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チョムスキー・インタビュー
緊迫する中東情勢(パレスチナ、イラク)、アメリカの愛国心・軍事産業、京都議定書・国際刑事裁判所
グローバリゼーションとアメリカ、社会主義の未来像、アメリカにおける人権闘争
Noam Chomsky、by Toni Gabric Interviewed、The Croatian
Feral Tribune、April
27th
ZNet
Magazine, May 07, 2002
問1 私たちがあなたにインタビューを求めて接触してきたこの1ヶ月の間に、中東では暴力の大きな拡大がありました。イスラエル人とパレスチナ人の間の状況について、おおまかに論評していただけませんか。
チョムスキー
その問題についてそのように定式化するのは、誤りであると、私は考えます。私たちは、むしろ、「米国=イスラエルの同盟とパレスチナ人の間の状況」について問うべきです。
基本的な状況は以前と変わっていません。それは中東の二つの敵の間の対立ではありません。両者の間には、対等な釣り合いといったものはありません。
イスラエルは世界の超大国から十分な支援を受けた大きな軍事力を持つ国です。35年間イスラエルは西岸地区とガザ地区を占領してきました。
一方、パレスチナ人は孤立無援で無防備の状態です。米国に支援されたその軍事占領は、当初から厳しく残酷なものでした。
第4のジュネーブ条約の規定に違反して、米国=イスラエルの連立は、イスラエルに統合するつもりの占領地の地域に入植してきました。そして、イスラエルが西岸の主要な資源である水を支配することを保障する働きをしてきました。
このことはオスロ合意の過程でも継続しました。オスロ合意は次のような原則の上に作られたものでした。すなわち、パレスチナ人をイスラエルの支配下におくために、「永久の新植民地主義への依存」が確立されるべきだという原則です。
これはショロモ・ベン・アミShlomo
Ben-Ami(の主張)から引用していることです。彼は2000年のキャンプ・デイビッドの会合で、エフッド・バラクEhud Barak首相の交渉人で、米国―イスラエルの政治的な色分けの中では、ハト派と考えられている人物です。
キャンプ・デイビッドの提案は、40年前に確立された南アフリカ共和国のバンツースタン制度をモデルにしており、そのような(南アのような)結果になるように考えられたものです。
彼らの前任者のように、クリントン=バラクの同盟は、違法の入植を拡大し続けました。バラク=クリントンの最後の年(2000年)には、これはシャロンの政権下でもありましたが、オスロ合意の前年の1992年以来、その入植率は最高でした。
これらのすべては、米国の軍事上経済上外交上イデオロギー上の完全な支援のおかげで、可能なことなのです。決定的なことに、イスラエル・パレスチナ2国間の解決についての国際的な合意を妨げて、米国は孤立の立場を取り続けています。
その国際的な合意は、25年前に明確に述べられており、実質的に全世界の支持を得てきました。また、米国の大多数の人々によっても、同様に支持をされてきました。
これらの項目の政治的解決への拒絶は、1976年以来、米国の変わらぬ政治的姿勢です。1976年に米国は、そういった趣旨から、安保理決議を拒絶しました。その拒絶された決議には、国連安保理決議242の基本的な言い回しが含まれ、占領地におけるパレスチナ国家樹立への要求が補われていました。
その決議は、アラブ諸国やPLOを含むすべての関係者によって支持されていました。それ以来、その決議は何度も更新されています。一番最近では、2002年3月のアラブ連盟によって採用されたサウジアラビアの提案がそれです。
その提案は、本質的には、1981年のサウジアラビアの提案や1976年の決議やここ何年来のその他の多くのものと同じものです。
最近のイスラエルの攻撃は、米国に支援を受けたイスラエルの1982年のレバノン侵攻以来見られなかった暴力と破壊のレベルに達しました。そのイスラエルの攻撃は国際的にも大きな騒ぎとなりました。ただし、米国を除いてのことですが。
というのは、米国ではシャロンは米国の大統領によって「平和の人物」として描かれているからです。そのシャロンは残虐行為を実行するための手段、例えばジェニンやナブルスを廃墟と化した軍用ヘリコプターを(米国から)供給されているのです。
パウエルの特派は、その作戦が妨げられずに進むことを可能にするために、注意深く狡猾に行なわれました。そのことは、その地域で見守っている人々にとっては明らかなことですが、確かに、それと同じ程度に、欧米に住んでいる私たちにも事態の真相は明らかにされるべきです。
問2 米国はこの紛争で公然とイスラエル政府の味方をしてきました。そして、パレスチナ人の自爆テロ攻撃の無条件の防止を要求してきました。
