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イスラエル政府の歴史的対応に関して
チョムスキー、インタビュー
2002年6月30日
Questions
On Israel
Chomsky responses in The ZNet Forum System
Zネットを支持している人々に対しての謝礼として、Zネット支持者のプログラム(ZNet Sustainer Program)で、多くの公開討論会があります。そこでは、ノーム・チョムスキーのような活動家や著述家に、人々は質問ができます。先週のエッセイ「イスラエルとパレスチナ」に関する質問へのチョムスキーの返答が、以下にあります。こういったことが有益だと思われる方は、このプログラムに参加することを考えてみて下さい。
ブッシュとアラファトと改革
Q:ブッシュ大統領は、明け透けの恐喝をちらつかせながら、パレスチナ人たちに、指導者としてのヤセル・アラファトをすげ替え、パレスチナ指導部の「改革」を要求しました。
アラファトがオスロ合意の文書に署名した当時、「国際社会」でアラファトの支配の腐敗した本質を気にする者は、ほとんどいませんでした。こう仮定すると、ワシントンはアラファトをペタン元帥()に入れかえて、ビシー政権のようなパレスチナを作り出したいと考えていると推測できます。
(Petainペタン=ナチスがフランスを支配したときの傀儡元首。Vichyビシーはフランス中部の都市。第2次大戦中の非占領地区の仮政府所在地。ナチスがフランスを支配したときの傀儡政権は普通、ビシー政権と呼ばれている。)
しかし、推測するに、イスラエルとワシントンはパレスチナに内戦を引き起こそうとしているということも考えられますが、これはあり得ることなのでしょうか。
これは、世俗的なアラブ民族主義への対抗勢力として、彼らがイスラム原理主義を支持して内戦をひきおこさせようとしたのと同じでしょうか。これはパレスチナの永久占領の口実になり得るのでしょうか。
CHOMSKY:
米国そして米国と共同歩調をとる従属国のことを、カッコつきの「国際社会」という語句で言及しておられるのだと私は推測しています。これは的を得た皮肉で、その用語は現代のニュースピークでは、標準的な使い方です。
(NEWSPEAK: ジョージ・オーウェルの小説「984年」の中に出てくるメディア機関。白を黒と言いくるめるために存在する。)
もし、そうであるならば、「国際社会」とアラファトのパレスチナ指導部についてのあなたの分析は、全く正しいものです。
どのような暴力や抑圧を使おうともアラファトたちがパレスチナの民衆を支配している限りは、誰も気にしません。
彼らがガザ地区の高層建築の中で贅沢な暮らし、同じく高層建築に住み贅沢な暮らしをしているイスラエルの支配者と協力しながら、惨めな民衆を押しつぶしていることに、誰も関心を持っていません。
しかしアラファトが自分の民衆を支配する力を失ったとき、彼は「問題の一部」になるのです。そして、そのようにアラファトが役に立たなくなり暴力とテロの独占を失った人々が、次に問題とすることは、どのように実質的な優位性を保つかということです。
それは、ちょうど9月11日に対する西側のエリートの反応とほとんど同じことです。彼らは暴力とテロの独占を破られ、今はどのように実質的な優位性を保つかに腐心しているのです。
したがって、アラファトは別の人物にすげ替えられなければなりません。課せられた仕事を遂行できる、別の人物が必要なのです。
イスラエルが永久の占領を望んでいるかどうかについては、私は疑いをもっています。あまりにも費用がかかるし、非効率的だからです。ですから彼らにとって次善のモデルは、南アのバンツースタン制度でしょう。
バラク政権の主な交渉者で、皆からの尊敬を集めるハト派のショモ・ベン・アミは数年前に次のように説明しています。
「すなわち、オスロ合意の目標は、パレスチナ人に対して『新植民地主義的依存体制』を確立することであった。そしてその体制は「永久の」ものになるだろう。
もし、アラファトと彼の一派が、この『新植民地主義的依存体制』に奉仕できないのであれば、もっと適切に主人に仕えることのできる者たちを別に見つけ出さねばならないだろう。」
Q: また最近設立されたハーグの国際司法裁判所ICCが、この紛争を監視しなければならないと、人々は思うでしょう。
