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ブッシュのベトナム:アフガニスタン、そしてイラク
ジョン・ピルジャー、
『ニュー・ステイツマン』紙、2003年6月22日掲載、原文:Bush's Vietnam
(翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2003年9月9日)
2001年9月11日以来のアメリカの2つの「大勝利」は解体しつつあります。
アフガニスタンにおいてハミド・カルザイ政権は実質的に何の権威もなく、お金もない状態で、米国の銃なしでは崩壊するでしょう。アルカイダは掃討されず、タリバンはが再出現しています。陳列ケースの改善にもかかわらず、情勢と子供の状況は絶望的なままです。カルザイ内閣の記念碑的女性、勇敢な医者シマ・サマールは政府から追い出され、今、命の危険にさらされています。彼女のオフィスのドアと門には武装ガードマンがいます。殺人、強姦、子供の虐待が行われ、米国の「友人」である私兵=軍閥によって罰を逃れています。その軍閥将軍には、ワシントンが何百万ドルもの賄賂を贈り、手に現金をつかませ、見せかけの安定を与えようとしました。
「われわれがこの基地を離れるや否や戦闘状態に入るのです」「われわれは毎日、日に何度も銃撃されているからです」と、ある米国大佐がカブール近くのバグラム空軍基地で語ってくれた。あなた方は確か人々を解放し保護するためにやってきたのですねと私が言ったとき、彼は腹を抱えて笑っていました。
米軍は滅多にアフガニスタンの町中では見かけられません。彼らは米国役人を護衛し、黒塗り窓の武装したバンや、車の前後に機関銃が取り付けられた軍用車両で、高速で走りぬけるだけです。広いバグラム基地は国防省長官ドナルド・ラムズフェルドにとって、最近ほんのちょっと訪問するのも、危険すぎると考えられました。米国人があまりに神経質なので、2−3週間前、カブール中心部で政府軍4人を彼らは「偶然」射殺しました。それは一週間で二回も米軍駐留への大街頭抗議を引き起こしました。
私がカブールを発ったその日、自動車爆弾が空港への途中で爆発し、国際治安支援部隊(ISAF)のドイツ兵4人を殺しました。ドイツ軍のバスは空中に放り上げられ、人肉が路傍に横たわっていました。英軍兵士が「立ち入り禁止にするために」その区域に到着したとき、彼らは物言わぬ群衆に見つめられました。彼ら群衆は、自分たちを隔てる分水嶺の向こうから熱と埃を横目でにらんでいました。それは、19世紀に英軍をアフガニスタンから、フランスをアルジェリアから、アメリカをベトナムから、隔てていたのと同じほど広い分水嶺でした。
二つめの「大勝利」の場面、イラクでは二つの公然の秘密があります。第一は、今も米占領軍を包囲している「テロリスト」が武力抵抗を示し、それはほとんどが確かに大多数のイラク人に支持されていることです。これは開戦前のプロパガンダとは違って、強制された「解放」に反対しているのです。(www.guardian.co.uk2003年3月19日づけ、ジョナサン・スティーレの調査を参照。)第二の秘密は、英米の殺戮の真の規模について、ブッシュとブレアがずっと否定し続けてきた大虐殺を示す、証拠が挙がってきているということです。
ベトナムとの対比はここ数年何度も行われてきているのでもう一度引き出すのは気が引けますが、類似点は顕著なのです。たとえば、「泥沼化」のような表現の再来です。再び、この表現はアメリカ人は侵略者ではなく犠牲者だと粉塗しようとするものです。貪欲な冒険家がうまくいかない時に常に登場する、お決まりのハリウッドバージョンでなのです。サダム・フセインの彫像がほとんど三ヶ月前に倒されて以来、戦争中よりももっと多くのアメリカ人が殺されています。路上バリケードと検問所への古典的なゲリラ攻撃で10人が殺され、25人が負傷し、その数は日に12人にも達しています。
アメリカ人はゲリラを「サダム信奉者」とか「バース党闘士」と呼んでいますが、それは、彼らがベトナム人を「共産党員」と片づけてきたのと同じです。最近イラクのスンニ派中核地域ファルージャでは、バース党やサダム信奉者は明らかに存在せず、群衆に至近距離で発砲する占領軍の残虐行為が目立っています。それが逆に抵抗を煽っています。羊飼いの家族を撃ち殺している米軍戦車は、4年前に「飛行禁止区域」で米英「連合軍」の飛行機が羊飼いを撃ち殺した場面を思い起こさせます。その結果を私は映像で撮りましたが、私にとってそれは同時に米軍飛行機がベトナムでよくやっていた殺人ゲームを思い起こさせました。農場で農夫を、水牛に乗った子供を撃ち殺すというゲームです。
