コソボ和平協定
Kosovo
Peace Accord
By Noam Chomsky (July ’99)
コソボは、NATOがセルビアの一行政区と見なしているものであるが、3 月 24 日、アメリカに先導された NATO 空軍はコソボKosovo を含むユーゴスラビア連邦共和国 ( FYR 、すなわちSerbia及び
Montenegro ) を猛攻撃し始めた。そして、6 月 3 日、 NATOとセルビアは和平協定に到達した。
ミロシェビッチに降伏を強いる10 週間の奮闘を首尾よく終え、アメリカは勝利宣言をした、とニューヨークタイムズ紙で、Blaine Harden は報道した。したがって、かってハーデンが巻頭記事において
「いかにしてセルビアを浄化するか」という見出しで、彼が勧めていた方針とは違っって、「セルビアを浄化する」ために地上部隊を使うことは、もはや不必要であろう。
アメリカが建国から現在の日まで民族浄化というテーマによって支配されてきた歴史を考えてみれば、そのような勧めは自然なものだったし、その成果が軍事攻撃用ヘリコプターや他の破壊兵器に与えられた名前で祝われていることを考えてみても当然のものである。しかしながら「民族浄化」の資格は整っている
。とはいえ、「民族浄化」という言葉は本当はアメリカには適切ではない。なぜならアメリカの浄化作戦は一つの民族にとどまらず普遍的なものだからである。インドシナと中央アメリカは 2 つの最近の実例である。
とはいえ、勝利を宣言しつつも、ワシントンはまだ平和を宣言しなかった。というのは、
コソボ協定の NATO 側の解釈を相手に押し付け、相手がそれを受諾したことが確定されるまで爆弾投下は続くからである。爆弾投下はその最初から、宇宙的意味を持つ問題として投げられたサイコロであり、New
Humanismを占う試金石として投げ掛けられたものであったからである。
「新しい人道主義」とは、「文明開化した国々
」the "enlightened states" (『Foreign Affairs』誌 )が、新しい国際主義によって導かれた歴史の新時代を切り開くもので、
イギリスの首相、Tony Blairによれば 「全ての少数民族に対する残酷な抑制がもはや許されない新しい時代の到来を示すものである。」
「文明開化した国々」というは、アメリカとその提携者であるイギリス、そしておそらく、その正義のための十字軍に名を連ねる他の諸国を指すものであろうが、「文明開化した国々」の地位は明らかに定義によって授けられるものである。したがって、その国が「文明開化した国々」であるかどうかの証言または主張をその国の歴史から得ようとしても、その試みは無駄である。なぜなら「路線変更」(change of course)という熟知の政治教義によって、その国の歴史とその国が「文明開化した国々」であるかどうかとは、どんなことがあっても無関係であると見なされているからである。
この教義は、過去を記憶の穴という最も奥深いところに送り込むために、イデオロギー制度において規則正しく行使され、かくして、誰かが次のような最も明白な質問を尋ねるかもしれないという恐れを思い留まらせるのである。すなわち「社会制度の構造と権力の配分が本質的に変わらないとすれば、戦術上の修正は別として、政策における根本的転換をどうして期待できるのか?」「過去に野蛮な政策を取り続けてきた国が、どうして突然、文明開化した国家として振舞えるのか」という質問である。
しかし、そのような質問は協議事項・予定表には載せられていない。和平協定が発表されたとき、グローバル・アナリスト、Thomas Friedman はニューヨーク・タイムズで、「 コソボ問題は、もそもの最初から、悪事が重要でない場所で起こるとき、いかに対処すべきかに関するものであった」と言い、彼の道徳的な原理を追求するために、「文明開化した国々」を賞賛する。
すなわち彼は「難民の追いたてが始まったからには、ユーゴスラビア側ではなくコソボ側が間違っているかもしれないということは、この際、脇に置き、攻撃目標を限定した大量空爆という手段を使うことは、戦術上、意味をなす唯一のものであった」というのである。
