スティーブン・R・シャローム
ノーム・チョムスキーへのインタビュー
January 2002
シャローム:
アフガニスタンでの戦争は、たいへんな人的被害にきっとつながるであろうと各国の政策決定者は信じており、実現できそうな代替案が無くても社会的倫理に反するものでした。 それでもやはり、あなたやその他の戦争に批判的な人たちは、代替案についてしばしば尋ねられてきたことと思います。そこで、わたしはもう一度あなたのお答えをお伺いし、それを詳しく明確に視聴者に紹介したいと思います。
あなたの発言は、「ビン・ラディンを裁判を受けさせるために第三国に引き渡す」というタリバンの申し出を米国が退けたという事実に世間の注目を集めました。明らかに米国は、まさに戦争を望んでいました。しかしそれは、戦争に代わる真に平和的な代替案があったということを示すものではありません。
もし、その時タリバンがビン・ラディンを諦めていたとしても、多分それは米国政府が大規模な軍をアフガニスタン国境に進ませていたという事実に関わりがあったことでしょう。和平申し入れに対する米国の拒絶が米国政府の戦争を望む気持ちをはっきりと示しているとはいえ、強制力が無ければ、9月11日の犯人を裁きにかけることができただろうとは言えません。
(そして、1990〜1991年のサダム・フセイン、1999年のセルビアが、戦争に先手を打って譲歩案を提示したのに、それを米国がはねつけた事例にも同じことが言えます。)
このことは、今述べた戦争を正当化するものではありません。しかし、それは平和的な手段がテロに適切に対抗しうるのか、という疑問を確かに投げかけます。(あるいは、より正確に言うと、ある種のテロです。なぜなら、米国の「テロに対する戦争」は、敵のテロにのみ照準を合わせているからです。同盟国や米国政府自体によるテロは、この場合、テロとは意図されていないからです。)
チョムスキー:
これらやその後に続く問題は難しい問題ですから、よく考えてみなければなりません。これらの問題を一歩一歩目を通し懸念を表し、答えを与えると言うよりも答えを探していけるような方法を大まかに述べてみたいと思います。
まず始めに、二つのあたりまえですが大切な原則を、枠組みとしてもう一度ここで挙げるのが有効かと思います。
(第一原則) もし、ある原則を提案するのであれば、私たちは、その原則を敵対者に適応するだけでなく私たちにも当てはめることに同意し、実際、そのように強く主張しなければなりません。
(第二原則) 私たちは確かに、事実問題について、自らよく考えて判断を下そうとすべきです。しかし他方、どれほど私たちの意見に説得力があるように思えても、その意見と行動への提案との間にはずいぶんとひらきがあることを理解しておかなければなりません。このひらきを埋めるには議論が必要です。その提案された行動が、例えばある国を爆撃するなどの、大規模な人的影響を引き起こす可能性がある場合には、とりわけ、本質的な議論が必要です。
このことを念頭において、お尋ねのことに現れるたいへん重要な問題に目を向けてみましょう。
まず第一に、誰かが次のような問いを投げかけたとしましょう: 戦争に代わる本当に平和的な方法があるのでしょうか?
しかし、この問題に取り組む前に、これが適切な問い方かどうかを考えなくてはなりません。なぜなら、ご覧のように、この問いは、もし平和的な手段が失敗すれば、米国は目的を達成するためには戦争に訴えてもよいのだ、ということを前提としているように思えるからです。この場合、9月11日のテロの犯人や加担した者たちを殺したり逮捕したりしてもよいと言うことです。
しかし、あなたも私も米国に戦争に訴える権利があるという仮定をまったく認めてはいません。冒頭であなたが指摘したように、実際の状況では戦争は、「実現できそうな代替案が無くても、社会倫理に反するもの」になった可能性があります。それでも、この仮定、すなわち「もし平和的な手段が失敗すれば、米国は目的を達成するためには戦争に訴えてもよいのだ」を受け入れ、その結果先ほどの問いかけをしたとしてみましょう。
すると、枠組みとして挙げた第一原則が出てきます:この仮定を私たち自身にも当てはめて受け入れるのでしょうか?ニカラグアやキューバやハイチ(いくらでも例は挙げられますが)はアメリカに対して大規模な暴力を使う権利があるのでしょうか?
