パキスタンでの
チョムスキーへのインタビュー
マッシュフット・リズビ
「EDucate」 2002年2月14日
雑誌「EDucate」の最初の記事に、ノーム・チョムスキー教授への賛辞を書いた時、私はこの「不屈の闘士」ご本人に会えるなどとは考えてもいなかった。しかし、その彼があわただしいパキスタンへの旅行で最近ここを訪問した時に、彼とお会いできる光栄を得た。彼と同じ場所にいることを考えると、緊張するだろうと思っていた。しかし、彼と挨拶をかわしたらすぐに、私の懸念は、彼からできるだけ多くのことを学びたいという気持ちに変わっていた。このインタービューは、私達がパキスタンで行った議論と、彼がパキスタンを去った後にも続いた議論が含まれている。
Q: パキスタン訪問中に、あなたと接触した多くの人々は、パキスタンが直面しているすべての問題に対する既製の解決策を聞けることを望んでいました。しかし、あなたはその人々に対して、様々な問題(その可能な解決策はもちろんのこと)について一生懸命そして批判的に考えるよう要求されているのだと私は受け止めました。あなたの祖国アメリカの役割に関して、あなたは、ある方策や行動を取る責任がご自身にあるとお考えになり、他の方たちにも同じことをすることを望んでおられました。間違いないでしょうか。
チョムスキー: そのとおりです。「私たち自身の行動(あるいは行動しないこと)による将来の結果については、私達に責任がある」というのは、おそらく最も初歩的で道義的にわかり切った公理です。
ジンギスカンの罪を研究することはすばらしいことかもしれませんが、その罪を非難することはあまり倫理的な価値はありません。なぜなら、私達はその罪について全く何もできないからです。
パキスタンの内部の大変に重大な問題に関しても、私にできることはあまりありません。いや、実際、事実上、何もないのです。私は、できる限りそのことについて学び理解したいとは思っています。そして、遠慮なく私が思うことを言わせていただきます。
Q: (a)なぜ、倫理的価値とジンギスカンの罪を非難することが、つながらないのでしょうか。同じような残虐行為をした者たちが、その罪をうまく隠せないようにするために、その罪を非難し続けることは、その罪の調査をすることと合わせて、等しく重要であると、あなたはお考えになりませんか。
(b)また、現存する世界の帝国の権力に関する限り、彼らの犯罪が直接に私たちの国の人々に多大の苦しみを与えているので、私はその犯罪を非難するのに有り余る正当性を持っていると思っています。様々な形での西側諸国の企業の繁栄や支配が、パキスタンの経済つまり我が国の貧困とつながっています。したがって、このことはパキスタン人によって非難がなされなければならないと私は思います。
チョムスキー:私は自分の意見については、自分にとって道義的に当たり前のことだと考えられることを根拠としています。私達の行動の道義的な評価というのは、将来起きてくる結果によって決まってくる。私達が議論していることで言えば、そのことが人間の将来の結果にどんな影響を及ぼすかということです。
もし私が、ジンギスカンの罪を再検討して非難する論文をここで出版しても、人類の将来の結果はほとんど何も変わらないでしょう。私は一般的によく言われてきた非難に加わり、その非難の山にさらにひと粒の豆のような非難を加えても、そんなことはジンギスカンの犠牲者達を(あるいは他の誰をも)助けることにならないでしょう。
世界のどこかで、例えばモンゴルで、ジンギスカンの罪が隠され、(彼の行動が)賞賛され、現在の行動のモデルに使われることがあれば、その時にこそ、ジンギスカンの罪を非難することは大きな価値があるでしょう。なぜなら、それは人類の将来の結果と関わりがあるからです。
あなた方の他の例を取り上げてみましょう。アメリカの企業や国家権力がパキスタンに及ぼす影響への非難についてです。その権力の行使に影響を及ぼすようなやり方で(アメリカを)非難することは、大きな倫理的な価値がある。つまり「このパキスタンにおけるアメリカの権力行使をアメリカにおいて非難する」ことこそ価値があるという意味です。
その権力行使に対する非難がパキスタン人にとって何の効果もないのなら、そういった点においては、その非難は倫理的価値はわずかです。もしそれらの非難が、パキスタン人の理解の水準を引き上げ、パキスタン人にさらに建設的な行動をさせるのに効果があるのならば、その時にこそ、倫理的価値は大きなものになり得ます。どのような場合も、私達は将来起きる人類の結果にまた戻ってくるのです。
具体的なケースを考えてみよう。共産主義時代のロシアの知識人にとって、アメリカの犯罪の非難には、もしあったとしても倫理的価値はほんのわずかでした。それどころか、実際、抑圧的で残酷なソビエト組織を強化してしまうという点で、それは否定的な価値があっただけなのかもしれません。
