東ティモール問題、Q&A
(September
14, 1999)
ステファンR. シャローム 、ノーム・チョムスキー、及び、マイケル・アルバート
1.1975 年以前の米国のインドネシア政策は ?
第二次世界大戦の結果、ヨーロッパ諸国のアジア植民地への米国の方針は単純な規則に従った。すなわち、その領域の民族主義者が左翼 (ベトナムと同様に) であれば、ワシントンはヨーロッパ諸国の植民地再支配を支援するということであり、他方,民族主義運動が安全な非左翼(例えばインドのように)
であったような地域では、ワシントンは、競争相手国の占有管轄権を奪うひとつの方法として独立を支援した。
最初、インドネシアの民族主義者は米国にたいして柔軟であるとは思われなかった。従って、米国の武器で武装した英国軍 ( 日本の軍人によって援助されていた )はインドネシア人を攻撃するための行動に出た。それはオランダ軍が旧植民地に戻る道を開くためであり、そのオランダ軍もまた英国軍同様、米国の武器によって武装していた。
しかしながら1948 年に、スカルノ政権下の穏健派インドネシア民族主義者は左翼クーデターの試みを押しつぶした。それで、ワシントンが決定したのは、オランダがインドネシアの独立を受け入れ、スカルノと話をつけるようにと奨励されるべきだということだった。
しかし、スカルノが危険な中立的民族主義者であると米国が結論づけるまでにそう長くはかからなかった。そしてアイゼンハワー政権下でワシントンはインドネシアの脆い民主主義政府を覆そうと試みた。
こうした努力 -- 第二次世界大戦以来最大の米国秘密作戦 -- は、不成功であった。したがって米国は、大衆に依拠したインドネシア共産党に「釣合うおもり」としてインドネシア軍を構築することにその戦略を変えた。
1965 年に、このアプローチは実を結んだ。そして軍のクーデターはスカルノを退位させ、彼の代わりにスハルト将軍を据えた。その時、共産党員、左派だと疑われている人達、さらに普通の小作農を虐殺した。その数は50
万から百万にのぼった。
ワシントンはクーデターを歓迎し、武器をジャカルタに急送し、軍隊に共産党員のリストを供給しさえした。それで軍は共産党員を刈り集めて虐殺したのである。
CIA の研究によれば、「殺された数に関して言えば」インドネシアの
1965-66 年大虐殺は「20 世紀最悪の大量殺人の 1 つとして位置付けられる」という。
米国はこうしてスハルト政権と密接な軍事的、経済的、政治的な結束を確立した。
2.東ティモールは、インドネシアが侵入する以前は、どのような状態だったのか
?
17 世紀から、オランダとポルトガルはティモールをめぐって戦っていた。ティモールはメリーランド州より僅かに大きい東南アジアの小さい島で、フィリピンの南
1,000 マイル、オーストラリアの北西約 400 マイルに位置している。
最終的には2 つの植民地大国が島を分割した。西半分はオランダ領、すなわちオランダ東インド領の一部分となり、東半分はポルトガル領となった。
オランダ東インド領が第二次世界大戦後、インドネシアという名の下で独立したとき、西 ティモールは新しいインドネシア国家の一部となった。
しかしながら東ティモールは、1970 年代半ばまでポルトガル支配下に残存した。その時、ポルトガルは植民地帝国を解体する方向に最終的には動いた。
東ティモールは、宗教、言語、及び、数百年に渡る植民地の歴史に関してインドネシアと異なっている。
3.インドネシアは、東ティモールにどのように関わるようになったか
?
ポルトガルが東ティモールを支配する限り、インドネシアは東ティモールを攻撃することを考えなかった。しかし一旦リスボンが手を引くという意図を宣言するやいなや、スハルト制権はその領土と資源を手に入れる機会を伺った。
東ティモールは容易な獲物のように思われた。1975 年における東ティモールの人口
70万は、インドネシア人口1億3千6 百万とは比べものにならなかったからである。
最初、インドネシアは東ティモールでクーデターを支持することによって独立を妨害しようとした。しかしこれが失敗したとき、治安を保つためだという口実を使って、インドネシアは1975 年 12 月に東ティモールへの全面的侵入を開始した。
ジャカルタから出た一般的宣伝文句は、 -- 西側のメディアによってしばしば繰り返されてきたものだが
–– 東ティモールにおける戦いが「内乱」の様相を呈しているということである。
実際、インドネシア人が侵入する以前には非常に短い内乱があった。
しかしながら、ここ 25 年間の間、それはヨーロッパにおけるナチ党の征服と同程度の内乱であった。
4.インドネシアの 1975 年 12 月の侵入に関して、米国の役割は何だったのか ?