この点に関しての米国の政策について、あなたはどのように論評されますか。特に昨年米国が「攻撃を中止し(停戦)監視団の派遣を求める安保理決議」を拒否したことを考えに入れて下さい。
かつていくつかのアラブ諸国を支持していたロシアの影響力が著しく低下している時、米国が無条件にイスラエルを支持していますが、これは何故だとあなたはお考えになりますか。
チョムスキー
トイレの水も流すことさえできない地下牢に軟禁されているアラファトに、パレスチナ人のテロを更にもっと非難するよう米国は要求しています。そして、このことは全く無意味だとすべての人々は知っています。
その一方で、シャロンが現在行なっているもっと悪い残虐行為を自己批判すべきだとか、イスラエルへの重大な支援を行なっている米国政府は自己批判すべきだとは、誰も提案しません。
アラファトに対する要求の主な理由は、パレスチナ人に屈辱を与え地位を低めることにあります。パレスチナ人にとっては、アラファトは(パレスチナ)国家の象徴だからです。
このような屈辱は、35年間の占領の、中心的な特徴であったし、植民地主義や征服の歴史の良く知られた特徴です。
1967年のイスラエルの軍事的勝利の後、現在の状況を作り出した米国=イスラエル同盟に関して言えば、もちろん国際的な対決には巻き込まれることになりますが、ロシアとはほとんど何も関係がありません。
外交の舞台においては、国際的な合意のワクの中にロシアもいました。それに反対していたのは米国なのです。真実は(米国の)内部文書で明らかになっていますし、ベルリンの壁崩壊のすぐあとに公式に認められています。
この(ベルリンの壁崩壊の)時に、ブッシュ政権は議会(1990年3月)に次のように報告をしました。米国は中東に向けた介入のための巨大な軍事力を維持し続けなければならない。米国が直面している重要な問題は、過去においても「クレムリンのドアに置くことはできなかった」。
要するに米国の戦術はクレムリンを念頭において立てられたものではなかったのです。同じように、もちろん、イラクのドアにも置くことはできませんでした。なぜなら、当時はサダムは好意を持たれている友人であり同盟者だったからです。
したがって、ロシアが舞台から消えた後においても、本質的な変化はなく、新しい口実のもと、いくつかの戦術上の修正をともなって、(米国の)政策は続けられています。
ついでに言えば、それが世界中の(米国の)政策の真実であり、冷戦の現実へのいくつかの洞察を与えてくれる事実です。重大な中東地域において、1967年以来の政策は、1958年に米国の諜報機関によって輪郭を作られた論理に従っています。
すなわち、アラブ民族主義に反対する米国の「論理的帰結」は、その地域での米国のための唯一の信頼できる基地としてイスラエルを支持するということだったのです。
イスラエルは1967年に、(エジプトの)ナセルの軍隊を打ち破ることによって、この論理を実証し、米国−イスラエルの同盟はさらに強固なものとなりました。(こうして、トルコや当時の王制Shahのもとにあったイランと同じ役割を果たしたのです。)
以来、本質的に同じ理由により、その同盟関係は持続し、イラン王制が崩壊した時、さらに強固なものとなりました。
そして、イスラエルの役割は「地方の憲兵」(ニクソン政権によってそのように呼ばれていた)としてさらに重要なものとなりました。
その時までには、イスラエルは代理として、世界中での他の服務もまたこなしていました。そして、米国の軍と産業との関係もさらに密接なものとなっていました。
問3 あなたは最近、ヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ国家を作る考えを南アフリカのバンツースタン制度に例えました。
多くの人々は、そしてその中のひとりアブドラ皇太子は、これが紛争の解決策になり得ると信じていますが、どうなのでしょうか。
チョムスキー
それは誤りです。イスラエルの多くの(メディアの)解説と一致して、私はクリントンーバラクのキャンプ・デイビッドの提案を、バンツースタンの提案と同じものとして述べました。地図を見るだけでその理由に説明がつきます。
(知識人たちがその提案を度量の大きい寛大なものとして歓迎しているなかで、米国のメディアが周到にいかなる地図も提示することを避けているのは、それなりの理由があります。)
提案では西岸地区を3つの州に分割し、効果的にその3つの州を互いにイスラエルの入植地や巨大なインフラストラクチャー事業によって分離しています。
その提案はまた、やはり効果的にパレスチナ人の商業や文化的な生活の中心地であり西岸地区の交通の中心地である東エルサレムから分離をしています。
ついでに言えば、これが米国のまじめな学問分野での標準的な結論です。例えば、占領地の経済に関して指導的な専門家であるハーバート大学のサラ・ロイの議論を見てください。(「現代史」2002年1月、そしてその他の出版物)