なぜなら、残念ながら、米国内には引渡しを免れ保護されている犯罪者がたくさんいるからです。彼らはニカラグアなどで9月11日のテロに匹敵する犯罪を犯したにもかかわらず、アメリカは引渡しを拒否しているのですから、上記の仮定に従えば、疑いのある人達を殺したり逮捕するためにアメリカを爆撃しても良いことになるはずです。
ニカラグアの事例は特に明白です。そして事実、国際司法裁判所の判決やそれを支持する安全保障理事会の決議によっても上記の犯罪者が有罪であることは議論の余地はありません。もっとも、アメリカは上記の決議に拒否権を発動しましたが。
しかし、より重要度の低い事例を考えてみましょう。つまり、テロ行為で告発されている人たちが米国の指導者ではなく、むしろ米国によって匿われている民間人の場合です。
テロ犯罪者として告発されるべき米国の指導者たちの中には、米国政府が過去20年間、宣戦布告してきた「テロに対する戦争」の第2弾を現在、遂行している人たちが含まれていますが、それはいま問題にしません。
歴史では制御された実験はできません。しかし以下の事例は、いくつかありますが、いま検討中の問題にかなり近いものです。
ハイチについて考えてみましょう。米国はエマニュエル・コンスタンツの引渡しを拒否し続けています。コンスタンツはハイチの軍事政権下で1990年代初期に行われた何千人もの人々の残酷な殺戮を遂行した準軍事部隊の指揮者です。そして、この軍事政権をブッシュ(現大統領の父親)とクリントン政権が、表向きは援助していないといいながら実は援助していました。
コンスタンツの有罪は疑う余地がありません。彼はハイチの法廷で不在のまま判決を受けました。選挙によって選ばれた政府は繰り返し米国に彼を送還するよう求めています。2001年、9月30日の軍事クーデターの記念日にも再び求めています。
この要求は拒否されていますが、多分それは、コンスタンツが、テロ行為を行っている間の、米国政府とのつながりについて、何を暴露するかわからないという懸念からでしょう。その懸念は小さいものではありません。
なぜなら、他の残虐行為はいろいろありますが、この場合は、人口比でいえば、それはまるでイラクのような外国が、数十万の人々を殺戮した米国内のテロリスト勢力を援助するようなものだからです。
しかし引き渡しの要求は単に拒絶されただけではなく、無視され、報道されることもほとんどありませんでした。タリバンに匿われた容疑者たちによって何千人もの米国人が殺されたことへの激しい怒りの真っ只中で。
では、ハイチは「戦争に代わる真に平和的な代替案」を持っていなかった、だから戦争に訴えても良かったのだと結論付けてもいいのでしょうか。そして、ハイチは米国と対等に戦争を行う能力が無いので、他の手段、おそらく生物兵器や建物の爆破、小型の核兵器などに訴える以外に手段をもたないのだと、結論付けてもいいものでしょうか。ひょっとすると小型の核兵器は米国内に密輸入できるかもしれないからです。
誰もこの事例や、似たようなもっと極端な事例でも、こんな結論を受け入れることは無いでしょう。だとすれば、私たちがいま現在問題にしている事例の結論、すなわち「アメリカはアフガニスタンを爆撃する以外に平和的代替案を持たなかった」とする結論を受け入れるべきでしょうか。相手を攻撃する場合はYESで自分が攻撃される場合はNOだとすれば、それは第一原則からの明白な逸脱です。
これはしばらく置いておきましょう。そして「米国は真の代替案が無ければ、つまりタリバンにビン・ラディンとその共犯者を引き渡させる方法が他に無いならば、脅しや暴力を行使する権利がアメリカにはある」という暗黙の仮定をひとまず受け入れてみましょう。
すると事実に関する問題が出てきます。「代替案はあったのでしょうか?無かったのでしょうか。」ここに前もって考えなければならない問題が現れてきます。それについて私は納得していますが、とりあえず明確にするために持ち出しておく価値はあると思います。