侵入の前夜、米国大統領ジェラルド・フォードと、国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、ジャカルタにいて、スハルトに会っていた。
キッシンジャーは、東ティモールについては議論さえされなかったと後に主張した。しかし、この主張は偽りだったことが後で暴露された。
実際、ワシントンは侵入の許可をスハルトに与えていたのである。
その侵入においてインドネシア軍が使った武器の 90 パーセントは(他国を攻撃する目的のための軍事援助を禁止する米国の法律にもかかわらず
)米国からのものだった。そして、対ゲリラ戦装備を含む武器の流入は密かに増加した。( これは今日起こっていることを解釈する際、留意すべきポイントである。 )
また米国は外交上の支援を侵略者に与えた。
すなわち、米国の大使ダニエル・パトリック・モイニハンは国連において首尾よく働いた。自分の回顧録において自慢したところによれば、ジャカルタの侵略にたいして国連という国際機関が何も挑戦できないように動いたのだ。
ジミー・カーター米大統領は人権擁護者を自己宣言した人物だったが,その下で、インドネシアに対する米国の軍事援助は更に増加していった。
1975 年以来、米国はジャカルタに 十億ドル分の軍備を売却した。
5.インドネシア侵入はどんな結果を招いたか
?
インドネシアの侵入とそれに続く無慈悲な和解キャンペーンは、大虐殺、強制的な飢餓、及び、病気によって約 20万人の 東ティモール人 の死につながった。それは領土の人口の 4 分の 1 を超えるもので、総人口比という点で現代史最大の流血事件の
1 つとなっている。
更にインドネシア軍は、拷問・強姦に参加し、大規模な移住を強制した。
6.国際社会は、1975
年のインドネシアによる侵略にどのように対応したか ?
一方で,インドネシアの侵略があまりにも明瞭に国際法と自立権に違反していたので、国連安全保障理事会は侵入を非難し、インドネシアに東ティモールから軍隊を撤退させるように要求した。また国連総会は、東ティモールをインドネシアの27番目の行政区としてインドネシアの併合地にすることを拒絶し、東ティモールの人々が自分で自身の運命を決定することが許されるよう要求した。
オーストラリアという唯1 つの例外を除き、それ以外のどの国も、東ティモールにおけるインドネシアの主権を法律的に認めなかった。
とはいえ他方、多くの国にとっては、道徳と上品さの考慮は持っていても、その巨大な人口をもつインドネシアとの密接な経済的関係から得る利益のほうが、はるかに重要だった。たとえば、「インドネシア
–- 1億8千万の人口を擁した赤道の国、平均年齢18
歳、イスラム教によるアルコール禁止 -- について考えた時 天国とはどんなところかが分かったような気がした」と、1992 年にコカ・コーラの社長が語っている。要するに、インドネシア軍への武器販売の見込み、そして東ティモールという最も小さい国の
1 つの代りに東南アジア最大の国家と同盟することの地政学上の利点を考えれば、インドネシアとの密接な関係から得る利益のほうがはるかに重要だった。
ジャカルタへのワシントンの支援は既に公然の秘密だった。
オーストラリアは東ティモール沿岸の石油資源を分割することを望んでインドネシアに軍事援助を行い、東ティモールにおけるインドネシアの主権を正式に承認した唯一の国だった。
英国は最近ではインドネシアの最も大きい武器供給国だったし、日本は経済援助と海外投資の最大の供給国であった。
カナダは経済的・軍事的援助をジャカルタに提供した。一方、オランダとドイツは、同じく主要な武器供給国であった。
7.ティモール人は、何年間もの間、どのように抵抗したか ?