しかし、小さいながらも一つの問題は、「難民の追いたて」についての懸念が「大量の空からの爆撃」の動機ではなかったことである。国際連合難民弁務官(The United Nations Commissioner for Refugees:UNHCR ) は、爆撃が始まった3 日後の3
月 27 日に、コソボの外で最初に記録された難民を4000と報告している。その総計は 6 月 4 日まで増加し、近隣の諸国 ( アルバニア、マケドニア ) で67万人と報告された。それに加えて、モンテネグロ(
FYR の中で ) における見積りは 7万人であり、さらに他の国に向かった難民は7万5千人と推定されている。
この数字は不幸にもあまりにも熟知されているものだが、それでもこの数字はコソボ内で移動させられた未知の数を含まないもので、 NATO による爆弾投下の前年でその数は約2−3万人だから 、爆撃後はその数が激増したと考えられる。要するに、議論するまでもなく、莫大な爆弾投下は、民族浄化と他の残虐行為をいっそう激化させる結果となったのである。
その多くは新聞を通じて、現場にいる通信員によって、またその解説記事のなかで絶えず報告された。コソボにおける人道主義的な危機に対する反応として爆弾投下を描こうと試みる 2 つの主要な文書においてすら、同じ情況が報告れている。その第1は、5 月に国務省によって提供された最も広範な報告で、適切にも「抹殺の歴史(Erasing
History)、コソボ における民族の浄化」と名づけられている。
第 2
は、ユーゴスラビアにおける戦争犯罪に関して、国際裁判所が提出したミロシェビッチとその追随者に対する告訴である。これに対してニューヨーク・タイムズは、丸々2ページを費やし、「異例の早さで告訴にたどり着いたのは、
これまで西側の政府によって長い間、拒否されてきた機密情報や他の情報を、アメリカとイギリスが 検察官 Louise Arbourに提供することによって道を開いたからである」と報道した。
この双方の文書は、残虐行為が「1月1日もしくはその前後」に始まったとしている。しかしながら双方の文書における、時間を追っての詳細な記録は、爆弾投下までは前と同様に続けられた残虐行為が、爆弾投下によって非常に鋭い激化につながったことを明らかにしている。しかしそれはNATO 軍にとっては驚きでも何でもなかった。というのは、NATO 軍総司令官 Wesley Clarkは、爆撃直後すぐに、これらの結果を「完全に」「予想されたこと」と評したからである。
が、それは、もちろん誇張であろう。というのは、その結果が予期されるものであることを示す十分な証拠が入手可能だとしても、人間に関することで「完全に」予測可能なものは何もないからである。そのことは、機密情報にアクセスすることができなくても容易に理解されることだと思うが。
それはともかく、「莫大な爆弾投下」の効果の 1 つの小さい指標が、 ピッツバーグ大学のロシア・東ヨーロッパ研究センター(the Center for Russian and
East European Studies)所長、Robert Hayden によって提供されている。
彼によれば、「爆撃開始後の最初の3 週間におけるセルビア一般市民の間の死傷者数は、それ以前の3 ヶ月間の、 Kosovo における双方の死傷者数の全てより多いのである。にも拘らず、逆に、その
3 ヶ月間が爆撃を引き起こすに至ったとされ、人道主義の観点からすると大惨事と見なされている。」
しかし、この特別な結果は、強権的外交論者の病的興奮状態という状況では、何の意味も持っていないのも事実である。というのは、彼らはセルビア人を悪魔と見なすよう精神的に鞭打たれているからである。そして遂には、一般市民を攻撃目標にして公然と爆弾投下をするようになり、更に自分たちの行為に対して熱烈な弁護を要求するという、興味ある高さにまで達してしまったのである。
それはともかく、先述の Friedman の「 コソボ問題は、もそもの最初から、悪事が重要でない場所で起こるとき、いかに対処すべきかという問題である」という修辞的疑問に対する、少なくとも、もっと信用できる答えの手がかりは、 偶然、同じ日に、Stephen
Kinzer によるアンカラからの報告で与えられた。彼によれば、トルコの最も有名な人権擁護の活動家が、「クルド人の反体制運動と平和的解決をするようトルコ政府に促した」という罪に問われ、判決に服するため「入獄した」というのである。