犯人の身柄引渡しには手順があります。まず最初に、容疑者に対する説得力のある証拠を提示します。これに関して今回の事件の場合、状況は全く違っています。ハイチやコントラ戦争、マングース作戦計画と引き続くキューバに対するテロ行為、これらはすべて米国から輸出されたものですが、そのような多くの事例で、証拠は明らかで、議論の余地はありません。
しかし米国はビン・ラディンに関しては、明らかな証拠を持っているのかもしれませんし、そうではないかもしれませんが、いずれにしても米国はきっぱりとタリバンに証拠を示すことを拒否しました。実際、証拠の引渡しを要求することさえ拒否しました。もしそんな要求に応じれば、「いかなる御墨付きも必要とせずに行動をおこす大国の特権」に制約を認める恐れがあると考えたからでしょう。
それに代わるアメリカ政府の要求は次のようなものでした。「ビン・ラディンを引き渡せ。ひき渡せば、お前たちに手出しはしない。さもないとひどい目にあわせるぞ。」(タリバン政権を転覆させることは、その後で出てきたことです。それ以前は脅迫すれば引き渡すと考えていたのでしょう。)
どんな政府も(もちろん米国政府は別ですが)こんな要求を、よほどの武力脅威によって強制されなければ、受け入れることは無いでしょう。
したがって、これが要求ならば、実際そうであったように、このような脅しに対する代替案はありませんでした。なぜなら証拠も示さず引渡しだけを要求するのですから。
しかし、今までの議論から明らかなように、引渡しを拒否したからと言って、そのことによって暴力による脅しやその行使が正当化されるわけではありません。
この件はいったん置いておきますが、タリバンは、武力による脅威がなければビン・ラディンやその共犯者たちを引き渡したのでしょうか?私自身の結論はあなたと似たようなものです。ほとんどその可能性はありません。
しかし、そのための努力はなされていないので、本当のところはよくわかりません。さまざまなタリバンからの申し出は、曖昧なものであるにしても、検討されることなくあっさりと退けられているからです。
同じような疑問、すなわち「タリバンは、武力による脅威がなければビン・ラディンやその共犯者たちを引き渡したか?」という疑問が初期のころにも出されました。しかし、私たちが自分の判断に自信を持っているとしても、第二原則に照らし合わせなければなりません。
そのためには何らかの方法で議論のなかで抜け落ちている項目を埋め合わせしなければなりません。さもなければ何の結論も得ることは出来ません。これは容易なことではなさそうです。
(第二原則) 私たちは確かに、事実問題について、自らよく考えて判断を下そうとすべきです。しかし他方、どれほど私たちの意見に説得力があるように思えても、その意見と行動への提案との間にはずいぶんとひらきがあることを理解しておかなければなりません。このひらきを埋めるには議論が必要です。その提案された行動が、例えばある国を爆撃するなどの、大規模な人的影響を引き起こす可能性がある場合には、とりわけ、本質的な議論が必要です。
サダム・フセインの場合にも同じような考慮すべき事項があると思います。ブッシュ(現大統領の父親)の政権が1990年夏に、イラクのクウェート侵攻後に感じていた大きな脅威は、「これから数日後にイラクはサダム・フセインの傀儡を残して撤退し、アラブ世界の誰もがみんなハッピーになるのではないか」ということでした。
(これはコリン・パウエル幕僚参謀長(当時)の言葉です。しかし実は本当は戦争がしたいアメリカとしては、これでは困るわけです。だからアメリカ政府にとってはイラクの撤退が脅威なわけです。)
つまり、サダム・フセインは米国がまさにパナマで行ったのと同じことをするだろうということです。中南米は幸せとは程遠い状況であったのを除けばですが。このような予測は正確だったのでしょうか。1990年の8月から91年の1月までに撤退するという、その後のフセインの申し出は本当だったのでしょうか?