そして私が述べたように、最初からずっと、これはオスロ合意の過程での目標でした。そのことはただちに明確になりました。(私は1993年の9月にそのことについて書いています。)
また、このことはイスラエルの指導的なその提案者(ベン・アミ)によって認識されていたことです。
この提案は、40年前の南アフリカのバンツースタンの政策にとてもよく似たもので、2国間の解決についての国際的な合意とは完全に異なったものです。米国はその国際的な合意を25年間妨げてきましたし、現在もまだ妨げています。
問4 9月11日の事件の後、米国では愛国心の高揚があり、国家を規制する法律の大部分が捨て去られ、圧倒的な国民のブッシュ大統領に対する支持がありました。
これらのことは、私の国クロアチアでも(世界でも)多大の世論(の支持)を受けてきました。これらの傾向は、過去6ヶ月間、ずっと続いているのでしょうか。現在、米国での雰囲気はどのようなものなのでしょうか。
チョムスキー
それらの傾向は非常に誇張されています。本当のところは、ブッシュ政権がその予定の政策を進める「機会の窓口」として9月11日の事件を使いました。
その政策は、服従と抑制を押し付けようとする努力を含んでいます。しかし、それらの施策が実行できるかどうかは疑わしいと思います。
ただし、弱者(移民、少数民族)に抑圧政策は成功するかもしれませんが。
ブッシュ政権は、愛国心を求める声の中で、人々が反対することが分かっている国内政策を、強行突破するために今回の機会を利用しました。このことは実際次のことを意味しています。
「お前たちは黙って従順でいろ。そして、俺は自分の利益を押し進めるからな。」
このことは世界中でも当てはまります。例えば、イスラエルでは、反テロリズムのやり方を装って(パレスチナ人に対する)抑圧を強化できると、シャロンはすぐに認識しました。
ロシアでも、政府は同じ口実で、チェチェンでの残虐行為を増すことができました。実際、それはきわめて一般的なことであり、完全に予測できることでした。
しかし、少なくとも私にとって、さらに驚かされたことは、9月11日の残虐行為が米国の人々の間で、反対の効果を持ったことです。
批判的で意見の異なる(事件の)分析に耳を傾けようとする率直さが、非常に素早く非常により多く見られました。これは明らかです。
そして、顕著な関心の高まりがあり、それはしばしば具体的な行動となって現れました。その関心・行動は、以前の米国の政策・方針(agenda)からすると、かなり予想外のものでした。とりわけ、中東での米国の役割についてです。
当然、メディアや報道機関は反対の意見を主張しました。中東問題と切り離した「独立した」思考と服従を押し付けることを望みながらです。
しかし、一般の人々と接触している人々は、もっと賢明でした。話し合いの要求は螺旋状になって高まり、完全にコントロールが効かなくなりました。
視聴者の規模と(視聴)時間は、先例のないものになっています。1960年代後半の反戦運動のピーク時は別としてですが。
本の販売でも同じことが言えますし、実際、他の関連したことでも同じことが言えます。メディアでさえ、ある程度まで、影響を受けました。
まだまだたいへんに制限されたものではありますが、メディアは今までよりずっと率直になっています。40年間、平和運動に身を投じてきた私の経験の中でも、これはかってないことです。
問5 アフガニスタン攻撃の後に、イラクや他の国々への攻撃が憶測されています。というのは、これらの国々は国際的なテロリズムの支援者であると断言されているからです。
テロリズムに対するこのような戦いは十分に有効であると、あなたはお考えになりますか。また、これらの7つか8つの国々だけが、犯人として宣言されることができるとあなたはお考えですか。
チョムスキー
もし私たちが公式の定義によって「テロリズム」を理解するならば、つまり米国の法律や軍のマニュアルの規約によって「テロリズム」を理解するならば、「テロリズムに対する戦い」はありません。
その理由はあまりにも明白で議論する必要もないくらいです。なぜなら、これらの定義に一致させると、米国自身が主要なテロリスト国家ということになりますから。
同じように「対テロ戦争」の中における同盟国も、テロリスト国家ということになります。その同盟国というのは、英国やロシアや中国やトルコなどです。
サダム・フセインは確かに怪物です。しかし、そのことは、米国がフセイン政権を転覆しようと試みる理由には、どうしてもなり得ません。米国と英国は、フセインが最悪の残虐行為をしている期間ずっと、フセインを完全に支持していたからです。
その残虐行為は、クルド人に対する毒ガス攻撃を含んでいます。米国と英国は、そのように、フセインが現在よりもはるかに危険な存在であった時に、彼に大量破壊兵器を開発する方法も与えました。