Kinzer
はこの記事の数日前に、この事件にかかわって「クルド人が他の市民と同じ権利を与えられているとトルコ政府が主張している」ことをすでに間接的に紹介していた。何人かのクルド人がトルコ政府の支配下で弾圧されていると語っているにもかかわらず、である。90年代半ばから行われている、最も極端な民族浄化作戦
に対して、この記事は正当な扱いをしているのかどうかが問われているのではないか。
なぜなら、トルコでは恐ろしい残虐行為が行われているからである。何万人ものクルド人が殺され、3500の村が破壊され、約 2.5 〜 3 百万人もの難民が生まれている。ところが、この残虐行為は、主要な人権組織によって詳細に報告されているにもかかわらず、アメリカのメディアでは無視されているからである。この残虐行為は、ミロシェビッチという選ばれた敵に対して毎日、新聞の第一面が報道している残虐行為に優に匹敵するにもかかわらず、である。
この惨事・残虐行為はアメリカからの大規模な軍事援助のおかげで遂行され、しかも残虐行為が頂点に達したとき、その援助は増大しているのである。その援助の中には、最悪の殺人者のための機密情報や軍事訓練の提供だけでなく、ジェット機、攻撃ヘリコプター、対ゲリラ作戦装置、さらにはテロと破壊の他の方法を含んでいるのである。
これらの犯罪が、NATO そのものの中で、90年代を通して行われつづけ、しかもヨーロッパ協議会(the Council of Europe)及びヨーロッパ人権裁判所(the
European Court of Human Rights)の司法権
の下で行われつづけてきたことを思い起こしてほしい。しかもヨーロッパ人権裁判所はそのアメリカに支援された残虐のためにトルコに対して違法の判断を下し続けてきたのである。
4 月の
NATO 50周年記念日の祝賀に際して、これらの事実のどれにも注目しないようにするためには、その参加者と解説者に真の規律・自己規制が必要だったのである。その規律・自己規制は、記念日が民族浄化についての暗澹たる関心によって曇らされたが故に、特に印象的であった。それは自分たち「文明開化した国々」によってではなく、自分たちが特定の国を敵として公式に指定することによって曇らされてしまったのである。
なぜなら、その「文明開化した国々」は、「新しい人道主義」(New Humanism)の原理の下で、世界の苦しんでいる人々に正義と自由をもたらすという伝統的任務に再び貢献し、そしてもし必要ならば力ずくで、人権を擁護する使命を持つとされていたからである。にもかかわらず、トルコとユーゴに対するこの違いはどうしたことか!?
確かに、これらの犯罪は「悪事が重要でない場所で起こるとき我々はいかに対応すべきか」の深い質問に対して「文明開化した国々」によって与えられた答えの1 つの実例に過ぎない。そのような傍注のような事件(such marginalia)が無作法に提示されたとき、「残虐行為をエスカレートさせるために介入するべきである」というのが一つの答えであり、それがたまたまコソボで使命遂行されたというわけである。
つまり「一般には回避されること」(the common evasion)でも、それを「二重の標準」(double standard)の下で見過ごすのではなく、トルコの場合もユーゴスラビアの場合も、等しく残虐行為をエスカレートさせるために介入するべきである」というわけである。このことは事態の経過によって明瞭に示されている。ただし今回の軍事行動はイデオロギーと政治的教義のプリズムを経て屈折させられたものではなかったが。
1990
年代のコロンビア共和国における(アメリカに支援されて産まれた)年間総死者数の レベルから、1990 年代に NATO/ ヨーロッパそのものの中で爆弾投下が継続すれば到達したであろう総死者数のレベルまで、「大量空爆
the huge air war 」の結果として産まれる残虐行為の水準・最高到達点が変更になったという観測は、さすがワシントンも喜んで受け入れるわけには行かない。
