。
新しい植民地の冒険的事業のカリブ海と太平洋における局面は、相互に関連していた。最後の目標は太平洋への地峡の道を確保することだった。マッキンレー大統領の、スペインとの主席交渉官によって説明されたように、太平洋は「米国の湖に変えられる」予定だった。すぐにパナマがコロンビア共和国から奪い取られ、運河が建設された。同じような米国の関心が以下の動機付けとなった。すなわち、ニカラグアへの介入、ルーズベルト・コロラリー、ウッドロー・ウイルソンの残忍なハイチとドミニカ共和国への侵略、そしてその他の功績がそれであるが、あまりにも多すぎて語りつくせない。その背景には経済危機の再発の懸念があった。その危機が米国のエリートたちに、原材料へのアクセスや過剰生産の輸出が米国経済にとって極めて重要なことであることを確信させた。
[訳注:1904年12月、ルーズベルト大統領,年次教書で「モンロー主義の系譜(コロラリー)」を発表.「西半球の諸国の失政に対しては国際警察力として行動せざるをえない」と宣言する.ルーズベルト・コロラリーとよばれる.米国の中南米侵略史について詳しくは下記年表を参照。http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/world/~1945.htm]
重要な事例はウイルソンがベネズエラから英国を排除したことだった。それに続く何年もの間、ワシントンは残酷な独裁政権を支援した。その一方でベネズエラは企業利益と米国経済全般に実質的な貢献をしていた。キューバミサイル危機の時の最高政策立案者たちとの秘密の会議で、ケネディー兄弟は、カストロが米国のベネズエラ軍事介入を阻止するためにミサイルを使うのではないかとの懸念を表明していた。「ピッグス湾は本当に正しかった。」とケネディは述べた。
当時、キューバへのさらに首尾よい侵略計画がすでに政策の予定上にあり、そのままになっていた。ワシントンはキューバミサイル危機の時、公式にも非公式にも侵略はしないとの約束はしていなかった。その危機の後、ケネディのテロ作戦は1962年のレベルにまで戻ってしまった。この年、政府は密かに、テロと[キューバ政府]転覆の「最後の成功は決定的な米国の軍事介入を必要とするだろう。」と決定していた。キューバ政府を転覆するという決定は、1960年の3月に正式になされていた。これは、キューバが「実質的な植民地」としての地位を失った1959年1月の、実質わずか数ヶ月後のことであった。
第2次世界大戦は別の分岐点であった。この戦争は米国を空前の世界権力者の立場に置き、米国の政策立案者はこの権力をさらなる支配的な国内の利益のために使うつもりであった。CIA古参の歴史家ジェラルド・へインズの説明にあるとおり、「米国は世界の資本主義体制の繁栄に対する責任を担った。ただし私利私欲から。」
過剰生産についての懸念と国際的な資源へのアクセスには、新しい切迫感があった。世界のそれぞれの地域は、世界経済体制の中でその場所が割り当てられていた。産業社会の再建が最大の関心事であった。そして、反ファシストのレジスタンス運動や労働運動を従属的な役割に限定することによって、伝統的な秩序が回復された。アフリカはヨーロッパの再建のために「搾取される」ことになっていた。東南アジアの「大きな機能」は以前の植民地のご主人様に原材料を与えることであった。米国はラテンアメリカと中東の油田を引き継ぐことになっていた。ただし、従属国である英国が中東では一定の役割を演ずることとなっていたが、その役割も何年もの間にゆっくりと減っていくと思われた。
米国が上記の「責任」を果たすことは容易ではないということは認識されていた。英国が世界を支配していた時、ウィンストン・チャーチルはその内閣に密かに警告していた。「膨大な素晴らしい所有物を誰にも邪魔されずに享受したいとする我々の要求は、主として暴力で獲得され、その大部分は軍事力で維持されてきたものだが、これは他の者たちにとってはしばしば道理にかなっていないものと思われているようだ。」