対照的に、東ヨーロッパの反体制派の活動家が自分自身の国や社会の犯罪を非難する時には、それは大きな倫理的価値がありました。すべての人々は、そういったことを全く当然のことと考えるでしょう。ソビエトの人民委員階級以外の全ての人々は。
西側諸国でも、自身の国や社会の犯罪を非難する時には、ほとんど同じことが言えるでしょう。ただし、西側諸国の反体制派の活動家が東側諸国の活動家よりもはるかに力を持っているという点は違っていますが。なぜなら西側諸国では率直な異議申し立ての危険コストは東側諸国に比べて計り知れないほど小さなものだからです。
そして当然に予測されることですが、西側の知識人たちはそういった「些細なこと」はほとんど理解できないでしょう。というのは自分達が率直な異議申し立てをしても危険はほとんどありませんから。ただし公の敵(たとえば「アカ」と目されたひと)を念頭に置けば、この危険は容易に理解されるでしょうが。
そういうわけで、例えば、私はパキスタンで話をする時にはカシミールに関してのパキスタンの政策に批判的であったし、インドで話をする時にはインドのカシミールに関する政策に批判的でした。
しかし、私は関係する部外者として自分が言うことにあまり自信が持てないし、また他の誰もそのような自信は持つべきではないでしょう。そして、たいへん難しい問題について、私ができることはあまりないと思います。
一方、アメリカ内の問題やアメリカの権力組織の政策決定については、私ができることは多くあります。そして、だからこそ、アメリカ内の問題やアメリカの権力組織の政策決定について、私は主な責任を持たねばならないのです。
もちろん、ことは、それほど単純なではありません。部外者は時として有益な忠告や影響力を持つことができからです。そして、そのような機会を利用しようとすべきだからです。それでもなお、私が先に述べたような道義的公理は、文字通りそのまま残ります。つまり内部の問題は内部の人が責任を持たねばならないのです。
そのような道義的な公理から全く離れ、自分たちの問題の扱い方に関して、部外者から価値ある忠告を受けようとするのは一般的に誤りです。そういったことは深い知識と理解が必要であるからです。
そういった知識や理解を持たない人々が、なんらかの解決策を打ち出すことは、完全に傲慢なことです。そして、外部からの救済を待つことは全く賢明なことではありませんし、それはしばしば自分たちの責任を回避するやり方となります。
繰り返して言いますが、誇張してものを言ってはならないし傲慢になってはならないのです。確かに私生活においては、友人からの共感や支持はとても大切なものですし、国際問題も含めて広い地球上では、団結や相互援助も同じくらい重要です。
それでもなお、私たちは自分達の運命は自分の手で結局は作り出さねばならないのです。どこか他からの救済を待つべきではないのです。そんな救済などやって来ないからです。
Q: そんな理由で、パキスタンでのあなたの講演(そしてかなりの程度までインドにおいても)は、アフガン戦争にかかわる「パキスタンの問題や関心事」、あるいは「パキスタン社会でのイスラム教の役割」に焦点を合わせたものではなく、むしろ世界でのアメリカの歴史的な役割について焦点を合わせて話されたのですね。
チョムスキー: まさに仰るとおりです。同じ理由で、アメリカへのパキスタン人訪問者に、アメリカのアフガニスタン政策についての講演してもらったり、アメリカ国内の全く難しい問題をどう処理すべきかについて講義してほしいと私は思っていません。
もし、訪問者が何か言うべきことがあるなら、それはそれでいいでしょう。しかし私がすでに述べたような限界があることは確かでしょう。部外者が内部問題に関わるためには、深い知識と理解が必要ですし、そういった知識や理解を持たない人々が何らかの解決策を打ち出すことは完全に傲慢なことでしょう。
Q: たいへん簡単に、あなたがインドとパキスタンで経験した違い(聴衆のレベル、学界、メディアの役割など)について解明していただけませんか。
チョムスキー: 私はそういったことについて論評するのは気が進みません。私はインドを広く旅行し、インドで3週間過ごしました。私は過去において、インドに数回訪れたことがあります。そして、インドの特定地域の詳細な研究やその他の多くのことを含むインドについての多くのことを読んだことがあります。
一方、パキスタンでは3日間過ごしただけで、あまり見たり経験したりできませんでした。これが私にとって初めての旅行でしたし、パキスタンとその周辺については広く読んだことがありません。それぞれ印象に残ることはありましたが、そのことについて今は述べたくないし、たとえ私がその印象を言ったとしても、あなた方はそれを真剣に受け止めるべきではないと思っています。