とはいえ、ワシントンからの進軍命令はいつものとおりのものである。すなわちレーザー光線のように焦点を現在の公式の敵の犯罪に絞れ、そして現在の攻撃が過去の犯罪に匹敵するか、もしくは更に悪い犯罪であったとしても、それに心を乱されるな、というものである。というのは、残虐行為を永続または増大させる際に「文明開化した国々」の果たした決定的な役割のおかげで、大国の利益が逆転し、緩和または終了を命じさえすれば、残虐行為は容易に緩和されるか終了されるからである。
だとすれば、ワシントンの命令に服従し、関心をコソボだけに集中して、トルコその他の問題に首を突っ込むな、というわけである。
ところで、コソボ和平協定を最小限まじめに調べようとするなら、 3 月 23 日、すなわち「莫大な爆弾投下」が開始された前日の外交上の選択肢を再検討しなければならないし、 6 月 3 日の NATO
及びセルビアによって到達された合意とそれらを比較しなければならない。
ここで我々は 2 つのバージョンを区別しなければならない。すなわち (1) 事実(the facts)、 (2) 事実の事実のひねり(spin)(the
spin)、つまり事実のアメリカ /NATO バージョンであり、「文明開化した国々」における報告と解説のでっち上げである。
これまでの事実経過を最も疎略に概観しただけでも、「事実」と「事実のひねり(spin)」が鋭く異なることが明らかになる。かくして、ニューヨーク・タイムズは、和平協定の本文を提供するにあたって「二つの和平案、それはどのように異なるか」という見出しを挿入した。
2 つの和平案とは、
3 月 23 日に受諾するか、さもなくば爆弾投下かの最後通告としてセルビアに提示されたランブイエ(中間)協定Rambouillet (Interim)
Agreement と、6 月 3 日のコソボ和平協定(Kosovo Peace Accord)である。
しかし、現実の世界では、3 つの「和平案」があり、そのうちの 2 つが3 月 23 日の交渉テーブルに出されていたのである。すなわちランブイエ協定と、それに応えるかたちで提出されたセルビアの国会決議である。
そこで、3 月 23 日の 2 つの和平案から検討を始めよう。まず、いかにそれらが異なっていたか、そして、それらが 6 月 3 日のコソボ和平協定とどの程度、一致するかを尋ね、次に、
( 十分な ) 先例にいくらかの注意を払うならば、我々が和平協定を破ると、その論理的帰結としてどのようなことが期待できるかを簡潔に振り返ってみよう。
ランブイエ協定は、 NATO がコソボを完全軍事占領し政治的にも統制すること、NATO 軍によってNATO が自分の意のままにユーゴスラビアの残りの領土についても実質的占領することを要求していた。またNATO
は、自分たちが軍隊 ( KFOR )を編成し、それをコソボ内および周辺に配置・指揮すること、北大西洋評議会 ( NAC ) の権威の下でNATO 指揮系統を通じて作戦活動を展開し、NAC
の指示と政治的統制に従うことになっていた。
さらにまた、KFOR 指揮官は、作戦区域内において、この条項[ 軍事的合意の遂行 ]の解釈に関する最終的権威者であり、彼の解釈は全ての当事国と当事者を(
無条件で) 拘束すること、短い時間枠の中で、全てのユーゴスラビア軍と内務省警察は、「認められた宿営地」に移動し、その後、セルビアへ引き上げることになっていた。
ただし、限られた武器 (全て詳細に指定されたもの) を持ち、国境線警備につくように任命された小部隊は別扱いとする。これらの小部隊の任務は、攻撃から国境を守り、「不法な国境線横断を取り締まる」ことに限定され、これらの仕事から離れてコソボ内を旅行することは許されない。
また「この協定が強制力を持つようになって 3 年後に、コソボ問題の最終解決のための手順」を決定するために、国際会議が召集される」ことにもなって入た。言及されてはいないが、このパラグラフは、コソボ独立に関しては国民投票を要求するものと常に解釈されてきた。
ユーゴスラビアの残りの領土に関する占領期間は Appendix B 、「多国籍軍事遂行部隊」の項目で示されている。その決定的パラグラフは第 8 項であり、次のように書かれている。
第 8
項:NATO の人員は、自動車、船舶、航空機、及び鉄道車両と共に、関連空域・領海を含むユーゴスラビアの至る所を制限されずに通過し、至る所に妨げられずに行く権利を享受する。この条項は、野営・機動作戦・民家提供命令の権利、及び支援・訓練・作戦のために必要とされるあらゆる地域または設備の利用の権利を含むが、それだけに限定されるものではない。
