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最良の人間による帝国、多頭政治のイデオロギー
Empire of the Men of Best Quality、The Ideology of
the Polyarchy
ノーム・チョムスキー
2003年11月1日
[翻訳:寺島隆吉+岩間龍男、公開2003年11月29日]
現代生物学の偉人エルンスト・マイヤーによれば、「ひとつの種の平均寿命はおよそ10万年であり、」恐らく「人類は『生物学的な誤り』であり、割り当てられた10万年間で自らを破壊し、その過程で他の多くのものも破壊するだろう」という。
2002年12月までの国際的な世論調査によれば、ワシントンのその戦争計画への支持率は世界のほとんどどこでも10%に達していなかった。2ヵ月後、巨大な世界的規模の反戦運動があった後、報道機関は次のように報じた。「世界には強大な大国がまだ二つあるのかもしれない。米国と世界世論だ。」
17世紀の英国における現代の民主主義革命以来、支配階級の目標は、「大きな野獣」(アレクサンダー・ハミルトンが民衆のことをこう呼んでいる)が、その適切な境界を破って飛び出してしまわないよう、その囲いを確保することであった。(要約:寺島)
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以下はメトロポリタン・ブックスから出版されたノーム・チョムスキーの『覇権それとも生き残り:米国の世界支配の探求』からの抜粋である。
数年前、現代生物学の偉人エルンスト・マイヤーが宇宙人捜索の成功の見込みについての考察を公にした。彼はその見込みは非常に低いものだと考えていた。彼の推理は特別な人間の形をした知的生命体のいわゆる「高度な知能」の適応度と関係がある。
マイヤーは生命の起源以来の種の数を500億と見積もった。そしてその中のひとつの種だけが「文明を確立するのに必要とされる知能を達成した」。それはまだつい最近のことであり、おそらく10万年前のことだった。ただひとつの小さな繁殖するグループだけが生き残り、私たちは皆その子孫であると一般には推測されている。
人間の形をした知的生命体は選択によって[生き残ったからといって]肯定されていないと、マイヤーは考えた。地球上の生命の歴史は、少なくとも生物学的な成功ということから判断して、「バカより利口がいい」という主張をしりぞけていると彼は書いている。例えば、生存ということに関してはカブト虫やバクテリアのほうが人間より大きな成功を収めている。また彼は「ひとつの種の平均寿命はおよそ10万年である」というかなり暗い観察をしていた。
私たちは、バカより利口のほうがいいかどうかという問題への解答を与えてくれるかもしれない人類史の時期に突入している。最も希望に満ちた展望は、その質問に答が与えられないことだ。もし明確な解答が得られるなら、その唯一の答は恐らく「人類は『生物学的な誤り』であり割り当てられた10万年間で自らを破壊し、その過程で他の多くのものを破壊しつつある」というものだろう。
人類は確かにそのような殺戮能力だけを高めた。そして仮説上の宇宙人は次のようにうまく結論を出すかもしれない。人類は歴史を通じて、特に過去数百年のうちにその能力を示したのだ、と。生命を維持する環境やより複雑な生物の多様性に対し攻撃を加え、また冷酷な計算づくの野蛮さで相互に攻撃を加え合うことによって、その能力を示してきた、と。
二つの強大な大国
2003年は人類生存にかかわる懸念があまりにも現実的なものとなった兆候で幕が開けた。2,3の例を挙げると、人類を絶滅させたかも知れない核戦争が40年前にかろうじて回避されたということが、2002年の秋の初めに改めて認識された。この驚くべき発見の直後に、ブッシュ政権は、国連が人類生存への深刻な脅威である宇宙の軍事化を禁止しようとしたにもかかわらず、その努力を妨害した。そしてまたブッシュ政権は細菌戦が起きないようにする国際的な交渉を終わらせてしまい、歴史的にも先例のない大規模な反対があったにもかかわらず、イラクへの攻撃を不可避にするような方向へと活動を展開した。