それはわかりません。なぜならば、それらの申し出は完全に無視され、ほとんど報道すらされませんでしたから。もし、この撤退が実現していたら、その撤退の申し出は大規模な武力が行使されるという可能性に基づいて出されたと論じることも、道理にかなっています。爆撃されることが嫌だから撤退の申し出をしたとも考えられるからです。
しかしここでまた第二原則が出てきます。そして、一連の論理のかけた部分が補われなければ、私たちに出せる結論はせいぜい、「侵略に対抗するために安全保障理事会を通して出された強硬手段の決議は合法的なものだということです。その決議そのものは私にはきわめて的を得たものだと思われます。
同じように、セルビアの場合も、1999年の合意のようなものは、78日もの間爆撃をすることもなく、外交的な手段で達成できたのではないかと、考えることもできます。なぜなら、爆撃直前にセルビア人とNATOの間で、そのような妥協案は成立していたからです。でもイラクの場合と同じ理由で、アメリカは考慮せず投げ捨てて実現しなかったのですから、本当のところはわかりません。
武力による脅威の必要性はどうだったのでしょうか?この件に関して、状況は大変複雑です。1999年の3月下旬までいったい何が起こっていたのかをよく調べてみなければなりません。単純な話ではありません。例えば、米国主導の多国籍軍の中でも最もタカ派勢力であるイギリスは、1999年1月になるまでコソボでの残虐行為の責任はコソボ解放軍ゲリラにあると考えていたという事実に注目しておかなければなりません。(これは考えられないことですが、イギリスの判断でした。)そして、それ以降あまり考え方に変化が無かったという詳細な証拠があります。
他方、セルビア人による厳しい弾圧と残虐行為が長年にわたってあったことは疑いありません。しかし、それを克服することは西側世界の関心事ではありませんでした。つまり西側はセルビア人の行為を容認していたのです。だからこそ、アルバニア人が武力に訴え、1998年までにこの問題について世界の注目を集めさせようとしたのです。
それは暴力の有効性について疑問を投げかけました。それ当初に出されていた疑問と違って、言い換えればテロ的暴力の正当性、それは許されるか否かについての疑問です。なぜなら、米国とイギリスはコソボ解放軍の行動をテロ行為だと非難していたのに、その後は彼らの支持に転じたからです。これでは暴力行為、テロ行為を全体として非難することはできなくなるからです。
シャローム:
テロ行為を扱う適切な手順は、しかるべき国際機関に証拠を提出し、国際法の命ずるところに従って対処してもらうことです。あなたが挙げたように、これは1980年代の米国のテロ行為に対応して、ニカラグアがとった手段です。しかしニカラグアは米国の妨害によって正当な扱いをされませんでした。
米国の偽善的行為はかくのごとく明らかです。しかし、ニカラグアの事例のそれ以上の展開はあきらかではありません。私たちは、米国(その他の国々)に国連に行ってくれと促していればいいのでしょうか、それとも国連は、米国のテロ行為に対処する能力が欠けているので、正義を裁く場としての威信を失っているのでしょうか。
また、米国が自国の非合法活動を国連を通して行うことで合法的なものにしたとしても、それでその活動が正当なものであったという保証にならないことも確かです。行動は合法的でも、正当ではないこともありえます。国連が認めようが認めまいが、アフガニスタンの国民を大量に飢餓の危険にさらすことは正しいことではありません。しかし、9月11日の事件を受けて国連がとることのできた、合法的かつ正当な行動はあったのでしょうか?
チョムスキー:
国連が、主に米国のような大国からの権限付与がなければ行動できないのは真実です。例えば国連は、決して米国のインドシナでの戦争を議題として取り上げることすらできませんでした。なぜならば、もし取り上げれば国連はあっさりと崩壊してしまうだろうとわかっていたからです。同様に、米国がニカラグアに対するテロ行為への国際司法裁判所と安全保障理事会の判定を拒否したとき、国連はほとんど何もできませんでした。実際はもっとできたはずでしたが。
しかしこのことで国連の「正義の場としての」威信は失われてしまうのでしょうか?私は、それは正しい結論であるとは思いません。ニュルンベルグ裁判が「勝者の正義」の一例であったのは疑いありません。検事長でさえそのことをきわめて率直に認めました。とはいえ、偽善であっても、ナチスの戦犯を裁判にかけ有罪にすることは間違っているとは思いません。