最近では、1990年代の早い時期に、ジョージ・ブッシュI世は、彼の友人であり同盟者であるフセインに宜しくとの言葉を伝えるために、議会の高官の代表団をイラクに派遣しました。
そして再び、1991年の3月から4月の大量殺人者・拷問者への支持をする方向に向かいました。というのは、この時は、イラク南部のシーア派の反乱でフセインが転覆される心配があったからです。
ですから、現在、計画されているイラクへの攻撃理由は別の所にあります。それを判断することはそれほど難しいことではありません。
イラクは世界で2番目に大きな石油埋蔵量を持っています。どうにかして、米国はその石油の支配権を再び得ようと試みるでしょう。
そして、ブッシュ政権の政策立案者たちは、これがよい機会だと感じるかもしれません。「テロリズムへの支援」の罪は容易にでっち上げることができます。
そして、乏しい証拠しかないにもかかわらず、それが本当だと証拠立てられたとしても、それはほとんど驚くべきことではありません。
しかし、この場合に限らず、歴史的な記録は、イラクがテロリズムの重大な要因ではないことをハッキリと明確に示すでしょう。
問6 テロリズムに対する国際的な戦争で、米国が指導的な立場を取るのに、米国はどれほどの合法性と倫理的な立場を持っているのでしょうか。
そのような政策の背後に、米国の個々の民間企業(例えば軍事産業)の利害がさらに加わっていると、あなたはお考えでしょうか。
チョムスキー
米国の合法性は次の事実から得られているにすぎません。すなわち、米国は、他国に追随を許さないほどの、世界で最も強力な軍事大国であり、また世界の主要な経済の中心のひとつだということです。そのことは1世紀も続いてきました。
つまり、「テロリズムに対する国際的な戦争」というものは実際には存在しないので、米国がそれを先導することということもあり得ないのです。また軍事産業は、ある役割は持っていますが、支配的なものではありません。
20年前に、レーガンが政権に就任して、「テロに対する戦争」が米国外交政策の核になるだろうと宣言しましたが、今では、彼らがその戦争をどうやって戦ったのかは、振り返る必要はないくらい明白です。
「テロリズム」は、「共産主義」や「犯罪」や「麻薬」や他の方策に類似した役割を果たします。それらは、人々を恐怖に落し入れて、国家と国内の権力中枢の利益となるよう、着手されている政策を支持するよう、仕向けます。
そして、ひとつの(「共産主義」のような)口実がその効力を失った時、別の口実がただちにそれに取って代わることになります。この時、知識階級からの不平の声はほとんどありません。
もちろん、このうちのいずれのことも、米国にだけの独特なものではありません。このように国家や他の権力システムは動くのです。確かにこれらは、明確な歴史の教訓のひとつです。
軍事産業については、米国経済の活動的な部門が、大規模な軍事的隠れ蓑のもとで機能してきたことを忘れてはなりません。そこに我々は、現在の「新経済」の大部分のルーツを見つけることができます。
「新経済」というのは、一般にコンピューターエレクトロニクスのことで、電気通信やインターネット、オートメイション、レーザー、民間航空機、主要なサービス産業(例えば、航空産業に基づく旅行業)などを含んでいます。
これらが軍事とともに成長してきたことは、歴史的真実で、米国だけのことではありません。しかし、第2次世界大戦以来、それは経済のたいへん大きな構成要素となりました。
そして経済的危険や費用は社会に回す一方で、利益は個人に回し、豊かな強国が市場の統制から逃れることを可能にすることに役立ちました。
問7 アメリカが戦争犯罪を裁く国際法廷の常設案に反対していることについてはどう思われますか。
チョムスキー
アメリカは余りにも権力があり過ぎるために国際的な権威に従う何の必要性もないのです。
それ故にアメリカは気楽に常設国際司法裁判所が下した判決を退け、安全保障理事会の決議を拒否したり無視したりし、そして大体において国際法や条約を、そう望む場合は軽視するのです。
世界最大の権力国家としてアメリカは自分の主権は熱心に守り、その一方で他国の主権は好きなように無視します。繰返しますがこれについては新しいものや意外なものは何もありません。
問8 9月11日以後の国際関係の変化をどのように評されますか?アメリカとEUの間には甚だしい意見の 相違が見られます。京都議定書の批准とか国際戦犯法廷とか旧社会主義世界への影響力を求めての両者 の競合のようなテーマにおいてですが。
チョムスキー
私は9月11日がこれらの点に関して大きな相違点をもたらしたとは思いません。当座の影響は別とし て、より以前からの性向が大きくは修正されていないまゝなのです。
問9 反グローバリゼーションの動きはしばしば理論的な土台や明確な目標を欠いていると批判されています。このような批判には同意されますか?