イラクにおいて広範囲にわたる経験を持つ援助機関と尊敬を集める医療機関の研究は、その計画されているイラク侵略は人道上悲劇的な結末を引き起こすかもしれないと警告した。その警告はワシントンによって無視され、メディアの関心もほとんど呼び起こさなかった。米国の高級特別委員会は、米国内の大量破壊兵器による攻撃は「ありうる」ことでありイラクを攻撃すればさらにその可能性は高まると結論を下した。多くの専門家や諜報機関は同じような警告をし、イラクに関してばかりでなくワシントンの好戦性が長期の国際的なテロリズムと大量破壊兵器の拡散を招いていると付け加えている。
2002年9月、ブッシュ政権は国家安全保障戦略を発表した。この戦略は米国の覇権に対する認知されたいかなる挑戦も取り除くために武力に訴える権利を宣言した。米国の覇権は永久に維持されるべきものだからだ。その新しい壮大な戦略は世界中でそして国内の外交政策エリートの中にさえ大きな懸念を引き起こした。また9月には宣伝攻勢が始まり、サダム・フセインを米国への差し迫った脅威として描き、彼は9.11の残虐行為に責任があり他の事も計画しているとほのめかされた。米国の中間選挙の開始時期に合わせられたその宣伝攻勢は、米国民の態度を変えることに大きな成功を収めた。つまり、ブッシュ政権はそのかげで米国世論をすぐに国際的な世論から切り離し中間選挙の目的を達成することができたし、新しく発表されたドクトリンの適切なテストケースとしてイラクを確立することにも成功した。こうして思うままに軍事力に訴えることができるようになったのだ。
またブッシュ政権と彼の提携者は、もっともらしい口実をつけて、「深刻さを増していると認識されている環境への脅威」を減ずるための国際的な努力を妨害し続けた。しかしその口実が、実は狭い私的権力部門への献身のためのものだということは隠そうとしても隠しきれないものだった。サイエンス・マガジンの編集者のドナルド・ケネディは政府の気象変動科学計画(CCSP)を茶番劇だとして次のように書いた。
「それは[二酸化炭素]排出制限の提言や他の緩和に関する提言を何も含まず、排出減少の自主的な目標に」自分だけが満足しているだけのもで、「たとえそのことが行われたとしても、米国の排出率が十年で14%増加し続けることになってしまうだろう。」
気象変動科学計画(CCSP)は「一連の証拠が増大しつつある」にもかかわらず、それによって示唆されている可能性すら考慮に入れていなかった。つまり、彼らが無視している短期間の温暖化が突然に直線的でない過程の引き金になって劇的な温度変化をもたらし、米国やヨーロッパや他の温帯地域にとって極端な危険になりうる可能性だ。
ドナルド・ケネディは、上記の記述に続けて、ブッシュ政権の「地球温暖化問題の多国間協議の取り組みに対する軽蔑的辞退」は、ヨーロッパの友情をむしばむ長く続く過程の始まりであり、鬱積した憤慨につながる、と述べている。
2002年9月には、次のような事実を無視するのが困難になっていた。「世界は、サダム・フセインが引き起こしている脅威より米国の力の自由な使用をより懸念し、フセインから大量破壊兵器を取り去るのと同じくらい米国の力を制限することに真剣になりつつある」という事実である。
世界の懸念はその後の数ヶ月間でさらに増すこととなった。米国は、[軍事介入の]口実としてきた大量破壊兵器の有無にかかわらずイラク攻撃をするという意図を明確にしたからだ。米国はいやいやながら国連による査察を認めてきたが、大量破壊兵器が発見されなくても攻撃するというのである。12月までの国際的な世論調査によれば、ワシントンのその戦争計画への支持率は世界のほとんどどこでも10%に達していなかった。2ヵ月後、巨大な世界的規模の反戦運動があった後、報道機関は次のように報じた。「世界には強大な大国がまだ二つあるのかもしれない。米国と世界世論だ。」(ここでは「米国」とは国家権力のことを指し、大衆の意見ではないしエリートの意見ですらない。)