残りの条項は、NATO 軍とその傭兵が、ユーゴスラビアの全領域を、ユーゴスラビア国の法律と司法権に対して一切の義務と考慮を払う必要なく、自分たちが選ぶがままに行動することを許す条件を明記している。彼らは優先的に、しかもあらゆる適切な手段をもって、NATO
の命令に従うことを要求されるだけなのである。
ひとつだけ「全ての NATO 人員はユーゴスラビアで適用されている法律を尊重する」という項目があるが、しかしそれには、この項目を無に帰するような条件がつけられている。すなわち「このAppendixの下で、全てのNATO人員はユーゴスラビアの法規にたいする免除という特権を失うことなく、…」というものである。
その言い回しは、ユーゴスラビアの法律を拒絶してもよいということを保証するために考え出されたと、これまで推察されてきた。おそらく、そのとおりであろう。無条件降伏というかたち以外には、どの国もそのような条文を考慮に入れるとは考え難いからである。
戦争に関して広範囲にわたって調べてみても、いま引用した、Appendix B のような致命的欠陥条項に近い協定は、どこにも参照文献を見出せないであろう。しかしながら、それが民主主義的選択と無関係になるやいなや、規制は解除され、後者は報道されたのである。
6 月
3 日の平和合意後の 6 月 5 日に、ニューヨーク・タイムズは文章も引用しながら、ランブイエ合意の附則として、「純粋のNATO軍は、ユーゴスラビアの法的手続きにとらわれず、どこでも行きたいところに行くことのできる許可を与えられることになっていた」と報道した。
明らかに、ランブイエ合意における公式の和平手続きの基礎的用語とその明瞭な・繰り返された説明がないからには、一般の人が、起こっていることを真面目に理解しようとしても不可能であったし、コソボ和平協定という選択肢の正確度を評価することも不可能であった。
第 2
の和平案は3月 23 日のセルビア国民議会の決議において提出されたものである。議会は NATO軍による占領要求を拒絶し、ヨーロッパ安全保障機構(OSCE:Organization
for Security and Cooperation in Europe)と国連が、外交による平和的解決を促進することを要請した。それは3 月 19 日 の
OSCE コソボ査察使節団(Kosovo Verification Mission)の引き上げを非難した。なぜなら、それは3 月 24 日の爆弾投下準備のためにアメリカによって命令されたものだからだ。
決議は、「 Kosovoと Metohija (行政区の公式名称) の広範囲な自治に関する政治的合意に向けた政治的妥協を呼びかけていた。それには全ての市民と少数民族共同体に完全なる平等を保証すること、及びユーゴスラビア連邦共和国とセルビア共和国の主権と領土の統合を尊重することも含まれていた。
更に、セルビア議会は「 KosovoとMetohija における外国軍隊の存在を受け入れないが」、セルビア議会は、Kosovo と Metohija に住む全ての民族の代表によって、合意し受け入れられた自治に関する政治的協定に署名がされたならば、合意された協定を遂行するために、Kosmet
[ Kosovo / Metohija ] で国際的軍隊が存在すること、その規模や性格について、すぐにでも再検討する用意があると述べている。
これらの決議の要点は、主要通信社を通じて報道されたから、全ての新聞テレビなどの報道機関はそれを知っていたはずなのである。ところが、いくつかのデータベースで検索してみると、どの国の報道機関・主要雑誌も上記の点についてほとんど言及していないのである。
こうして、3 月 23 日の 2 つの和平案は一般大衆に知られていないままであるし、その和平案が 1 つではなく 2 つあったという事実さえも知られていないのである。普通の新聞の見出しは「ミロセビッチは国際的な平和維持のための計画(すなわち
Rambouillet Agreement) を受諾はもちろん、討議すら拒否し、それが NATO による 3 月 24日の爆弾投下を始めさせた」( Craig