東ティモールの人々は真に人を鼓舞するような勇敢な闘争を行った。
彼らは圧倒的に不利な状況に対抗すべく、ゲリラ戦に着手し、非暴力の抗議を組織し、そして消極的抵抗を実行した。
学生、カトリック教会、及び、多くの他の人たちは、武器をとって戦うか,ゲリラ兵に食物を供給するか、デモンストレーションに参加するか、組織者をかくまうなど、あらゆる方策で闘争に関わってきた。
恐ろしい抑圧にもかかわらず、またジャカルタが多数のインドネシア人を領域内に植民させているにもかかわらず、東ティモール人は自律と自由に対する驚くべき情熱を保持している。
8.東ティモールの外で、どのような何年にもわたる連帯運動があったか
?
しばらくの間は、ほんの少数のひとたちが孤独な声をあげるだけだった。
例えばArnold Kohen は当初から東チモールの行動の中心にいた。
オーストラリアと英国には、その問題に注意を引こうとする小集団があった。
1980 年代の間に、その数と行動は増加した。
1991 年、ディリにおける大虐殺--インドネシア軍が平和な葬式の行列を攻撃し、270人以上を虐殺した
--の後に続くかなりの高揚があった。その大虐殺は米国人のフリーのジャーナリスト、Amy GoodmanとAlan Nairn (彼らは インドネシア軍によってもう少しで殺されそうになった
) 、及び、英国のテレビ-フォト‐ジャーナリスト(彼はその虐殺を撮影していた)によって広く知れ渡った。
その後、教会と人権グループは活動的になり、the East Timor
Action Network が、Charlie Scheinerによって形成された。
1990 年代半ばまでに、多くの国に相当な組織があり、それらは影響力を持ち始めていた。
その問題は最終的には、たとえそれが常に正確であるとは限らないとしても、主流のメディアでも報道されるようになってきた。
東ティモール問題の活動家によって強烈に働きかけられた結果、連邦議会はインドネシアへの米軍援助を徐々に制限するようになった。しかしながら、しばしば政府はその網をくぐり抜けたのだった。
1996 年、東ティモールの海外代表部長Jose Ramos Hortaと 、東ティモールの精神的リーダであるカルロス・フィリッポ・ベロ(Carlos
Filipe Ximenes Belo)主教にノーベル平和賞が与えられた。それは、東ティモール情勢に更なる注目を集中させることになった。
9.最近の国民投票はどのように起こり、その結果はどうだったのか
?
1998 年に、インドネシアにおける大衆デモ、金融恐慌、及び、大規模な汚職が結合し、その結果スハルトは職を追われた。
彼の後継者、B. J. ハビビは、インドネシアのために総選挙を召集すること、東ティモールの将来に関する国民投票を行うことを認めた。
インドネシアの選挙では主要野党の党首メガワチ・スカルノプトゥリ(Megawati
Sukarnoputri)が勝利した。しかし彼女が 11 月に総裁になることを許されるとしても、国を支配している国家安全保障機関を解体するように彼女が動くであろうことは疑わしい。
東ティモールの将来についての国民投票の期間に関する交渉において、国際社会は本質的にインドネシアの基本原則を受け入れた。
その国民投票はインドネシア占領軍によって実行されることになった。
国連は数百人の非武装監視員を送ることを許可された。しかし彼らには準軍事的な兵力
(militia、反独立派民兵集団「 ミリシア」 ) を止める方法がなかった。反独立派民兵集団「ミリシア」はインドネシア軍によって組織されており、その指揮下で、そして直接的な関与(特にその特殊部隊コパサスKopassus)によって大規模テロを実行していたのである。特にその特殊部隊
( コパサス) によってであったが、この特殊部隊 ( コパサス)は米国とオーストラリアによって軍事訓練を受け、その極端な暴力と野蛮性が注目されていたものである。
そのうえクリントン政権は、国連からの派遣強化を要求するどころか、むしろ監視員の派遣を遅らせ延期した。
荒れ狂うテロ行為のために、国連による国民投票は数回にわたって延期された。そのテロは,インドネシア軍が民衆を脅してインドネシアとの合併併合に賛成の投票をさせようと明瞭に意図されたものだった。
それにもかかわらず、1999 年 8 月 30 日、東ティモール全人口のほとんどが驚くほどの勇気を奮って投票に行き、5人のうち4人が独立に賛成の投票をした。
ティモール人を脅してインドネシアの支配を受け入させることができなかったので、インドネシア軍とその支配下にある反独立派民兵集団ミリシアは一般国民への恐ろしい攻撃を開始した。数十万人を退去させ、未知数だがしかし確かに数千人を殺し、燃やし、略奪した。
10.インドネシア軍と反独立派民兵集団ミリシアの、国民投票後の行動の、動機は何か
?