又、この点に関してはポルト・アレグレで行われた国際社会に関する公開討論会での作業には満足していますか?この会議にはあなたも参加されていますが。
チョムスキー
グローバリゼーションとは、権力を持つ側が国際的経済統合のある特定の形態を指し示すのに当てて いる用語です。
その形態は、投資家の権利に土台が置かれ、一般の人々の利益は二の次とするものです。実業界の新聞(ウォールストリートジャーナル)が、もっと正直な時には、「自由貿易協定」を「自由投資協定」と呼んだ所以です。
それゆえに、これとは異なる形のグローバリゼーションを唱える人達は"反グローバリゼーション"と評されるのです。そして不幸なことにこの用語を容認さえする人達もいます。
然し乍ら、それは宣伝用語であり、馬鹿馬鹿しいものとして捨て去るべきなのです。まともな人達は誰もグローバリゼーション、即ち国際的な統合には反対しません。
なぜなら、左翼及び労働者の活動はグローバリゼーションに反対することはありません。それは国際的な連帯の原理に土台を置いたグローバリゼーションの1形態だからです。それは、一般の人々の権利に奉仕するものであって企業の支配システムに仕えるものではないからです。
今のところ、投資家の権利を擁護するものも含めて、如何なるかたちのグローバリゼーションにも、まじめな理論的な根拠をもつものは何もありません。国際経済に何か真の意味での系統的な理論があるというのは余りにも貧弱な理解です。
間違いなく新自由主義経済の諸要目には、抽象的なものであっても、学理的な根拠は何もなく、具体的に現実化したものは保護主義と自由化でした。
それは単に、新自由主義経済を考え出した当人の利益に合致するように作り上げられたものですから、複雑な混合物になったとしても驚くにはあたりません。
ポルト・アレグレに関しては会議の次第を見るだけで、その会議が非常に真摯なものであったことが十分に分ります。会は詳細な審議及び討論に専心しました。
テーマは人類の意義という広範囲な諸問題についてであり、国際金融機構とガットという技術的検討から戦争と平和及び基本的人権という幅広い問題にまで及びました。
対照的に同時期にニューヨークで行われた世界経済会議は際立って詰らないものに思えました。少なくとも公開された内容によればですが。
実情は御覧の通り、全く典型的な対照をなしているのです。
問10 「反グローバリゼーション」は英国ブレア首相の「第三の道」に対する対抗策として、新しい世界の急進的な運動のための概念になり得ると、あなたは思われますか。
チョムスキー
「第三の道」は、他のものよりもソフトな面持ちをした、企業主導の国際的経済統合プログラムの変形されたものです。
それに対抗する民衆の運動は世界中で発展しました。そのほとんどは、南で劇的に発展しましたし、最近は北においても発展しています。
その運動は、「第三の道」のプログラムへの「対抗策」ではありません。むしろ、それは別の道を追い求めています。
そのような運動には単一の「概念」はありませんし、あり得ません。なぜなら、その運動は、個人や家族から国際的な問題や人類の将来にいたるまで、全く人間全般に関する事柄に関心を寄せているからです。
自由とか正義とかのような、基本的概念によって導かれた多くの概念があります。他方、それとは対照的に、支配的なイデオロギーは知的には浅いものであり、あまり面白いものではありません。集中された権力との関係から離れてみると。
問11 南北間の貧富の格差を克服する展望は、何なのでしょうか。
モンタレイの会議が意味のある結果を生み出さなかったことを私たちは理解できます。
貧しい民族に対する軍事的支配を維持するための費用が、豊かな西欧にとってあまりにも高価なものなって、そのことが世界の富の更なる公正な分配につながる可能性はあるのでしょうか。
チョムスキー
学問的な専門家や実業界の参加のもと、米国の知識人社会はこれからの15年間の予測を最近たてました。それは次のような予測です。
「グローバリゼーション」は(ただし、これは権力中枢の特別な意味における「グローバリゼーション」ですが)予定通りに進行し、より大きな財政上の不安定さとますます広がる経済格差を生み出すだろうということです。