Whitney 、ニューヨーク・タイムズ) というものである。ただし、多くの論説のうち一つだけはセルビアの決議を取り上げ、その宣伝を非難しているのだが、その新聞ですら、確かに疑いもなく、いくつかの見落としがあるのである。
セルビア国民議会の決議が意味したものに関して、それに対する回答は、狂信者の種類によってなる回答ではあったが、狂信的武力強硬論者によって確信をもって知られている。しかし他のものにとっては、その回答を見い出す方法、平和的解決の可能性を探る道があったではずである。しかし、「文明開化した国々」は、この選択肢を追求せず、むしろ予期された結果となる(すなわち大量の難民と虐殺へと導く)爆弾投下を選んだのである。
外交上、次にどんな手が打たれたか、政治的教義にどんな屈折が生まれたかは注意に値する。しかし私は、ここでその分析を省略し、6 月 3 日のコソボ協定に話を変えたい。
予期されたように、コソボ協定は、3 月 23 日の 2 つの和平案の妥協物である。既に引用したたように、少なくとも新聞紙上では、アメリカ /NATO は、ユーゴスラビアの主要な要求を却下し、それは最後通告に対するセルビアの拒否につながった。その代わり、セルビアは、実質的には
NATO が参加するものになるにしろ、国際的な安全保障軍が駐留することには同意した。ただし、それは統一された指揮命令の下で、すなわち国連主導の下で配備されるものとした。
和平協定の追加項目では「ロシアの地位」について述べられ、「ロシア派遣軍は NATO 軍の指揮下には入らず、駐留する国際軍との関係についても、適切な追加合意文書によって取り決められる」とされている。一般的に、
NATO 軍および国際軍がユーゴスラビアの残りの領土に出入りすることを可能にする文言もない。コソボの政治的統制も、NATO の掌中にはなく、国連安全保障会議(UN
Security Council)が責任を持ち、「 コソボの暫定管理」を確立することになっている。
ユーゴスラビア軍の撤退は、ランブイエ合意では詳細に指定されていないが、コソボ協定では撤退が加速されることはあっても遅延することはない。残された検討課題は、3 月 23 日の 2 つの和平案の合意範囲である。
3 月
23 日に外交上のイニシアチブが追求されれば、ユーゴスラビアや他の場所で大きな影響をもたらす結果になるような恐ろしい悲劇を避けることが可能だったにもかかわらず、現在の結果は多くの点で全く不吉なものを暗示している。
確かに、現在の状況は 3 月 23 日の状況と同じではない。コソボ和平協定当日のタイム誌の見出し「コソボ問題はまさに始まりつつある」はそれを正確に捉えている。
Serge
Schmemann が現地で見てきたように、待ち受けている「難問」には、難民を本国に、「灰と墓所の土地」に送還すること、「コソボ、セルビアの他の地域、そして隣国の荒廃した経済を再建するという途方もなく金のかかる仕事」などがある。
彼は、ブルッキングス研究所(Brookings Institution) のバルカン史研究者 Susan Woodwardの言葉を引用し、「空爆の結果、安定したコソボを作ろうと私たちを援助している人たちの全ての努力が破壊されてしまい」、その後の統制をコソボ解放軍(KLA:
Kosovo Liberation Army ) の掌中にゆだねてしまったと付け加えている。
アメリカは、1998 年 2 月の組織的攻撃を実行する時は、コソボ解放軍(KLA)を「疑問の余地なく、暴力的破壊集団」と強く非難していたし、その活動はワシントンも「テロ活動」として「非常に強く」非難していた。おそらくそれがコロンビア共和国型へと傾斜する厳しい弾圧への「許可」をミロシェビッチに与えることなり、爆撃がそれをさらに激化することなったのである。
これらの「難問」は新しいものであり、空爆に対するセルビアの冷酷な反応である。「文明開化した国々」が空爆という暴力に依存する前に、それらの問題は十分に脅威であったにしても、それらは「空爆の結果」生まれた問題なのである。