刑事裁判のシステムは、残念なことですが、常に不公平なものなのです。しかし、世界にそのようなことが存在するからといって、そのようなシステムを失格だとして投げ捨ててよいとはいえません。私たちはその世界を変えることができるのも事実だからです。
しかし、私たちは、その世界の中で、いずれを選ぶかの選択をし決定をしなければならないのです。もちろん、もし米国が、協定で決められた義務や国際法によって定められた方針に従うことを選んでいれば、支障はなかったでしょう。
しかし、そのことで2番目の疑問が持ち上がってきます。当面の問題に大変関係があるものです。もし米国が望みさえすれば、安全保障理事会は米国の行動にアフガ爆撃の権限をあたえたであろうということは疑いがありません。しかしアメリカはそのような権威付けなしに行動することを望んだのです。
それは恐らく、米国には従わねばならない外部の権威は無いということをはっきりさせるためでしょう。超大国の体制としてはきわめて自然な姿勢です。しかし、それによって行動が道義にかなったものになるわけではありません。あなたが指摘したように、合法的になるだけです。
では、もっと別の正当性のある行動がありえたのでしょうか?ここに一つの可能性があります。ローマ教皇庁やその他多くによって提案されるほど急進的な立場とはかけ離れているものです。そして、支配者層むけのメジャーな雑誌である、フォーリン・アフェアーズ、2002年1月号で傑出した英国系アメリカ人の軍事歴史家であり、大変保守的なマイケル・ハワードによってすら主張されているものです。彼は次のように言っています。
「犯罪的な共同謀議に対しては国連の支援のもとに行われる警察活動によって犯人たちは捜索され国際法廷に引き出されるべきです。その法廷では犯罪者たちは公正な裁判を受け、有罪であるとわかれば、適切な判決を受けるでしょう。」(彼のその他の事柄に関するすばらしい見識は、ここでは関係が無いので、置いておくことにします。)
これは道理にかなった処置であるように思われます。ただしアメリカ政府によって一度も考慮されたことはありませんでしたが。もし考慮されていれば、もし米国にも適応されていれば、これは第一原則にてらしあわせて道理にかなったものとなったでしょう。しかし、米国のなかには、そのような変化を支持する実質的勢力がありませんから、これは不可能でしょう。これは私たちの知識人の責任です。
シャローム:
あなたが議論してきた一つの代替案は、抑圧的なタリバン政権を追い払う可能性をもつ現地勢力を援助することでした。アフガン人のいくつかの声を引用して、あなたは反タリバン側は外部からの支援を望んでいるが米国の爆撃は望んでいないことを指摘しました。しかし、これらの反タリバン勢力は外部の軍事行動なしにタリバンを倒せる状況だったのでしょうか?
RAWA(アフガニスタン女性革命協会)はアフガン人に立ち上がることを呼びかけました。しかし、誰が武器を持っているのかを考えると、呼びかけることが、すぐに実現につながるわけではありません。また、アフガニスタン女性革命協会の他の提言も、そのことを同様に認めているようです。
ソナリ・コルハツカー氏はZNet上で次のように報告しています。
同協会や他の団体が「長年提案したにもかかわらず完全に無視されてきたのは国連平和維持軍での介入です。それがアフガニスタンのあらゆる武装勢力を武装解除し、東チモールで行ったようにアフガニスタンでの民主的統治にむけてのお膳立てをするであろうと考えられるからです。」
(東チモールで上記のようなことが実現したのは、米国のおかげではありません。それどころか、積極的にインドネシアに武器を売りチモール人たちの虐殺を援助を続けたのがアメリカなのですから。)
アフガンの様々な勢力への外国からの武器供給は「アフガン人が立ち上がる」のを援助しているようには思えません。むしろ、次から次へと違う勢力の軍司令官を強化するだけでしょう。従って、タリバンを排除できるかどうかの問題は、何らかの形の国際的な軍事活動が必要だったのかもしれないという問題でもあります。
(同じような疑問がイラクの場合にもあてはまります。米国が1991年3月に、イラク内におけるクルド人とシーア派が反乱するの後押しせず、それを拒否したことで、サダム・フセインが政権についたままになったことは明らかですが、他方、1990年半ばまでイラクの反政府勢力はフセインの抑圧的な組織に対抗できるまでに大きくは無かったことも事実でしょう。アンドリュー&パトリック・コックバーンがその著書、「Out