これを、1948年にジョージ・ケナンは次のように言い換えている。「人権や生活水準の向上、民主化といった曖昧で非現実的な目標を我々は語ることをやめなければならない。」そして「はっきりと力によって問題に対処」しなければならず、「利他主義や世界の慈善」についての「理想主義のスローガンに邪魔されては」ならない。大衆向けのレトリックは別にして、「我々は無駄なおしゃべりをやめなければならない。」
侵略、テロ、[政府]転覆、経済戦争そしてそれに伴う他の犯罪は、他の権力中枢との紛争関係や同盟関係を伴い、いつも必ず残虐行為を行ってきたのだが、あまりにも複雑なのでここでは振り返ることはできない。
再びキューバのことになるが、これは教訓的である。アーサー・シュレジンジャーは、1961年の初頭ケネディ大統領にラテンアメリカ研究グループの結論を報告し、キューバの脅威を「すべての物を自分たち自身の手中におさめるというカストロの考えの広がり」として説明していた。彼は、これは重大な問題だとして、さらに詳しく述べている。
「(ラテンアメリカの)土地やその他の国の富を分配することを、地主階級もおおいに支持をしている。キューバ革命の具体例によって刺激を受けた貧乏人や恵まれない人々は、現在、まともな生活ができる機会を要求している。」「その一方でソビエト連邦は舞台の袖に控えてうろつき回っている。大きな開発融資を見せびらかし、たった1世代で現代化を達成したモデルとして現れている。」
シュレジンジャーは、今や、ケネディが直面している問題を、カストロの「半球でのトラブル作り」と「ソ連とのつながり」として、公然と説明しているのである。
80年前の冷戦の始まりから、そのような「トラブル作り」と「ソ連とのつながり」は、ワシントンやロンドンによって同じような観点から認識されていた。米国の高度機密文書は主要な脅威を「民族主義政権」ととらえていた。というのは、それは「低い生活水準を即座に改善すること」への大衆の圧力に敏感だからである。これらの傾向は民間投資に役立つ政治的経済的情勢を求める米国の要求と相容れないものであった。それは、十分な利益の本国送還と「原材料の保護」を求めていたからだ。
1945年2月の米州特別会議で米国は「米州経済憲章」の採択を通じて「あらゆる形態の」経済民族主義を取り除くことを呼びかけた。[米国]当局者は、「広い富の分配をもたらし大衆の生活水準を上げるための政策を大切にする新しい民族主義の哲学」を克服することが必要だろうと認識していた。米国国務省は、ラテンアメリカの民衆は「その国の資源の、開発の最初の受益者は、その国の人々でなければならない」との確信を持っている、と警告した。力関係を考えに入れれば、米国の立場は優勢であり、最初の受益者は米国の投資家と国内のエリートになるはずであった。ラテンアメリカは、そのサービス機能を果たすべきであり、米国の利益を侵害する「過度の産業上の開発」をすべきではなかった。
同じ原則を世界中の長いリストの中に見ることが出来る。ひとつの例を上げれば、1980年代の中央アメリカにおける米国の戦争の背後には、この原則がある。このとき数十万の人々が殺害され、その地域の多くが破壊された。これらの戦争は大部分は、教会に対するものであった。教会は「貧しい人々への優先的な選択」を採用し、「基本的人権のために戦っている」人々を守ろうとしたからだ。これらは大司教オスカー・ロメロの言葉であるが、彼はワシントンに軍事政権への支援をやめるよう求めたのだが、そのことによって彼は数日後におぞましいリストに加えられた。
[訳注:米国によって殺害された人々のリスト。『アメリカが本当に望んでいること』(ノーム・チョムスキー著 現代企画室、p.52)を参照]
その恐ろしい10年間が、「声なき人々の声」となった大司教と彼自身の司祭たちの殺害で始まり、イエズス会の指導的な知識人である6人がテロリストの軍隊によって暗殺されたことで終わったのは象徴的なことだった。そのテロリスト軍隊は民主主義の十字軍の勝利者[米国]によって武装され訓練された。その米国は現在、自己賛辞に浸りながら、その他の者の罪を裁いている。大司教と他の指導的な中央アメリカの反体制派は二重に暗殺されているという事実には注意を払うべきである。すなわち殺害されただけでなく報道もされないからだ。彼らの言葉とまさに彼らの存在そのものが、米国ではほとんど知られていない。これは敵国とされる社会主義国の反体制派とは大違いのことである。彼らは[米国では]たいへんに尊敬をされている。このすべてがどのように学問の世界で再構成されているのかを見ることは、本当に驚異である。