2003年の初頭までには、米国に対する恐怖はその政治指導部への不信感とともに世界中で著しく高まった。基本的人権や基本的要求をないがしろにすることは、[米国が]民主主義への軽蔑を表明していることとぴったり符合する。人権や民主主義に対する誠実な献身の表明と同時に上記の軽蔑を示すことは、なかなか前例が思いつかない程のものである。[現在]展開している事態は、子孫に引き継ごうとしている世界について懸念を持つ人々に大きな不安を与えている。
ブッシュの政策立案者は米国の伝統的政策で極端な位置にあるとは言っても、彼らの計画と原理は米国の歴史上にも過去の世界権力を熱望した者たちにも多くの先例がある。さらに不吉なことは、いま一般的なイデオロギーやそれを具現化している制度・機関の中では彼らの決定が非理性的だと思われていない可能性があることだ。破局の重大な危険を目の前にして、指導者が脅しや暴力に訴えようとすることには、十分な歴史的先例がある。しかし今日ではその賭けの危険性は、かってないほど高い。覇権か生存かの選択が、たとえあったにしても、これほど深刻に提起されたことは、かってない。
帝国の覇権を宣言している世界的強国に焦点を当てつつ、複雑なタペストリー(つづれ織り)を構成している撚り糸を解きほぐす試みをしなければならない。その行動と指導的なドクトリンは、世界のすべての人々、そしてもちろん特に米国人にとっても、最大の関心事に違いないからだ。多くの米国人は世界に類のない有利な立場と自由を享受し、未来を作り出す力があるのだから、そのような特権と直接的に結びついている責任と向き合わねばならないのだ。
敵の領域
民主主義と自由、さらにまともな生存を本当に望み、その責任と向き合いたいと考えている人々は、その実現を妨げる障壁を認識すべきである。より民主的な社会においては、その障壁はより巧妙な仕組みになっている。野蛮な社会と自由な社会とではその仕組みは違っているが、目標は多くの点で類似している。つまり、「大きな野獣」(アレクサンダー・ハミルトンが民衆のことをこう呼んでいる)が、その適切な境界からはみ出してしまわないよう、囲いを確保することである。
17世紀に英国で現代最初の民主主義革命が起きて以来、一般の民衆を支配することはいつも権力者や特権階級の主要な関心事であった。自称「最上級の人間」は次のような事態にショックを受けた。つまり、人間の顔をした、目がくらむほどの多数の野獣たちが「英国で王様と議会の間で起きている国内の矛盾、基本的な枠組みを拒絶し、自分たちの望みを知る同胞のつくる政府を要求する」という事態、「彼らは私たちに法律を作り、民衆に対する恐怖のために選出され、私たちを抑圧することだけを行い、人々の痛みの分からない騎士や紳士による政府を拒否する」という事態である。
そこで最上級の人間は、「もし民衆が余りに堕落し腐敗したがために有害で価値のない人々に権力と信用の場所を与えるならば、それを理由に彼らが善良なる少数の人々に自分たちの権力を没収されても当然なのだ」と認識するに至った。
およそ3世紀後に、ウイルソン流の理想主義(一般には、そのように名付けられている)は、かなり同じような立場を採用した。つまり、海外においては、政府が少数の善良な人々」の掌中にあるようにすることがワシントンの責任なのである。[同じように]、国内でも、エリートが意思を決定し大衆に承認させる制度、つまり政治学の用語で言うところの「多頭政治」「少数のエリートによる政治」を保護する必要があるのだ。決して民主主義であってはならないのである。
<著作権 2003 Aviva
Chomsky, Diane Chomsky, そしてHarry Chomsky>
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