6月12日、米軍の大部隊がバグダッド北の「テロリスト基地」を攻撃し、米国のスポークスマンによれば100人以上を殺しました。「テロリスト」という言葉が重要です。なぜならそれはアルカイダのような組織が解放者=米軍を攻撃しているというイメージがつくられるからで、イラクと9・11との関連が偽造されるからです。それは開戦前のプロパガンダでは決して作られ得なかったものなのです。
400人以上の捕虜がこの作戦で捕らえられました。大多数はバグダッド空港ので「収容施設」に収容されている数千人のイラク人に加わったと報道されています。それはバグラムに続く一連の強制収容所です。そこから人々はグアンタナモ収容所へと送られるのです。アフガニスタンで米国人はタクシー運転手をつかまえ、バグラム経由で忘却の地へと彼らを送るのです。チリの独裁者ピノチェット将軍の少年たちのように、彼らは自分たちが敵だと思ったものを「消し」ているのです。
「探して破壊せよ」というベトナム戦争の焦土作戦が戻ってきたのです。アフガニスタンの乾燥した南東平原で、ニアジカラ村はもはやありません。米空軍が2001年12月30日の夜明け前に襲来し消し去ったからです。そして住民を虐殺しました。その中でもとりわけ結婚式を。村民が言うには、女子供は砲撃から身を守ろうとして乾いた池の方へ走っていきました。そして走りながら撃たれたのです。2時間後、飛行機と攻撃隊は去りました。国連の調査によれば、52人が殺され、うち25人が子供でした。「われわれはそれが軍事目標だと認識していた」とペンタゴンは言っています。35年前のベトナム=ミライ村で虐殺が行われたときの、ペンタゴンの最初の答えが耳に反響しています。
一般市民をターゲットにした攻撃について報道することは長い間、西洋ではジャーナリズムのタブーになってきました。怪物だと認定されたものだけがそんなことをやったのであり、「われわれ」はけっしてやらないのです。1991年の湾岸戦争の民間人死者数はひどく過小評価されました。ほとんど1年後、ロンドンの医学教育トラストによる包括的研究は、戦争中およびその直後に、民間のインフラに対する攻撃の直接的間接的結果として、20万人のイラク人が死んだと、見積もりました。その報告は完全に無視されました。今月、「Iraq Body Countイラク死者数」という米英の学者研究者の集団が、1万人もの一般市民がイラクで殺されたかもしれないと見積もりました。そのうち、バグダッド攻撃だけで2,356人の一般市民が殺されたとしています。そしてこれは非常に少なく見積もった数字の可能性があります。
アフガニスタンでも同じような大虐殺がありました。昨年5月にジョナサン・スティーレが米国爆撃による人的被害について手に入るすべての調査証拠を推定し、少なくとも2万人のアフガニスタン人が、爆撃の間接的結果、命を失ったと結論づけました。その多く、干ばつの犠牲者は、救援物資を断たれたからです。
この「隠蔽された」結果はほとんど目新しいものではありません。ニューヨークのコロンビア大学での最近の研究で、ベトナムでのエージェントオレンジ(枯葉剤)や他の除草剤の散布は、以前に見積もられていたのもの4倍の規模だったということがわかりました。エージェントオレンジはダイオキシンを含み、知りうるもっとも致命的な毒のひとつです。最初、「Operation Hades地獄作戦」と呼んでいて、その後もっと好意的な「Operation Ranch Hand農場労働者作戦」という名前に変えた作戦ですが、米国人はベトナムで、エージェントオレンジを1万回以上も散布し、この「作戦任務」で南ベトナムの森林のほとんど半分と、無数の人間の生命を破壊したのです。それは、これまでで最も陰険な、おそらく最も破壊的な大量化学兵器の使用でした。今日、ベトナムの子供たちは相変わらず様々な奇形児として生まれ、あるいは死産し、あるいは胎児のままで中絶されます。
