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国際理解の歩き方(続)
国際平和学会に参加して
寺島隆吉
1 はじめに
去る7月1日から5日(2002年)まで韓国のキョンギド(京畿道)スウォン(水原市)のキョンヒー大学で国際平和学会が開かれた。私は、この学会に参加するため6月29日に韓国に渡り、7月7日に帰国した。この学会に参加して、いろいろ思うところがあったので、以下に報告したい。
国際平和学会の下部組織として日本には日本平和学会があるが、日本平和学会の会員が自動的に国際平和学会の会員になるわけではない。会員は重なっている人もあるが、そうでない人も多く、会費の納入も別である。また会員には大学の研究者だけでなく、NGOの職員や平和博物館の職員もいる。
この学会は2年に1度、開かれていて、これまでにノルウェーや南アフリカ共和国など、開催地は世界中を移動している。私が国際平和学会に参加するのは今回が初めてだが、今回の参加者で目立ったのは、いわゆる発展途上国の大学院博士課程で学ぶ若者の姿であった。この学会が若手の研究者に旅費や滞在費などの奨学金を支給しているので、その援助によるものである。
もう一つ目についたのは三重大学の学生の多さである。これは国際平和学会の事務局長が初のアジア人、三重大学助教授の児玉克哉氏になったということがある。事務局の仕事を手伝うために参加したらしいが、それも手弁当の参加だから、余程の魅力を感じないと参加できないはずである。しかし聞いてみると多くの学生は「単なる観光旅行で外国に行くよりも遥かに得るものが多い」と答えていた。
以下、日時を追いながら感じたことを報告する。
2 キョンヒー大学の学生寮
前日まで記号研「教材ネットワーク」のインターネット公開をめぐるトラブル対策に追われ、旅行準備もほとんど出来ないまま朝早く家を出た。韓国への旅は、これで3度目だから、一応の予備知識はあるので、余り準備がなくても大丈夫との気持ちのゆとりもあって、大して準備をしなかったこともあった。
しかし、いざインチョン(仁川)国際空港に降り立ってみて初めて、スウォン市キュンヒー大学へのバスがどこから出ているのかを書いた書類がないことに気づき、青くなってしまった。やはり昨晩遅くまでトラブル対策のため研究室で研究室ホームページの更新に追われていて旅行準備がきちんとしていなかったことが、今になって響いている、唇を噛んだ。
確か書類には大学からの無料送迎バスが空港に来ていると書いてあったことを思い出し、とにかくスウォン市行きの空港バスが出ている場所を探すことに決めた。そして訪ね歩いた結果、やっとスウォン市行きのバスが出る場所だけは見つけることができた。だが、そこにいる係員にキュンヒー大学からのバス情報について訊ねようとしても、向こうは韓国語しか話せず全く要領を得ない。
やはり準備不足がたたったかと、夏の暑さで滴り落ちていた汗の上から、さらに冷汗が滲み出る。それでも、どこかに大学からのバスが来るかもしれない、あるいは停車しているかもしれないと思って、少しあたりをうろうろしていると、予想通り車体の横腹に「Kyung Hee University」と大きく書かれたバスがやってくるではないか!!やはり天は私を見捨てていなかった!そんな思いだった。
さてバスに乗車してから大学に到着するまでが長かった。どこの国に行っても、これまでは空港バスと言っても、せいぜい片道が1時間というのが普通だったから、大学到着までの2時間はかなり長く感じられた。これまでの空港はキンポ(金浦)国際空港だったが、それがインチョンに移ってからは、ソウルに行くのもさらに遠くなった。が、スウォンはさらに遠い。しかし、拡張された高速道路は片道4-5車線もあり、急激な発展途上にある韓国経済を私に想像させるに十分な大きさだった。
さてキュンヒー大学に到着してみて第1に驚いたのはゲイトの大きさである。巨大なギリシャ彫刻をあしらったゲイトが、視界の遥か上にそびえているような感じを与えるくらいの大きさだった。そのゲイトをバスがくぐり抜けて停車した先に、これまた巨大な7階建てのビルが見え、大学の教室&研究室のひとつかと思っていたら、それがこれから寝泊りする予定の学生寮だと言う。収容人数3000人を越える学生寮で、受付で貰った説明書では韓国一を誇る収容数だとのことで、なるほどと思わせる大きさだった。