より大きな財政上の不安定さは、過去25年間の「グローバリゼーション」の期間より(その間、標準的なマクロ経済や社会指標の重大な悪化を伴いましたが)、それよりさらに低い経済成長を意味します。
「グローバリゼーション以前」の期間、すなわちブレトン・ウッズ体制の頃(おおざっぱに1950年から1970年代のはじめまで)と比較すると、この25年間は重大な経済の悪化をもたらしましたが、これからの15年間は、もっと悪くなると言うのです。
拡大する経済的格差は、技術的な意味においては、より小さなグローバリゼイション(単一価格、単一賃金への収束など)を意味していますが、イデオロギー的に好まれる意味においては、より大きなグローバリゼイション(富と権力の集中)を意味しています。
軍部の立案者たちも同じ予測をもっています。宇宙条約に違反した「宇宙の軍事化」が米国によって計画・立案されています。それは明らかに次のような仮定に立ったものです。
すなわち、「持てる者」と「持たざる者」の格差はますます大きくなり、「持たざる者」の間で沸き起こる不穏な情勢に直面して、「米国の営利上の利益と投資」を保障するために、新しい軍事力の形態が必要になるだろうということです。このようなことは、クリントン時代の宇宙支配の文書やその他の文書の中で、明瞭に読み取ることができます。
そして、計画されていることは、ますます大きくなる貧富の二極分化であり、富と特権を守るためにそれを支配する十分な軍事力の開発です。そのような計画が、過去よりもうまくいくかどうかは、誰も確信をもって予測することはできません。
主要な決定要素、すなわち意志と選択は、推し量れないものであり予測できないものだからです。
問12. 最近のインタビューで、ジョン・デューイを引用しておられますね。
もし民主的な形態が本当の実質をもつとすれば、産業は「封建的なものから民主的な社会秩序」へと変わらねばならない、そしてそれは労働者による制御と自由な連合に基づいたものであるはずだということですね。
放棄された社会主義のなかでも肯定的な特色は、将来的に使用され得るとお考えになりますか。例えばユーゴスラビアにある社会主義者の自己管理のようなものとかですが。
チョムスキー
「放棄された社会主義」について語るということは、放棄された社会主義があったと仮定することになりますね。それはかなりな誇張です。
デューイが述べたような種類の伝統的な社会主義者の理想へとむかう動きがあります。私がデューイを引用したのは、その所見(言説)がオリジナルだからではなく、彼がアメリカの指導的な社会哲学者だからです。
よくいわれるフレーズでいうところの「アップル・パイのようなアメリカ人(典型的なアメリカ人)」ということです。そういった(デューイのような)主唱は権力によってこきおろされてきました。
それは西側の国家においてだけではありません。権力を握ったあと、レーニンとトロツキーのとった最初の行動は、国家評議会と工場評議会の破壊でしたし、実際、ボルシェビキが政権を取る前に発展していた、あらゆる社会主義傾向の破壊でした。その時からその崩壊まで、ソビエトの圧政は世界における主な反社会主義勢力の一つでした。
しかし、にもかかわらず、民主主義と社会主義の要素はありました(伝統的な非ボルシェビキ的意味合いにおいてですね)、それは先のユーゴスラビアにあった自主管理を含みます。しかしその自主管理も、その中に埋め込まれた中央集権的権威が、自主管理よりも一般的状況を成したために、全く台なしにされてしまいましたが。
問13. 最近トルコに行かれましたね。そして、クルド民族の立場について書かれたあなたの論文を出版したことで有罪に問われたフェイス・タズ氏を援助し無罪を勝ち取ったことが注目されておりますね。
クロアチアでも、公に発表した意見にたいして、多くの裁判手続きがおこなわれています。言論を取り締まることを正当化することについてどうお考えでしょうか、一般論としてお答えください。
(注:現在クロアチアでは、「フェラル・トリビューン」に関する訴訟が二つ行われている。
一つは1995年からの論説に関するもので、その論説の中で、大学教授であり美術史家であるズボンコ・マコビッチは、著名な彫刻家イワン・メストロビッチの娘がなぜメストロビッチの作品を含むギャラリーの管理者として的確でないかを説明した。