Q: 強力なもの(アメリカのこと)の利害に挑戦するありとあらゆるものが、「テロ」というレッテルを貼られるので、重大な問題について人々を教育することが、現在どれほど難しくなってきていると思われますか。
チョムスキー: 現在においてだけで無く過去においても、それは常に難しいことでした。個人的に言えば、私は20年間「テロ」について広範囲にわたって書いたり話をしてきたりしました。レーガン政権が「テロ」に対する戦争が外交政策の中心部分だと宣言してから20年間です。もちろんレーガンが「戦争」を宣言する前にも同じようなことについて書いたり話をしてきたりしましたが。
長い間に、ゆっくりではありますが、大衆の大部分の側に、おそらくあなた方もご存知のような危機的な問題について真剣に考えたいという気持ちが広がってきました。9月11日以降、そのことはさらに前進したと思います。
私が話しているのは一般大衆のことで、学説を取り仕切るのを仕事にしているようなエリートの知識人のことを言っているのではありません。彼らは自分自身の行動基準をもっているからです。それについては何も目新しいことはありません。
Q: 時として、政府や国家は、大衆が気分をよくし、引き回されていると感じさせないために、異議の存在を戦略的に認め、(おそらく真実を矮小化するために)ある程度の思想の自由を保障することがあると、あなたはお考えですか。それとも、そのような思想の自由(スペース)は闘いの結果だとお考えですか。
チョムスキー: 今あるその自由は、たいていは困難な闘いによって勝ち取られたものです。それでもなお、そのような自由な空間が開かれる時には、集中した権力を持つ側としては、その自由な空間を自分達の目的に合わせるよう努力することでしょう。そして狭い範囲の中に議論を押し込めるよう努力するでしょう。
もし独裁者たちがより利口であるならば、しばしば意識的に、現在も採用されている思想の教化のシステムを使うでしょう。もっと民主主義的な社会では、わざと議論を激化させるでしょう。ただし、(あくまで権力者たちの)固定化された前提によって設定された限界内でということです。その限界は、権力の基本的な利益を表現しています。
例えば、インドシナでのアメリカの戦争の最中に、マスメディアや報道機関は喜んで「タカ派」と「ハト派」の議論の企画をしました。「タカ派」はより大きな暴力や破壊に訴えるべきであると主張し、「ハト派」はテロと外国の攻撃からベトナム人を守ることはあまりにも費用がかかるようになってきたため崇高な目的を達成するためには別の手段が我々は探すべきだと主張しました。
その議論が激化すればするほど、人々は明白な疑問を問うことをしなくなる傾向がありました。例えば、ベトナムを攻撃することによって我々はベトナムを守っていると言えるのかといった明白な疑問です。幸いにも、多数の人々がタカ派とハト派の色分けから抜け出しました。知識人はまだほとんど抜け出していませんが。
他の多くの問題についても全く同じことが言えます。
Q: 抑圧された人々にその抑圧の主な原因を単に知らせてやることが、彼らの解放につながるとあなたはお考えですか。
あるいは、そのようなことは、反対に抑圧されているという感覚を単に減少させ緩和するだけになるのでしょうか。
そして他方、この間ずっと、抑圧と抑圧者の圧迫はどんどん大きくなるのでしょうか。
チョムスキー: 抑圧されている人々は、たいていの場合は、はるかに私たち以上に自分達の抑圧について理解をしています。そして、私達は彼らから学ぼうとすべきなのであって、彼らに教えようとすべきではありません。
彼らの抑圧の源をいくらか理解している限りにおいて、私達はそれを人々に伝えることに最善を尽くすべきです。というのは、彼らは自らを解放するために、私たちの支援を得ながら、それを使うことができます。私たちの支援の程度に応じて。
それは私達が誠実に「抑圧の根源」を理解する手助けをし、その支援が彼らを支配したりコントロールすることを意図していない程度に応じて、彼らはその支援を使うことが出来るのです。
確かに理解は直接的には解放につながらないかもしれませんが、理解がないことは確実に解放を妨げます。それが現実の選択です。
Q: (a)部分的には私もあなたの意見に賛成です。しかし、私たちがそのために闘っていると主張している抑圧された人々と比べると、私たちは多くの点で際立って特権を与えられた立場にあります。
社会的正義やよりよい世界をめざす闘争に加わるためには、私たちは的確な社会的経済的政治的な状態の中にいることが、どれくらい重要であるか、この点についてあなたはどう思われますか。
私の言いたいことは、あなたがパキスタンに来ても、抑圧された人々はあなたにはほとんど近づけないということです。と言うのは、あなたは英語を話されますが、抑圧された人々は英語を理解できないからです。経済的に高学歴の機会を得ることの出来た人たちだけがあなたの講演を聴くことが出来るのです。