地上1階と地下1-2階は、食堂・レストラン・床屋・本屋・コンビニなど、あらゆる種類の店舗が並び、ほとんどの買い物がここで出来るように思われた。また、この1画にはインターネットコーナーがあり、パソコンが20台近くも置いてあって誰でも無料でインターネットを楽しむことができるのも驚きだった。NHKの韓国特集番組で、韓国のインターネット(特にブロードバンド)の普及率は日本をはるかにしのぐものがあると紹介されていたが、まさにそれを裏付けるものであった。
韓国に着いたら自宅への連絡や学生への連絡で電話をかける頻度が多いことが予想されていたので、それをどうするかが行く前からの悩みの種だった。というのは、寝泊りするのは学生寮なので、部屋から外国への電話はできないし、自分の持っている携帯電話では国際通話はできない。公衆電話からでは面倒で仕方がないが、カードで電話できれば少しは便利かもしれないと思って名古屋空港で自販機からの国際電話カードを買った。しかし着いてみたら、このカードは使えず、結局は、「学生寮1階のコンビニで売っているカードがはるかに安くて便利」ということが分かって少々がっかりした。
もう一つ困ったのは髭剃り器である。いつもなら旅行する相手国の電圧を調べて、その対策をして出かけるのに、今回は十分な準備時間がなく、慌てて飛び出したので、着いてみたら電気髭剃り器が全く使えないことが分かった。というのは、韓国は最近どこでも220ボルトが普通になっていることを知らなかったからである。これまでに2度も韓国を訪れていながら、それを知らなかったのは、多分、これまでの旅行はパック旅行で、しかも全てホテル住まいだったから、変圧装置など設備が完備していて、韓国の電圧を意識しなかったからだということに思い当たった。
受付で応対してくれた韓国学生は英語が極めて堪能で、何かと親切に応対してくれて、自分のもっている変圧器で髭剃り機の充電までしてくれたが、毎日そんな親切に甘えているわけにもいかず、結局は学生寮の電気屋で変圧器を買う羽目になった。アメリカでは変圧器がすごく高かった記憶があるので、どんな値段かと不安だったが、「按ずるより生むが安し」で、なんと8500ウォン(約850円)という安さ!韓国の物価の安さを改めて認識させられた一幕でもあった。いずれにせよ、これで髭剃りについては毎日を心置きなく過ごせる。疲れたので、とにかく早く寝ることにした。
3 韓国民族村と水原華城
昨日(6/29)はキュンヒー大学の学生寮に着いたのが昼過ぎだったので、学生寮1階の食堂で昼飯を食べたのだが、例の髭剃り機を充電してくれた学生が食堂まで案内してくれた。
メニューはすべてハングル文字なので、その学生がすすめてくれた焼き飯をたべて部屋に戻ったが、昨日までの疲れが出て、部屋でごろごろしているうちに夕食になった。
部屋は2人相部屋で、机とロッカー、シャワー付きのトイレがあるだけで、あとは何もない。石鹸もコップもないので、さっそくコンビニで仕入れてきて、明日に備えた。
しかし、この学生寮は、アメリカと同じで、夏休みが始まると今まで住んでいた部屋から家財道具・勉強用具を全て引き払って一度は退室しなければならないので学生は大変である。
この大学は私立なので、このようにして夏休みには学生を追い出し、その代わりに学会その他の行事を次々と主催して、宿泊者から別の収入を得ようとしているのだろう。これが大学経営の実態なのか、考え込んでしまう。
それはともかく、学会事務局の案内では誰かと相部屋になるはずだったので、誰と相部屋になるのかを知りたくて、受付で同じ部屋番号の住人の氏名や国籍を調べてもらった。ところが、その名前が見当たらない。ということは、この部屋は自分ひとりで独占できるということか。
何だか少し安心したような、しかし誰か外国人と一緒になって新しい友人関係が生まれるかもしれないという期待が裏切られたような、複雑な気分だった。とはいえ、疲れているときは誰をも気にせず勝手な格好でごろごろしているのが一番なので、結果としては、この方が良かった。