インドネシア軍にとって、その動機はおそらくインドネシア内の人々、これから立ち上がって行動するかもしれない人々に、その代償は高くつくことを見せびらかすことであろう。
インドネシア軍は 1965-66 年の大虐殺でも、まさにこの同じ点を示した。その時,スハルトは権力を握り、何年間も国民を脅迫し、何度も継続的に同じことを繰り返した。そして常に米国と西側からの熱狂的な支援を受けていた。
インドネシアの幾つかの地域に今、インドネシアから脱退する動きがある。 (東ティモールの独立運動が一般に「分離主義者」と呼ばれているが、それはもちろん、ナチ占領下にあるフランスのレジスタンスを「分離主義者」と呼ぶのと同じ程度にナンセンスである。) 軍はおそらく、東ティモールの独立が他の分離運動を元気づけるのではないかと懸念しているのである。
他の動機はおそらく、ジャカルタの文民政府を転覆させ、軍をポスト‐スハルト後継者として支配的な地位に置くことを含んでいる。
純粋な復讐もまた有り得る動機のひとつである。つまり、東ティモール人は25 年間、莫大な勇気と完全性をもって抵抗してきた。従って彼らは大虐殺と破壊で罰せられているというわけである
同様に留意する価値があるのは、軍とスハルト一家が東ティモールから乗っ取った大部分の資源を放棄したがっていないということである。
さらにその背景には、ティモール・ギャップという石油財閥があり、誰がそれをコントロールするのかという重要な問題がある。
11.国際連合の役割は何か
?
国連の役割について話すのは、少し誤解を招きかねない。
というのは、国連は抽象的実体として無力に近い。世界の諸国家の代表としてさえもほぼ機能していない。
なぜなら、国連は諸大国によって、つまり 米国によって許可を与えられない限り行動できないようになっているからである。
国連には常備の平和維持軍がなく、したがって個々の特殊な目的のために、その都度、快く軍隊を提供してくれる大国を見つけられるかどうかに依存しているからである。
その組織はまた、米国が負担金を支払うことを恒常的に拒絶しているために、極端な資金不足に苦しんでいる。
東ティモールに送られる調停者はおそらく国連軍ではない。なぜなら合衆国連邦議会が要求したのは、米国政府が国連の平和維持活動を認めるまでに15 日間の猶予を置き、かついかなる平和維持行動であれ、その分担費用をワシントンが支払うことを禁じていたからである。
米国の影響は安全保障理事会において最も大きい。しかし国連の他の機関,例えば国連総会や経済的・社会的問題を扱う団体は、非植民地化の時代以来ずっと第三世界が大多数を占めていた。
従って、米国の方針は国連の土台を崩し、国連の力を削ぐことであった。
国連は世界の諸問題に重要な役割を持つべきである。しかし米国と他の大国の方針は逆に国際機関の役割を厳しく制限しようとするものである。
しかし、米国の政策立案者の見地からみて、国連によって演じられるべき1 つの決定的な役割がある。それは何かがうまくいかないとき、国連に責任をなすりつけ、国連を便利なスケープゴートとして利用するということである。
例えば、東ティモールにおける現在の惨劇は、米国と他の西側勢力が4 分の 1 世紀の間そこで行われていた残虐行為を放置し、軍に残虐行為を思い留まらせるのを拒否したことに直接は起因する。それにもかかわらず国連はおそらく責任を負わされるであろう。
12.国民投票後、米国の今後の有り得る動機は何か
?