アラファトを排除するひとつの方法は、彼を戦争犯罪で起訴をする、つまりテロリストとして告発することですが、それは可能なのでしょうか。
ICCがシャロンとアラファトの両方を起訴するとして、アラファトを逮捕するのは誰にでもできます。しかし、誰がシャロンを逮捕するのでしょうか。
これはICCの考え方の弱点を示していますね。いわゆる「国際社会」が逮捕したいと思う犯罪者だけが逮捕されるわけですからね。
なぜなら、いわゆる「国際社会」だけが他者を逮捕する権限を持っており、自らを逮捕することはありえませんから。この点に関するご意見はいかがですか。
CHOMSKY:
国際刑事裁判所ICCに関しては、他の国際的な制度と同じ欠点を持っています。暴力で支配されている世界では、豊かな強者が自分たちの思い通りに物事を行ないます。
ICCが西側の犯罪者を裁判にかけることができるなんてことは、ほとんど想像不可能です。犯罪行為を調査することさえできないでしょう。国際司法裁判所と安全保障理事会が米国にニカラグアに対するテロ戦争を中止させようとした時に何が起きたのか見て下さい。
第2次大戦後の戦犯を裁いたニュルンベルク裁判Nurembergでも同じことが言えます。そこで刑に処せられた人々は、確かに人類の歴史上、最悪の一団です。しかし、「戦争犯罪」の操作上の定義は、「私たちの行なったものではなく彼らが行なったものを戦争犯罪とする。」のです。
Nurembergの原則がいかに普遍的に適用されるべきかに関する治安判事ロバート・ジャクソンの優れた言葉があるにもかかわらず、その後に同じような犯罪を米国やその同盟国が起こした時も、彼らは罪を問われないままになっていました。それは、彼らがあまりにも強い国であるので触れることができないからであるし、知識階級がたいへんに従順なので彼らの犯したことを隠したからです。
和平提案
Q: ニューヨークタイムズは、もはやあまり重要でなくなっているキャンプ・デイビッド合意をアラファトは受け入れたと報じています。
さらに、ニューヨークタイムズは、これはイスラエルが今までに出した提案の中ではもっとも寛大な提案であるのに、2年近く前にアラファトはそれを拒否したとも報じました。
これは、もっと寛大であった2001年1月の提案ではなく、2000年夏の提案のことを言っているのでしょう。明らかにニューヨークタイムズは、2000年夏の提案を、もっと寛大な提案として、間違って記述しています。その時イスラエルは、2001年1月に、さらに寛大な提案をしていたのです。以前に私は、NYTにそのことを指摘したことがあります。
私の疑問は、アラファトがどちらの提案を喜んで受け入れると主張していたのかということです。アラファトは実際に、タバでなされた提案より、あまり寛大でない提案の方を、喜んで受け入れると表明したのでしょうか。あるいは、ニューヨークタイムズが単にウソを言っているだけなのでしょうか。あるいはまた、アラファトはタバの提案を拒否したのでしょうか。それともイスラエルは差し迫った選挙のために、交渉をやめてしまったのでしょうか。
CHOMSKY:
明確にしておきたいのですが、2001年1月にはイスラエルの提案はありませんでした。これらの(タバの)会議は非公式のものでした。提案はされましたが、公式のものはありませんでした。
何が起きたのかに関する、ちょうどよい記録があります。EUのオブザーバーによるものですが、両者によって有効とされ、イスラエルで出版されたものです。
それによれば、キャンプ・デイビッド以来、妥当な解決に向けての相当な進展がありましたが、まだまだ実質的な相違が残っていました。イスラエルはその会議を急遽取り止めました。おそらく選挙が差し迫っていたからです。
私自身の見解は、役に立つか[本当に価値があるか]どうか分かりませんが、次のようなことになります(当時もそうおもっていましたし、振り返ってみて、いま一層そのように思っていますが)。
すなわち、パレスチナ指導部は巧みに忠告を受けていたのではないのか、つまり当面の交渉結果を国際的に、そして自身の人々に公表することに実質的なエネルギーを注ぎ、挑発や暴力を避けながら、そのことをさらなる交渉の根拠として使うようにするということです。