私は、ミネラルウォーターのボトルを持ってエアコンのきいた車で講演を聴くために野外旅行に出かけますが、実はバックミラーの前で自分は社会正義のために闘っているのだと自分に言い聞かせるのに苦労しています。
その闘争の本当の一員になるためには、そのような物質的社会的な特権を私は投げ捨ててしまう必要があるのではないのでしょうか。
(b)私は貧しく抑圧されていることが自分たちの運命だと考えているようにみえる非常に貧しい多くの人々に会ってきました。彼らは、自分たちの貧困の源について、どんなことであれ手がかりを持っていないからです。
私は文盲の人々と仕事をしています。彼らのほとんどの人たちが、自分たちは時には動物よりも悪い状態にあると考えるほどにまで、深刻な自己喪失に苦しんでいます。そして私はその現場に入るのです。
彼らの貧困は神のなせるわざではなく、人間が作り出したものであると、私は彼らに言います。文盲であることが動物と同じことであるわけではないと、私は彼らに言います。私は彼らに教えるようなことはしません。私は単に対話を始めるだけです。
しかし、気分が良くなり力と意欲を与えられた彼らの多くの人たちは、自分達が人生で初めて本当の尊厳を与えられた人間とみなされたことを知って、すぐに自分達は何ができるのか、私が彼らのために何ができるのかについて、その解答や説明を欲しがっていると私は思う。
でも私は彼らに言うのです。私ができることといったら、エアコンのきいた車に乗って家に帰ることだけなんだと。そして、彼ら自らが自分達を解放しなければならないと。なぜならば、私の責任は彼らの抑圧の原因を彼らに気づかせることなのだからと。
しかし、ノーム・チョムスキーさん、率直に言って、彼らが直面している社会的抑圧から自分達を解放するつもりならば、彼らは非常に重大なこと(たとえば逮捕や拷問など)に直面させられるでしょう。私が、彼らのためにできることは、こんなことしかないのでしょうか。
チョムスキー: 何も異論をとなえるものはありません。あなたは正しいと思います。抑圧された人々に、彼らの問題に対する魔法の解答をあなたが与えることができないと言っているわけですから。
あなた以上に彼らは自分たち自身の今の状況を理解しています。彼らはそういった状況に打ち勝ち改善するために闘わなくてはなりません。それは昔から人々が行ってきた出すし、彼らはそのことを良く知っています。
あなたは、自分も述べておられるように、ご自身ができることをすることによって、彼らの闘争に加わろうとして、彼らのもとにやって来ているのです。それはまさしく正しいことです。
選択は(1)我々が持っていない解答を与えないこと(2)何も行動しないことの2つです。(解決策が見つからないのに、あたかも解決策があるようにふるまうことだけは、してはならないのです。)
あなたは、特権を持った人々が現場にやってきて社会正義と解放のための民衆の闘争に建設的に加わるいくつかのやり方を述べられました。そのように多くの私達ができることがあります。
私がパキスタンにいた時は、私はほんの一部のエリートにしか話を出来なったことも、本当のことです。それは恥ずかしいことであり、私はとても後悔しています。インドでも部分的には同じようでしたが、まだましでしたし、ケララではもっと改善されたと思います。
同じような問題と選択が、私が生活しているアメリカでも起こります。私たちは、自分達がいる所で働くことはできますが、いない所では働けません。
私たちのエネルギーと努力を、どこでどのようにして焦点を合わせることが正しく適切なのかについて、一般的なひとつの答えはありませんし、誰にでも適用できる答えもありません。
私たちは、自分自身の方法は自分達で見つけなければならないのです。
Q: 最後に、読者に何かメッセージ・意見、お考えなど、ありますか。
チョムスキー: かつて哲学者である私の友人が、私の著作の批判を書いたことがありました。その中で彼は、少し困惑しながら、私が信じている唯一の「主義・考え」は、当たり前の公理だと言いました。
その批判はかなり的を得たものです。ですが、私は公理・当たり前のことを超えて伝えなければならなり重要なメッセージはない、と考えているのです。
今回のインタビューでも同じことです。私が伝えたいことは次のようなことに過ぎません。
「自分自身の頭で考えて下さい。言われたことを無批判に受け入れないで下さい。特に苦しみ抑圧されている人々のために、世界をよりよい場所にするために、あなた方ができることをやって下さい。」
マシュフッド・リズビは「EDucate」の編集長。mashhood@cyber.net.pkでアクセスできる。
EDucateはパキスタンのカラチのSindh Education Foundationによって出版されている教育と開発に関するパキスタンで初めての進歩的な季刊誌。
http://www.sef.org.pk/
(翻訳:岩間龍男+寺島隆吉)