米国の動機は現在も昔と同じである。すなわち、米国企業と政治エリートの、権力的経済的見かえりを拡大するという政策を追求することであり、それも現存する権力関係を崩壊させる危険性をできる限り少なく、特に、民衆の自覚と抵抗を拡大するような形で平静を乱すような事はできるだけしないで、権力的経済的見かえりを拡大することである。
米国は無慈悲な独裁者たちと癒着してきた長い経歴を持っている。熱烈に支援ではなかったとしても彼らの残虐行為に無関心であったし、独裁者があまりの政情不安と抵抗運動を引き起こし米国の利益が脅かされるとワシントンが決定を下した時だけ撤退してきたのである。
かくして、ジミー・カーター大統領は、イラン軍が大衆デモを弾圧しようとして逆に解体に追いこまれるように思われるまでは、イランのシャー政権を支持してきた。
またレーガン大統領は、軍の分裂と街頭に出た莫大な数の人々が米国の利益を危機にさらすまでは、フィリピンのマルコスを抱きかかえた。
インドネシアにおいても全く同様で、米国は民衆の爆発が米国の経済的・地政学上の利益を危うくするかもしれないと思われるまではスハルトを支援してきた。
そして米国は武器、軍事訓練、及び、外交上の支援によってインドネシアの東ティモール政策を支援した。そうすることが米国の利益を促進すると思われる限りは。
東ティモール問題が新聞の第 1 面に載らない限り、ワシントンは喜んで自由裁量をジャカルタに与えた。
しかし、最近の残虐行為のニュースは押さえきれなかった。
勇敢なジャーナリストと独立した政治批評家たち、ティモール人を見捨てることを拒絶した国連労働者、及び活動家たちのネットワークは、自分たちのことばで現状を伝え広めた。
これは、東ティモールにおけるインドネシアのテロ行為を黙認し続けた米国政府への損失をもたらした。
しかしながら、ワシントンは、それでもインドネシアに対する経済的投資を保護し、その国の軍との親密な関係を維持することを望んでいる。
13.東ティモール問題を解決するために米国は何を行うことができたか?
米国と主要同盟国は、インドネシア政府に巨大な影響力を持っている。
インドネシアは軍事産業をほとんど持っておらず、米国、英国、オーストラリア等の武器供給国にひどく依存している。
インドネシア軍は、米軍による軍事訓練を受け、米軍との共同演習に参加している。しかもそれは、つい最近の1999 年 8 月 30 日、国民投票のほんの 1 週間前だった。
インドネシア経済もまた、米国と他の富裕国および国際通貨基金からの財政上の援助に完全に依存している。しかも国際通貨基金の方針はこれらの富裕国によってコントロールされているのである。
これら提供国の資金なしでは、インドネシアは海外投資が枯渇し、国内資本も同様に逃げだしてしまう。
要するに、インドネシアは、ワシントンと主要な西側諸国の承認なしでは行動し得ないのである。
ここ数日間、ジャカルタに国際平和維持軍を受け入れさせたかに見えるのは、同じ種類の圧力が使われたからであるし、インドネシア人に東ティモールにおける虐殺と破壊を止めさせるためには、それは今後も可能である。またそれは、平和維持軍を派遣するよりも、東ティモール人の生命にとってはるかに更に重要で、即座に影響を持つものである。
( 平和維持軍が到着するには若干の時間がかかるし、到着したにしても、彼らは東ティモール人に多くのことができそうにはない。西ティモールに追い込まれた東ティモール人は、そこでやはりインドネシア軍のテロに曝される以外にない。)
平和維持軍は次のような有益な役割を果たすことができる、すなわち人道主義的援助物資の配分を手助けしたり ( しかしながら、飢餓の危機にある山中の数十万人の人々にそれが達するためには即座に空輸される必要がある )、インドネシア政府による解散命令に従わない反独立派民兵集団ミリシアを抑える仕事である。
もちろん、今日、ジャカルタを屈服させた同じ圧力は、残虐を止めさせるために 1―
2 週間前にも使うことができたはずなのに彼らはその力を行使しなかったのだ。
さらにまたその圧力は、 インドネシアに反独立派民兵集団ミリシアを解散させ、その恐怖の兵力を取り除かせるために、6 ヶ月前にも使おうと思えば使わえたのである。
さらに言えば、その圧力は、インドネシアを東ティモールから引き下がらせるために、過去 4 分の 1 世紀に渡るあらゆる時点で、使おうと思えば使えたものである。
その圧力は、もっと遡って、1975 年 12 月に、インドネシア侵入の初期段階で、先手を打って使おうと思えば使えたものである。
14.米国は、東ティモールで何か積極的なことをするであろうか
?