2000年のキャンプ・デイビッドの提案がどのようなものだったのか、それどころか公式のものが存在したのか、これらのことは明確ではありません。
米国は正式の立場を表明していません。イスラエルは幾つかの提案をしていますが、それらがどれほどまでに公式のものであり、さらにはそれらが正確にどのような内容のものだったのか明確ではありません。
交渉結果の地図は、イスラエルでも、このアメリカでも出版されていますが、非公式のものです。アメリカのメディアや報道機関が地図をはっきりと公けにしていないことは、たいへんに印象的なことです。少なくとも私が探し当てたものはありません。
しかし和平提案とその大歓迎された「寛大さ」と「寛容さ」を評価するためには、地図を見て実際に提案されていることを理解しなければならないことは、全く明白なことです。この間の経緯は偶然のものではないと私は思っています。
現存する地図(それは首尾一貫したものですが)を単にみるだけでも、その和平提案は「寛大さ」と「寛容さ」という用語にほとんど値しないものだということが明らかになります。
ニューヨークタイムズのレポートは明確なものではありません。アラファトが明確で意味のあることは何も言っていない可能性もあります。なぜなら、彼の現在の状況、イスラエル軍による軟禁状態のもとでは、どうすれば彼にそういった意思表示が可能か、判断に苦しむからです。
Gunnar Jarringの提案、エジプトとサダト
Q: 私は、(少なくとも米国では)ほとんど知られていないガンナー・ジャーリングによる和平提案、それに対するエジプトとイスラエル両国の反応を研究することに興味がありました。ラビンの回顧録(191-195)からの重要な議論とともに、私は3つの主要な文書のコピーを手に入れることができました。
あなたは、歴史におけるそのような事件に実際に注目している数少ない分析家であることを私は知っています。(面白いことに、私の大学の世界史教科書もその事件に簡潔ながら注目しています。)だから、1967年以前の境界線の問題に関する2・3の疑問を解明するのに、あなたの手助けがいただけないかと、かねてから思っていました。
おそらくあなたもご存知のように、ジャーリングの覚書は、征服したエジプトの領土から「国際的な境界線」まで撤退することを、とりわけイスラエルに求めており、またエジプトにイスラエルに対する敵対を終わらせイスラエルの存在を認めることを求めています。
エジプトはそれぞれの点に同意しました。その返答の終わりに「正しく長続きする和平は、すべての占領した領土からの撤退なくしては、実現することはできない」と付け加えています。これは、イスラエルが国際的な合意を支持するという条件で、エジプトが和平に同意しているということなのでしょうか。
ジャーリングの提案は、義務としての完全な撤退について何も言っていないと私は理解しています。彼は、安保理決議242に沿った解決を述べているが、その決議は世界の他の国々とは異なった解釈をイスラエルによってされています。そのことはイスラエルの反応に関する私の疑問につながります。
あなたは取り分け『宿命的な三角関係』の中で次のように述べておられます。すなわち「イスラエルは、その提案をきっぱり拒絶し何の代案も出さなかったが、表面的にはイスラエルはジャーリング提案のすべての部分に同意したようだ。」と。
第4のポイントで、これはジャーリング提案の対するイスラエルの反応の中でおそらく最も重要なものですが、イスラエルは「イスラエルとアラブ連合共和国の停戦ラインから、安全で承認され同意された境界線、和平合意で確立される予定の境界線まで」の撤退を「約束する」ことに合意しました。ただし「イスラエルは1967年6月以前のラインまでは撤退しないでしょう。」と提案には書いてあります。
ラビンの回顧録には、自分はワシントンの当局者と同じようにイスラエル当局者の反応に失望したと書き留めてありました。その反応のことを、「だらだらと曲がりくねって長く、その曖昧さだけによって際立っている」ものとして、ラビンは記述しています。
私はおそらく何か見逃しているのでしょう。しかし、イスラエル当局の第4のポイントは、ラビンのいわゆる「条件づき」と呼ぶ要素を拒絶しつつも、ジャーリング提案の言葉を受け入れる、というものではなかったのでしょうか。もしそうであるならば、ジャーリングの提案は何故歴史の中に消え去ってしまったのでしょうか。
CHOMSKY:
1971年2月、ジャーリングは特別の計画を作成し、それをエジプトとイスラエルに提出しました。それは、イスラエルが国際的に承認された境界線(1967年以前の境界線)まで撤退することと引き換えに、エジプトとイスラエルの間での完全な和平を呼びかけるものでした。
エジプトのサダト大統領は無条件にそれを受け入れました。イスラエルはそれをじっくりと考慮して、本物の和平提案であると認識しました。(ラビンの回顧録とその他の多くの証拠が明らかにしているようにです。)
あなたが引用したコメントで例証されているように、ラビンの反対は戦術上のものであり実質的なものではなかったことに注目して下さい。イスラエル内部の議論では、次のように認識されていました。
「もしイスラエルがその提案を受け入れれば和平は可能となるだろうが、シナイ半島での領土拡張を犠牲にしなければならなくなる。」
領土拡張は当時の政府であるイスラエル労働党にとっては、最優先の課題だったのです。そんなわけで、イスラエルは、ジャーリングの提案を拒否することに決めました。そして、イスラエルは1967年6月以前の境界線まで撤退しないと表明しました。そのことは、ジャーリングの使命を事実上、終わらせることになったのです。
イスラエルはその時、シナイ半島東北部に入植する計画を進めていました(「ガリリ議定書」)。1万人の農民やベドウィン族を残酷にも追放し、彼らを砂漠に追いやって、彼らの村やイスラム教寺院や共同墓地を破壊し、ユダヤ人だけのヤミットという町を建設し始めました。
これはシャロンの主要な残虐行為のひとつでした。(彼の他の多くの犯罪のように、労働党政府の指導のもとに、この残虐行為は実行されました。)サダトは「ヤミットは戦争を意味する」と警告しました。そして、米国とイスラエルが軽蔑をもってサダトの主張を払いのけた時、ついに1973年の戦争となりました。
多くの宣伝で主張されているものとは違い、その戦争はサダトによるイスラエルへの攻撃ではなく、逆にイスラエルによって占領され米国の支援によって保持されていたサダト自身の領土エジプトで、行なわれました。
これは、無条件の完全な平和条約をサダトが提案してから後のことです。その逆ではないのです。
したがって「正しい永続的な平和」はすべての領土からのイスラエルの撤退を必要とするだろう、とエジプトが言ったという事実は、上記の戦争とは関係がないのです。
(「すべての占領地からのイスラエルの撤退」は、米国を含む実質的に全世界の国々から当時受け入れられていた国連決議242と一致する内容ですが。)
それはジャーリングの覚書をエジプトが受け入れる条件でもなければ、イスラエルのそれに対する拒絶の理由でもありません。ちょうど今、述べてきた事実が、そのことを明らかにしています。(この事実については『宿命的な三角関係』や他の所で詳しく議論されています。)
「表面上はジャーリング提案のすべての部分にイスラエルも同意しているように見える」とあなたは述べておられますが、それも誤りです。そのことは、あなたが引用されたイスラエルの公式見解の言葉によっても示されています。
すなわち、イスラエルは「和平合意で確立された安全で承認され同意されている境界線まで」撤退するだろう。しかし、「1967年6月5日以前のラインまで」ではないのです。繰り返しますが、決して67年以前の境界線まで撤退するとは言っていないのです。
これまでの説明で、あなたの理解の混乱が解消されればと願っています。それを示す証拠書類は明確で、あいまいなものは何もありません。
サダトは何も条件を付けませんでした。そこでイスラエルは明白にサダトの提案(すなわち、ジャーリング提案の無条件の受け入れ)を拒絶したのです。
何故その事件が歴史から消え去ったのかについては、それは簡単なことです。米国がイスラエルの和平の拒否を支持したからです。したがって、その事件は歴史には残ることができません。
2,3週間前ジャーリングが死んだ時、よい実例がありました。もちろん多くの死亡記事がありました。デイビッド・ピーターソンはそれに関してメディアを調べました。
ひとつだけ例外はありましたが、新聞は彼の生涯でのもっとも重要な政治的事件、すなわち私たちが今議論していることを避けて通りました。つまりロサンジェルス・タイムズ(LATだけが、それについてふれ、ボストン・グロウブ(BG)がそれを再掲載しました。