メストロビッチの娘はマコビッチを侮辱罪で訴え、法廷の命令により、かなりの金額を賠償金として受け取った。
第二のケースは、フェラル・トリビューンの編集者であるビクトール・イワンチッチのもので、1953年に出した論説のため、大きな金額の罰金を支払わなくてはならなかった。その中で彼は、クロアチア前政府の専門官僚のひとりの、ネオファシスト的な態度について書いたからである。)
チョムスキー
フェイス・タズに対する起訴は国家安全法廷によって取り下げられました。しかしそれは罪状にたいする議論に基づいてなされたものではなく、国際的な注目を気にしてのものでした。
その他の起訴については、その多くがこのケースよりもっと恥ずべきものですが、変わりなく進んでいます。しかし(それに対して)抵抗がないわけではありません。
作家や、芸術家、ジャーナリスト、学者、そしてその他の人々の勇気や献身を見ると、本当に奮起させられます。これらの人々は、トルコ国家の過酷な法律に対する抵抗として、武力なしの不屈の不服従を遂行し、自由を得るための闘争のなかで自分自身を非常に危険な場所に置いているのです。
それはひじょうな尊敬に値するだけでなく、強力な国際的な支援にも値します。そして私は、1990年代の最悪の暴虐に苦しんだ後に、南東部の地下牢に住む何百万ものクルド人たちのヒロイズムにたいして言うべき言葉を知りません。
このようなクルド人たちに対する残虐行為は、クリントン政権及び飼い慣らされた知識階級によって供給された莫大な武器の流れのおかげで作りだされたものです。その知識人たちは、他方では、自分たちの残虐非道な国際的テロリズムを、「反テロリズム」のモデルとして賞賛しているのです。
クロアチアのケースについては、独立した知識がないので、コメントすることはできません。あなたが述べられたことは、確かに許容すべからざることです。
不幸にも、イギリスやフランスのような、市民の自由を主唱する歴史が長い、西ヨーロッパの国においてさえ、−これは実際問題としてひどく汚されていますが−同じことが起きているのと似ています。
言論の自由を守ることに関しては、アメリカは並外れている、多分唯一の国でしょう。
言論に関して何が許されるべきかということについては、私が思うに、最優先の原則は、「この基本的人権の侵害の訴えに関しては、いかなる場合も、非常に厳しい立証責任が課されなければならない」ということです。
私の見解では、何世紀にもわたる苦闘の後、アメリカは、1960年代に、遂に適切な水準に到達したと思います。
それは最高裁が、「国家を文書で攻撃すること」を犯罪とした「名誉毀損罪」「文書誹毀罪」を取り消した時に、また実際行われている犯罪に直接の参加をするまでは、言論は保護されるという基準を設定した時に達成されたと思います。
これはどういうことかと言いますと、私とあなたがどこかの店で強盗をするとします。あなたが銃をもっていて、私が「撃て」と言ったとすると、この場合は、進行中の犯罪に直接に関わっているから、わたしの言論は保護されないわけです。
イギリスやその他の多くの国と違って、アメリカはやっかいな名誉毀損罪・誹毀文書法からも自由です。名誉毀損罪・誹毀文書法は、表現の自由を禁止し、国家の気に入らない声を沈黙させるための強力な武器になるとともに、主たる訴訟費用を生み出す制度を国家に与えます。
しかしながら、こう言いましても、次のようなことを強調することは大切です。つまり、文書誹毀法であろうと他の何かの下であろうと、国家の強圧からの自由は、それは大切なことではありますが、部分的な勝利にすぎないということです。
西側諸国の資本主義者の民主主義のように、わけのわからない私的な機関における高度な権力の集中は、しばしば全体主義国家の結果と良く似た、表現の抑圧へとつながっていきます。これらはデューイや、オーウェルや、その他によって議論されたことであります。そして主流メディアの研究を通じて、広範囲にわたり詳細に記録されたことであります。
(翻訳:寺島隆吉 + 岩間龍男、福田裕三郎、南野利枝)
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