もうひとつの教訓的な事例はハイチである。かつては世界で最も豊かな植民地であったが、現在はひどい状態になっている。ウイルソンの戦争と20年もの海兵隊による占領の後、その破壊された国は残酷な軍隊と独裁者の掌中にあり、米国の開発計画によってさらに荒廃させられている。
1990年の予期せぬ民主主義の勝利は、ワシントンの即座の敵意と改革派政権を転覆する努力を引き出した。その後に起きた軍のクーデターは無言のうちにブッシュとクリントンの政権に支援された。ブッシュ&クリントン政権は米州機構(OAS)による通商禁止規定に違反して殺人者や拷問者との接触を維持しただけでなく、クーデターの指導者や裕福な彼らの後援者に違法の石油の出荷を密かに認めた。
1994年、多くのファンファーレとともに「民主主義が回復された。」ただしファンファーレの陰で見逃されていたことがある。それは、その民主主義回復は、1989年の選挙時に米国が支援した候補者−この候補者は14%の得票しか得ていなかった−の社会経済計画を受け入れることが条件だったことだ。国務省のスポークスマンであるストローブ・タブロットは議会に次のように保障した。米国軍がハイチを去った後でも「我々は米国国際開発庁や民間セクターの名のもとに、責任をもってハイチにとどまるだろう。」こうして、おなじみのやり方で「承諾なしの承諾」を押し付けたのである。
現在の米国の対キューバ政策はさらに教訓を与えている。冷戦が終わった後、著しくスムーズに名目と口実を変更して、キューバに対する米国の攻撃、特に経済戦争が、強化された。テロ作戦も続けられ、これには1997年の旅行者を標的とした爆撃も含まれた。マイアミ・ヘラルド紙(1997年11月17日)による集中的な調査は、その爆撃をエルサルバドルの犯罪者と旧軍人にまで遡った。彼らはエルサルバドルとマイアミから命じられ財源を与えられていた。
ルイス・ポザーダ・カリリョはおそらく間違いなく国際テロリズムの世界チャンピオンであるが、その爆撃に「重要なつながり」がある者とされていた。彼はベネズエラの刑務所から逃げた後、ニカラグアを標的としたエルサルバドルでのレーガンの作戦に関わっており、73人が死亡したキューバの定期旅客機の爆撃にも関わっていた。さらに彼は最近のホンジュラスの軍事テロにも参加している。
公の敵[たとえば北朝鮮]に関係して、類似した事件が暴露された場合、それに対する反応が米国ではどのようなものになるのかについて論評することは不必要である。
1940年代に米国がラテンアメリカを支配した時、ブラジルが主な関心の的となり、潜在的な「南部の大国」と認識されるようになった。ブラジルは「産業開発に関する現代科学の方法のテスト地域」となることになっていた。ヘインズは1989年にそのように書き、さらにその結果を「資本主義を基盤とする印象的な経済成長」をもたらした「米国の本当の成功談」と評した。実業界の見地から見れば、1989年は1988年の3倍の利益をあげた「黄金の時代」であったが、賃金はすでに世界で最も低い国のひとつであり、20%も賃金ダウンしていた。人間開発の国連報告はブラジルをアルバニアに次ぐ国に位置づけていた。経済的な失敗が裕福な人々をも襲い始めた時、「資本主義を基盤とする開発の、現代の科学的な方法」は突然、国家統制と社会主義の弊害の証拠となった。それでもなお、その成功は値打ちのある人々、すなわち米国の投資家や富裕なエリートやワシントンによって育てられた軍事独裁者のような人々にとっては十分であった。
戦後の課題のひとつは国際経済秩序を作ることであった。その目標は貿易を自由化することであり、資本移動ではなかった。というのは、資本移動は統制されるべきだからだった。この決定にはふたつの基本的な理由があった。第一の理由は、金融の自由化はしばしば自由貿易の妨げになるという考え方である。当時、150年間の保護貿易の後で自由貿易は米国の産業の利益になることが予測されていた。第二の理由は資本の自由な移動は福祉国家を弱体化させるという認識であった。福祉国家は特にヨーロッパにおいて、大きな大衆の支持があった。資本を統制しなければ政府は財政的社会的政策を行う事ができないだろう。統制なしではコスト回避のため資本が流出する恐れがあるからだ。熾烈な闘争によって勝ち取られた社会福祉だけでなく、民主主義が意味をもつためには、資本移動の統制を求められている。