of the Ashes」で述べているように、「米国はフセインを退陣させようとして様々な他の反政府勢力を支援していたが惨めにも失敗している」からです。)
チョムスキー:
もう一度第二原則を思い出してみましょう。上記の問題に関して私たちは自分なりの判断に到達できますが、何らかの方法で、一連の欠損した議論が補完されなければ、それには説得力はありません。
それはさて置き、タリバン政権の排除に関するアフガン人たちの提案で実現可能なものがあったのでしょうか。第一に問題にしなければならないのは、提案はアフガニスタン女性革命協会だけではなかったことです。
同じような提案は、米国のお気に入りであるアブドゥル・ハクによってもなされました。しかし彼ですら爆撃を非難し、それはタリバン政権を内側から崩していく自分や他の人々の労力に害を成すものと主張し、米国は武力で世界を動かしているのだと見せつけるためだけに爆撃をおこなったのだと告発しました。
さらにもっと衝撃的なのは、去年の10月に行われた千人ものアフガン人リーダー会議での、同様の立場の承認でした。その中にはアフガニスタン国内から参加したものも亡命先から参加したものもいました。それはその時たった一度だけ報道されたものですが。
ニューヨークタイムズはこの会議を、部族の長老たちや、イスラム学者たちや、御しがたい政治家たちや、もとゲリラの指揮官たちの間の、めったに見ることの無い一体感を表していたと述べました。
たしかに一体感のあった事柄もありましたし、そうでない事柄もありました。しかし彼らは爆撃を非難することでは全員一致だったのです。そして会議の第4週に入り、アフガニスタン女性革命協会やアブドゥル・ハクが提案したような、タリバンを権力の座から引きおろす他の方法を求めることになったのです。
同じような状況判断は、パンカジ・ミシュラのようなアフガニスタンの専門家によっても提言されています。彼はニューヨーク・リビュー紙(2002年1月17日付け、記事を書いたのは2001年12月20日付け)で、過去の出来事を振り返って自分の考えを述べています。
そのアフガン人たちの提案は、それ相当に理にかなったものに思われます。しかしあまり価値がないのかもしれません。そのようにしか言えない一つの理由は、自信を持って判断を下すほど、私が十分に分かっていないからです。
とにかく、いずれにしても、私には議論の鎖をきちんと繋げる方策が見出せないので、アフガンの状況はアフガン人よりもむしろ米国政府や米国とイギリスのニュース解説者が決定する事柄だとは、とても結論づけられないのです。
イラクについても、人民蜂起の機会は、米国が1991年3月の反乱を抑えてしまったあと、うまくいきそうもなくなったように思えます。これは米国が民衆の反乱の後に起こりえる結果よりもサダム・フセインの「鉄拳政策」と「安定」を好んでいるからです。(これは、ニューヨークタイムズ紙やその他が正直に指摘していることでもあります。)
とはいえ、私は米国の反政府グループへの支持には慎重に接したいと思います。これは厳密には、現地の情勢報告が反政府グループ自身による報告ではないからです。
しかし、どのような結論に達しようと、同じ疑問が起こってきます。イラクの状況は、イラク人よりもむしろ米国政府や米国とイギリスのニュース解説者が決定する事柄だ、と結論づけてよいのかということです。
たとえ決定的なものではないにしても、あくまで現地勢力が行動の選択に優先権を持ちます。外国人が決定権をもつ特別に決定的な要因はありません。
フセインを権力の座から引き摺り下ろす方法に関してまじめな提案があるならば、私たちは確かにそれを考えてみたいと思うはずです。フセインは、米国とイギリスが支持していたころと同じく、相変わらず怪物のままなのですから。
しかし抽象的な話をすることは不可能です。具体的な提案について考えなければなりません。
今まで出されてきた御質問は理にかなった適切な疑問です。しかし、それらの質問には、時には明確な回答ができることもありますが、そうでないこともあります。
特にそれが、私たちが罪をおかし、その責任をお互いに分かち合っている場合は明確な回答が出来ます。それは狭い範囲の犯罪ではなく、理解可能な理由のために私たちがアメリカの主流メディアの議論に入ることを許されないような犯罪の場合です。
しかし他の場合では、容易に答えを出せないのが普通です。ひとつも理にかなった答えを出すことができないこともあります。少なくともいくらかの指針を提供する単純な原則はありますが、そのような場合に当てはまる一般的な公式は確かにないでしょう。
(翻訳: 久代宮子 + 寺島隆吉)