米国の政府は、人道主義的関心からは行動しない。
米国の政治的・経済的エリートは、自らの利益を追求し自らの利益を促進するためには、信じられないほどの野蛮な行為でさえ容易に黙認し、歓迎しさえする。
しかしながら、もし彼らがそうしないと社会的損失が著しく大きくなるように仕向けることが出来るならば、米国のエリートに積極的な肯定的な方向で行動するよう圧力をかけることも時には可能である。
アメリカで人道主義が噴出し、それが政策立案者の計算に入力された時でさえ、米国政府はベトナム戦争を縮小しなかった。
人道主義ではなく、ベトナム人の抵抗と米国内の社会混乱が戦争を続ける費用をあまりに高くしたから、それが戦争を終わらせたのである。
私たち民衆が、大虐殺を扇動し続けることの社会的損失を高めることによって、米国政府がそうせざるを得ないように圧力をかけさえすれば、米国政府は東ティモールに関して何か積極的なことをするであろう。より正確に言えば、米国政府は恐ろしく否定的な状況に関わるのを止めるであろう。
したがって、米国の東ティモール政策を変えたいと望む人々にとっての戦略は、米国のより一般的政策を変えることを望む人々にとっての戦略と全く同じである。
つまり、米国のエリートが反応するのは、道徳的説得ではなく、利害の損得計算に対してだからである。
したがって、彼らの選択に影響を与えたいと望むときは、彼らが直面する損得計算を変える条件を作り出すことが必要である。
それをする唯一の方法は、彼らの意思を変えさせる真の条件をはっきりと意識し、彼らが大事にしているものを脅すだけの不同意運動を組織化することである。
もしもチモールにおける虐殺行為を追求したり黙認することが、政治エリートの地位を強化し、彼らの金庫を豊かにするなら、またもしその行動を相殺するだけのコストを政治エリートに嫁すことができないならば、その虐殺行為は続くであろう。
もしもこれらの政策によって呼び起こされる民衆の行動が、進行中の平穏さといつもの日常生活を脅し始めるならば、またもしもそれが成長・拡大してティモールにまで届く恐れがあるだけでなく、時が経つにつれて,このような出来事の背後にいる基幹投資家にまで届くようになれば、それこそ真の危険な損失であり、政治エリートはそれを非常によく理解している。
では、この問題に道義上の関心をもつ人は何をすればよいか ?
まず事実を知ること。そして知ったことを他の人に教えること。また自分が政府の政策に不同意であることを明白にする努力をすることである。それは、価値のあるプロジェクトと機関に寄付し、財政的に支援することによってもできるし、価値のあるプロジェクトと機関を組織化することに自分が費やした時間と労働によっても、自分が政府の政策に不同意であることを明白にできる。
それは複雑なことではない。
それは、ティモールに関しても、コソボに関しても、湾岸戦争に関しても、ニカラグアに関しても、ベトナムに関しても、全く同じ回答である。
それは外交政策追求に対しても同じ回答である。会社に対してストライキに勝とうとするときでも、NAFTAを逆転させる闘いでも、マイノリティ雇用促進条例(アファーマティブ・アクション)を守ろうとする闘いでも(或いはまずそれに勝利しようとするときでも)
基本的には同じ闘い方なのである。
つまり、政治エリートにインパクトを与えるためには、彼らの活動の社会的損失をうんと高めて、政治エリートがその行動を終わらせたいと望む以外に選択の余地をなくさせることが必要なのである。
(翻訳:寺島隆吉&寺島美紀子)