しかし、LAT(とBG)はそれについて述べましたが、イスラエルもアラブ諸国も彼の提案を拒否したと主張して、事実をねじ曲げていました。米国が和平への見通しを潰す時には、こういったことは全く普通に起きることです。
この場合、学問的な記録も同様に恥ずべきものです。これについては、私は幾つかの例を論文などのかたちで公けにしています。
たとえば、それらの事実については上記の文書に基づいて『宿命的な三角関係』や他の所で述べています。私には上記の事実については何の曖昧性も見出すことが出来ません。
ジャーリングの提案とエジプトの反応は100%拒絶主義者のものだったということも、私たちは心に留めておくべきです。
それは、我々が「人種差別主義者」と呼ぶ立場であり、国連決議242とは違って、パレスチナ人の自決権への認識はまるでありません。おそらく別の例えを使うならば、ナチズムへの復帰と言えるものでした。
さらに論評を加えるまでもなく、それは私たちに知的道徳的文化についての真実を知らせています。それは、今日の状況にもたいへんに関係のあることです。演説起草者がブッシュに読ませた恥ずべき演説とそれに対する反応を見れば、このことは明らかなことです。
Q: 意味論に関わることでもうひとつ技術的な質問があります。答えていただければ、感謝します。
あなたはジャーリングの言葉を述べられました。それは「エジプトとパレスチナの英国委任統治領の間の国際的な境界線」は1967年6月以前の境界線だったというものです。
エジプトの返答が明らかにしているように、エジプト領にはガザ地区が含まれているようにみえるのですが、ガザ地区というのはパレスチナの英国委任統治領の一部ではなかったのでしょうか。(もし私に誤りがなければ、バルフォア宣言に、そのように書かれていたと思ったのですが。)
Chomsky:
それはよい質問ですね。それは明確な答がないと私は思います。
ガザ地区は国際連盟の委任統治のもとでは、パレスチナの一部でした。そして1948年の戦争でエジプトに引き継がれたのです。
しかし、私が思い出す限りは、公式には併合されてはいません。そこの状態は幾分あいまいなままでした。
しかし、国際的な境界線(グリーン・ライン)はガザ地区をエジプトのものではなくパレスチナ内のものとして留まっていました。
ガザ地区とシナイ半島北東部のイスラエルの行動に対するエジプトの反応は、全く違ったものでした。
ガザ地区でのイスラエルの残虐行為や開発について、エジプトは不平を言っていたかもしれませんが、思い出してみるとそれほど真剣なものではありませんでした。
しかし、ゴルダ・メイヤーの労働党政府がシナイ半島東北部に入植をし始め、シャロンが政府の命令のもとでそこで大きな残虐行為を実行した時には、エジプトの反応はたいへんに違っていました。
エジプトは戦争をするという警告を発して、実際に戦争になりました。エジプトもイスラエルに劣らないくらいに人種差別主義が優勢だったことを考えると、これには誰もが驚きショックを受けました。(エジプトはパレスチナ人の運命などに関心をもっていない、と考えられていました。)
Q: 1977年の提案についての疑問もあなたにお尋ねするつもりでした。余分なことを言ってすみません。
とにかく、サダトが1977年に平和の人として受け入れられたのは、彼が当時「米国の意向に従う」ことができたからだとあなたは述べておられます。
とすれば、米国がエジプトの軍事力を知っていたならば、1971年の段階でもサダトが「米国の意向に従う」ようできたとあなたはお考えですか。
また、1971年の提案に関する米国の意図に関するより多くの情報を、どこで手に入れられるのかご存知ですか。
私は、米国の外交関係、取り分け、キッシンジャーの回顧録を調べてみたいと思っています。ありがとうございました。
Chomsky:
あなたのおっしゃる要点がよく理解できません。というのは、「エジプトを従わせる」という問題はないからです。
1977年にサダトは1971年の提案を繰り返しました。しかし、今度はさらに条件を加えました。すなわち、パレスチナ国家はイスラエルの占領地に樹立されるべきであるということです。
それは国際的な合意の転換の反映です。それは、初期の拒絶主義を放棄しています。(米国とイスラエルは相変わらず拒絶主義にしがみついていましたが。)