劣化ウラン弾の使用はエージェントオレンジと同じ大災害を喚起します。1991年の第1次湾岸戦争で、米英は350トンの劣化ウランを使用しました。英国原子力局は、国際的研究を引用して、劣化ウラン50トンは、もし吸い込んだり摂取したりすれば、50万人の死者を引き起こすと言っています。犠牲者のほとんどはイラク南部の一般市民です。2000トンが最近の攻撃で使用されたと見積もられています。
『クリスチャンサイエンスモニター』紙の注目すべき1連の報告で、調査記者スコット・ピーターソンは、バグダッド路上の放射能を放出する弾丸と放射能で汚染された戦車と、そこで子供たちが何の警戒もなく遊んでいることを報告しました。少し遅れて、アラビア語で2−3の看板が現れました。「危険ーこの地域立ち入り禁止。」同時に、アフガニスタンでは、カナダに本拠地を置く「ウラン医療研究センター」が2つの調査研究を発表しました。その結果は「ショッキング」だと評されています。その報告によれば、「例外なく」「調査されたすべての被爆区域で、人々は病気です。一般国民人口の大部分がウランによる体内汚染と一致する徴候を示しています。」
イラクの非政府機関に配布された公式マップは、米英軍が都市部にクラスター爆弾を打ち込んだことを示しています。その多くが落下した衝撃では爆発しなかったのです。これらは通常子供たちが拾い上げて爆発するまでは、人目につかずに横たわっています。カブール中心部で、私は2つのすり切れた掲示板を発見しました。それは家の瓦礫や道に「米国製」不発のクラスター爆弾が含まれていることを警告するものでした。いったい誰が読むでしょうか。小さな子供が読むでしょうか?私は子供たちが都市の地雷敷設区域かもしれないところをスキップしているのを見ました、その日、ホテルのロビーでCNNに出ているトニー・ブレアを見ました。彼はイラクのバスラにいて、ひとりの子供を腕に抱きかかえていました。その学校は、彼の訪問のためにペンキを塗られ、昼食が彼のために用意されていました。しかしその都市では教育や食物、水といった基礎的なサービスが英国占領下で修羅場状態のままだったのです。
3年前のバスラで、私が撮影した数百人の子供は病気で死にかけていました。なぜならトニー・ブレアが熱狂的に実施した禁輸措置のため癌治療設備と医薬品が拒否されていたからでした。今ここで彼は、シャツの胸元をあけて、人民の人間ではなく軍隊の人間として、例の引きつった笑いを浮かべ、よちよち歩きの幼児をカメラ目線で腕に抱いていました。
私はロンドンに帰って「昼食後」という作品を読みました。ハロルド・ピンターによる『戦争』という新らしい作品集(フェイバー&フェイバー社、2003)に入っているものです。
そして午後、正装した生き物がやってきて、
死人のにおいをかぎ
そして昼食をとる
そしてほとんどすべての正装した生き物は引っ張りだす
ふくれたアボガドをほこりの中から
そしてミネストローネをまばらな骨でかき回す
そして昼食後
彼らはくつろぎ、寄りかかり
便利な頭蓋骨に赤ワインを注ぐ
[訳注:ハロルド・ピンターはイギリスの劇作家で、ロンドンのイーストエンド近くHacneyにユダヤ人の洋服屋の息子として生まれる。第2次世界大戦中には疎開し、14歳の時にロンドンに戻ってくる。ピンターはそのときの様子を「爆撃された状況はいつも頭に残っている」と述べている。1949年には兵役を拒否し、危うく投獄されそうになるが罰金で許されている。若い頃にはカフカやヘミングウェイの作品に惹かれたというピンターの最初の舞台劇は1957年の「The Room」。喜志哲雄などの翻訳で新潮社から「ハロルド・ピンター全集」が出版されている。]
[訳注:ミネストローネ《イタリア風の実だくさんのスープ》
ジョン・ピルジャーは有名なジャーナリストでドキュメンタリー映画製作者である。従軍記者であり、ZNet解説者であり、彼の文章は多くの雑誌、新聞たとえば『デイリーミラー』紙、『ガーディアン』紙、『インディペンデント』紙、『ニューステイツメン』紙、『ニューヨークタイムズ』紙、『ロサンゼルスタイムズ』紙、『ネイション』紙や、世界中の他の多くの新聞や定期刊行物に登場してきた。彼の本は『英雄』(2001年)、『隠蔽されたアジェンダ』(1998年)、『遠い声』(1994年)がある。
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