「事実」から「事実のひねり(spin)」に話題を変えることにしたい。新聞は、「文明開化した国々」とその指導者の壮大な勝利を歓迎する見出しを掲げた。ミロシェビッチに「降伏」を強要し、彼に「NATO主導の軍隊を受け入れる」とアメリカに言うまでに至らせ、ユーゴスラビアを「無条件に近いかたちで」降伏させたからである。それは誰もが想像していたかもしれないものだが、ミロシェビッチがランブイエ案で拒否したものより更に悪い取扱いに屈服するものだった。
事実そのものではないが、事実よりはるかに更に有益な話が 1 つある。それはすなわち、議論されている唯一の重大な問題は、この降伏は空爆のみが高い道徳的目標を達成し得ることを示しているのか、それとも、この論争に加わることを許された評論家たちが主張するように、この件はまだ証明されていないのか、という問題である。
軍事専門家 Fred Kaplan の報告によれば、イギリスの「著名な軍事史家」John Keegan はその戦争を、より広い意味では、空爆の力ではなく「湾岸戦争のあとブッシュ大統領が宣言した
New World Order(新世界秩序)」の勝利と見なし、「ミロシェビッチが実際に敗北者であるならば、世界中の他の自称ミロシェビッチは全て自分たちの計画を再考しなければならないであろう」と書いているという。
その評価は現実に見合ったものである。もっともKeegan が念頭においていたであろうものとは違った意味においてだが。それよりはむしろ、「新世界秩序」の実際の目標と重要性(これはまだ報道されていない90年代の重要記録文書で明らかにされるはずのものだが)という点で、また「世界中のミロシェビッチ」という言葉の真の意味を理解するには事実に基づく証拠が情報過多であるという点で、その評価は現実に見合ったものなのである。
ところが、決定的かつ増大するアメリカの支援によって、ヨーロッパの司法権の下で、NATO
そのものの中で行われた、大規模な民族浄化作戦と恐ろしい残虐行為に関しては、バルカン諸国の領域に限り上記の非難は無効だとされるのである。しかもそれは、世界中で最も恐ろしい軍隊による攻撃に対抗して行われたものでもなかったし、他国に対する侵略という差し迫った脅威に対抗して行われたものでもなかったのである。
アメリカこそが「世界中のミロシェビッチ」の1人かもしれないにもかかわらず、これらの犯罪は「新世界秩序」の支配の下では合法的であるだけでなく、おそらく賞賛に値することなのである。それは、「文明開化した国々」の指導者たちの自覚的利益に合致する残虐行為が、他のどの地域においても合法的であり、必要な時には彼らによって規則正しく実行されるのと同じである。
特に不明瞭なものではないこれらの事実は、「新しい国際主義」のもとでは、全ての少数民族に対する残酷な弾圧は、許容されるだけでなく、積極的に処理されるということを示している。それはまさに、ヨーロッパ共同体(the Concert of Europe)、アメリカそのもの、および多くの他の顕著な前任者が「古い国際主義」の下で行ってきたことと何ら変わりない。
「事実」と「事実のひねり(spin)」が鋭く異なるにもかかわらず、メディアとその解説者がアメリカ /NATO バージョンの報道をあたかも事実であるかのように提示するとき、ひとは彼らが現実的であると主張する可能性があるのである。権力の分配とその要求に奉仕する明確な意見に意欲的にしたがう単純な結果として、それは事実(The
Facts)になる。それは規則的現象である。
最近の例としては、 1973 年 1 月のパリ平和条約、及び 1987 年 8 月のエスキパラス協定(Esquipulas Accords)がある。前者の場合、アメリカは、それに先立つ1972年10
月に合意に達したにもかかわらず、そのアメリカ‐ベトナム合意をハノイに破棄させるためにクリスマス爆撃を行い、それが失敗した結果、1973 年 1 月のパリ平和条約に署名するよう追いこまれたのであった。
ところが、キッシンジャーとホワイトハウスはただちに、上記の条約とは異なる案を提示することによって、彼らが署名しつつある条約の全ての重要項目を履行する意思のないことを明快に宣言したのである。しかもその異なった案が事実として報道され、解説でも採用されたのである。そして北ベトナムが重大なアメリカの協定違反に堪りかねて反撃したとき、事実に見るとおり、度し難い侵略者という名目で再び爆撃を受け、懲罰を受けなければならなかったのである。