1977年の提案によって、サダトは偉大な和平の人として、公の話の中では歓迎されています。しかし実は、彼の1971年の提案は、米国とイスラエルの要求に非常に近いものでしたが、記録から削除されています。その理由は米国・イスラエルの立場が変化していたからです。
1967年から73年の期間は、小さな人種差別主義どころか、それ以上の色彩を帯びた極端な勝利主義の時代でした。この期間の重要なイスラエル特派員だったアムノン・カペリオウクによって書かれた本の中で、その事実は分かりやすく記述されています。それで私は彼をサダトに関連して引用しています。
私は付け加えておきたいのですが、私は何人かの他の者と一緒に、その本(ヘブライ語で書かれフランス語にも翻訳されている)の米国の出版社を見つけようとしましたが、見つけることができませんでした。しかし、考えてみれば、それは誤った話でした。そんな出版社はアメリカにはありえないのです。
それはともかく、エジプトは手も足も出ないという仮定のもとで、イスラエルとキッシンジャーはエジプトを簡単に無視できると思っていました。しかし、1973年の戦争は危機一髪のものであることが分かりました。ほとんど核戦争になりかけたのです。その戦争はキッシンジャーにさえ、視界をさえぎる雲を振り払うものとなりました。
こうして、米国とイスラエルは当然のなりゆきとして代替案の戦術に進路を変えました。すなわち、この紛争からエジプトを取り除き、そしてイスラエルが米国の支援を受けて占領地を統合し、レバノンを攻撃できるようにしたのです。
したがって、1971年に「エジプトを従わせる」という問題はありませんでした。問題は「米国をエジプト案に従わせる」ことでした。
1971年に、米国&イスラエルは、「見返りとしてエジプトの領土から撤退する」というサダトの和平提案を拒否しました。しかし、1977年、彼らはその提案を受け入れました。(その一方で、パレスチナ国家に関する彼の新しい提案を拒否しました。)
その理由は、エジプトはどうしても無視できないという彼らの認識でした。したがって、もし本来の、これまでと同じ計画、パレスチナ国家を認めず入植地を拡大する計画を進めるつもりならば、それを邪魔をしないようにエジプトを中立化する必要があったのです。
ついでに言えば、カーターはこのことについてよく知っていたかどうか怪しいものです。おそらく知らなかったでしょう。しかし、実際それはかなり明確なことでしたし、イスラエルの主流メディアの論評の中では明らかなことでした。(このZnetのような、体制に異を唱える論評でも明らかなことでしたが。)
1971年の内部文書はまだ一般に公開されていませんが、その内部文書でキッシンジャーは彼の理由を述べました。
それは、『宿命的な三角関係』(p.65)の中で引用されています。もっと詳しくは、キッシンジャー回顧録の私の論評の中にあり、これは『新しい冷戦へ』で復刻されています。
これらは、国際問題の初歩の事実に対するどうしようもない愚かさと無知を明らかにしています。しかし、ほんのわずかの例外はあるとしても、キッシンジャーに関する学問的な記録の中で、これらは無視されています。
現在、丸秘解禁になっていて利用可能な証拠文書からすれば、米国政府はサダトの提案に関しては2つに意見が分かれていたようです。
国務長官のロジャーズは明らかにサダト案を支持していました。(それは米国の公式のロジャーズ計画に密接に従うものでした。)
キッシンジャーは、当時国家安全保障会議の顧問でしたが、彼が言うところの「手詰まり」というものを好んでいました。
しかし、内部の官僚闘争では、キッシンジャーが勝利を収めたようです。彼の勝利の理由については、ただ推測できるだけです。
ロジャーズを潰(つぶ)してアメリカの外交政策を完全に引継ぎをしようとするキッシンジャーの試みを、官僚たちが何とか耐え忍ばねばならなかった、ということは十分にあり得ることです。
そのような闘争があったことについては、内部にいた人間の説明のとして、デイビッド・コーンの著作によって暗示されていますし、キッシンジャー回顧録の全く愚かな記述によっても暗示されています。
(これは特別なことではありません。これについては前述の私の論評を見て下さい。)
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