この統制システムはニクソン政権によって解体された。その主な要因はその後の何年もの外国為替取引の激増であった。取引の構成も急速に変化した。1970年には、取引のうち90%は実質経済(貿易と長期投資)に関係していた。ところが1995年までには、95%が投機的なものとなり、たいていは短期のものとなった。その結果は一般に戦後の政策立案者の予想どおりであった。
レーガン政権によって、社会福祉に対する重大な攻撃と保護主義貿易などの市場介入が増加した。また金融自由化は経済成長と収入に害になるだろうと予測されていたが、予想通りになった。経済成長率は大幅に低下した。米国では、大多数の人々の賃金と収入が停滞あるいは低下した。[その一方で富裕層の]トップのわずか数%が大きな利益を得た。英国も同じ道をたどり、それほど極端ではないにしても同じよう結果が他のOECD諸国にも及んだ。
その効果は「発展途上国」ではさらにもっと恐ろしいものであった。ただし「東アジアとラテンアメリカの比較は教訓的である。米国資本主義の「成功談」であるラテンアメリカは不平等という点で世界最悪の記録を示したが、東アジアは最良記録のひとつにランクしていた。同じ事が教育や保健、一般的な社会福祉についても言える。
ラテンアメリカへの輸入は金持ちの消費するものに傾いていったが、東アジアでは生産的投資へ傾いていった。ラテンアメリカの資本流出は負債を押しつぶす規模に近づいたが、東アジアではそれは統制されていた。ラテンアメリカでは金持ちは一般的に社会的義務から免除されていた。
これは、ブラジルの経済学者ブレサ・ペレイラが指摘したように、「国家の、金持ちへの服従」である。他方、東アジアは著しく違った様相を呈していた。
だが、最近になって金融自由化がアジアにも広がった。東洋の「虎」の中で最も重要な韓国はOECDに加入する資格を得るために資本統制を減らした。このことは、この地域で一般的に見られることだが、韓国の最近の[経済]危機の要因と広くとらえられている。もちろん、一連の市場の失敗や政治的腐敗や構造上の問題もあるが。
富裕層を統制してこなかった第三世界では、大きな利息への払いがあるにもかかわらず、急速に大きくなっている負債は、社会的経済的発展の足かせとなった。歴史的には前例がないが、負債の取り消しが考慮されている。米国がキューバをスペインから摂取した時、キューバのスペインに対する負債を取り消した。その根拠は、その負債はキューバ人に強制的に課せられたものなので何の持続性もなく、「憎むべき負債」であったことだ。
同じ主張が当然にも第三世界の負債にも妥当する。別の妥当な根拠は、借りたり貸したりした人々にこそその責任があるという資本主義の原理である。そのお金は田舎者や労働者やスラム街の住人によって借りられたものではない。彼らは、それからはほとんど何も得ておらず、それどころか、しばしばその結果ひどく苦しんだ。にもかかわらず、西側の納税者とともに、彼らに返済の責任があると見なされている。ニューヨークやロンドンに自分たちの富を売り渡しながら、不良債権を出した銀行や自らを肥え太らせた経済軍事的エリートには、何の責任もないのである。
その負債は経済的事実ではなく単なる観念的な構成物である。ずっと昔に理解されていたように、自由な資本移動は社会正義や民主主義に敵対する強力な武器となる。国際的な秩序を作り直している展開については、必然的なものは何もない。それは自然法則でも経済学でもなく、[政策]決定の結果である。その政策決定は人間の制度内で行われたものであり、変えることができる。そしてその人間の制度は、もっと自由でより正しい他の制度と入れ替えることができる。それは過去においてもしばしば起きたことである。
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