中央アメリカの大統領がアメリカの強い反対を押してエスキパラス協定(Esquipulas Accord、しばしば アリアス案 the Arias plan と呼ばれる ) の合意に達したとき、同じ悲劇 /
笑劇が起こった。ワシントンはただちに協定の欠くべからざる一つの項目を踏みにじって戦争を大幅に拡大し、力ずくでその他の項目までも解体し始めたのである。そしてその後の数ヶ月で、これまでの全ての外交上の努力を覆しつづけ、ついに自分たちの勝利を手にしたのである。
かくして、ワシントンの協定案は、決定的な点において元の調印案を大幅にゆがめたものであったにもかかわらず、それが受諾された案となったのである。その結果、「アメリカの勝利」として新聞の見出しを飾ることが可能になったのである。荒廃と流血を乗り越えた「フェア・プレイ」、「喜びの中で団結した」アメリカ人、「ロマンチックな時代に」歓喜に酔う―これは
Anthony Lewis によるニューヨーク・タイムズの見出しだが、これは全て、完遂された使命に関しての一般的な幸福感を反映している。
これら及び多数の同様の事件における「その後」を再検討することは無用である。現状では、これと異なる話が展開すると期待できる理由はまずない。通常の、決定的な条件においては、すなわち我々がアメリカの現状をそのままに放置していては。
(翻訳:寺島隆吉、Znet Magazine, March ’99;
http://www.zmag.org/chomsky/article)
訳 注
1 Kellog-Briand Pact とは1928年に15カ国の合意によって(最終的には62カ国が承認した)成立した協定で、パリ協定とも呼ばれる。全ての紛争を平和的手段によって解決し、戦争を国家的政策の手段とすることを放棄した。アメリカの国務長官Frank
Billings kellogとフランスの外務大臣Aristide Briandが最初の呼びかけ人だったので、Kellog-Briand Pactと呼ばれている。
2 ここで「アフリカの小国」とあるのは、リビアを指すものと思われる。1980年代初頭から、リビアとアメリカの関係が悪化し、1981年にリビアの空軍機2機がアメリカに撃墜されたのを契機に、互いに攻撃と報復を繰り返すようになった。その背景にはアラブの石油をめぐる争いが潜んでいると考えられる。というのは石油輸出国機構OPEC
(Organization of Petroleum Countries)の一員としてリビアが石油の産出制限と石油価格の引き上げに主導的役割を果たしていたからである。
3 「アメリカが建国から現在の日まで民族浄化というテーマに支配されてきた」とあるのは、西部開拓の歴史は先住民族いわゆるアメリカ・インディアンを虐殺する歴史でもあったことを指すものと思われる。しかも恥知らずにも、軍事用ヘリコプターや攻撃兵器に「アパッチ」や「チェロキー」など自分たちが虐殺してきた先住民族の名前をつけている。それがインドシナや中米に拡大したのがベトナム戦争であり、パナマやニカラグアなどの中米諸国への侵攻だ、とチョムスキーは考えているのである。
4 Esquipulas Accord とは、それまで内戦が激化していた同地域の平和と安定のために、1987年にコスタリカの大統領だったArias
Sanchezが中央アメリカ諸国の合意を取り付けた和平協定で、彼の名を取ってArias Planとも呼ばれている。これが認められて、Ariasは1987年のノーベル平和賞を受賞している。しかしチョムスキーが述べているように、アメリカの手を縛るこの協定に同国は強い不快感を示し、それを反古にするためにあらゆる術策を尽くした。その結果は本文に見るとおりである。
5 またチョムスキーの学問と政治を知る上で格好な参考文献としてRobert F. Barsky (1977), Noam
Chomsky: A Life of Dissent, Ontario, Canada: ECW Press (土屋俊&土屋希和子・訳『ノーム・チョムスキー:学問と政治』産業図書、1998)
がある。第1部「チョムスキーを育んだ環境」、第2部「チョムスキーが作り出した環境」と2部に分かれていて、彼がどのような家庭・学校の中で育ち、その結果、世界にどのようなインパクトを与えるようになったかを詳細に記している。