前置きが長くなったが、そんなわけで1日目は早く寝て翌日も朝飯を食べて、またすぐにベッドに直行。というよりも、行動したくても昨日までの疲れが出て、身体が言うことを聞かないのである。そんなわけで、昼過ぎまで寝ていたら、やっと少し元気が出てきた。そこで又もや1階の食堂へ。
相変わらずハングル文字が読めないので、自分の知っている唯一の韓国料理名の「ビビンバ」を注文する。たまに違ったものが注文したければ、順番待ちをしている自分の、直前の学生のメニューが美味しそうであれば、それを指差す。これが私の当面の注文方法であった。
さて昼飯を食べたら少し元気が出てきて、2日目も部屋でごろごろ寝ているのが少しもったいなく思えてきた。そこで近くに「韓国民族村」というのがあって有名だと聞いていたので、そこでも訪ねてみようかと着替えて7階の部屋を出て、2階踊り場の受付のところまで来たら、学会終了後の観光ツアー申し込みの受付をしていた。
そこで北朝鮮との境界線である「ハンムンジョン(板門店)」を訪れるツアーに申し込むことにした。本当はもうひとつのツアー「独立記念館とナヌムの家を訪ねる旅」も一度は訪ねたいところだったのだが、同じ日に設定してあるから、どちらかを選択しなければならない。「ハンムンジョン(板門店)」はツアーでしか訪れることはできないが、「独立記念館とナヌムの家」は自力でも何とか行ける。
そう思って、ツアーの申し込みは「ハンムンジョン」を訪れるバス旅行に決めた。ところが旅行前日から台風が接近し、このツアーは中止になってしまった。しかし私としてツアーを「ハンムンジョン」にして、「独立記念館」と「ナヌムの家」の訪問を自力で行なうことに決めて、結果としては良かったと思っている。その理由についてはあとで詳しく述べる予定である。
さて、こうしてツアーの申し込みを終えて「韓国民族村」に行こうとしていた矢先に、三重大学留学センターで教えているというM先生から「私も一緒に行ってよろしいですか」との声がかかった。もともとタクシーで「民族村」まで行く予定だったから、同行することにした。30分もタクシーに乗っていたら、日本では5千円以上は取られそうだが、ここでは約7000ウォン(700円程度)で済んだ。やはり安い!
この「民族村」は日本の「江戸村」「明治村」「大正村」などを合わせたような展示構造になっているが、朝鮮古代の生活様式も分かるようになっていて、民族舞踊があったり、韓国の古式豊かな伝統的結婚式のようすも見れるようになっている。私たちが訪れた時はちょうど結婚式が行なわれる直前だったので、一部始終をたっぷりと見ることができた。民芸品も売っているし、伝統的な料理も食べることができるが、食べたいと思っていた「サムゲタン」は、残念ながら既に売り切れていた。
一通り「民族村」を見終えたので、帰りに「スウォン・ファソン(水原華城)」も寄っていくことにした。この城跡は「お城」といっても城壁しかない。この城壁を完成した直後に、築城を命じた皇帝が死んでしまったからである。もし皇帝が生きていて城も完成していたら、韓国の首都はソウルではなく今ごろはスウォンになっていたはずだという。長さ5.5kmにも及ぶ城壁と楼門は、今は「世界遺産」にも指定されているほど美しいものだというので、スウォンに来る前から一度は見たいと思っていたところであった。
三重大学M先生も行きたいというので、また一緒にタクシーに乗って「スウォン・ファソン」まで行く。到着するのに1時間近くもかかったのに、10000ウオン(1000円)弱しかかからなかった。しかし到着したら夕方の5時を過ぎていて、M先生の方は楼門を一つ二つ見たら帰りたいと言い出した。私のほうは、この城壁をめぐってゆっくり歩きたいと思っていた(だからこそ日中の暑い時を避けて夕方に訪れたつもりだった)ので、残念だったが後ろ髪を引かれる思いで城壁を後にした。
相棒がいることは楽しいこともあるが、時として逆に一人旅の方が気楽に自分の好きな行動が出来る良さもある。そんなことを感じさせる1日だった。
4 国際平和学会の開幕
今日(7/1)はいよいよ国際平和学会がスタートする。元国連事務総長のガリ氏がKeynote
Speakerのひとりとして演説するという。彼が何を語るか、楽しみである。
さて、地下1階の大食堂で昼食を兼ねてのオープニング・セレモニーが開かれた。ガリ氏も全員の拍手で登場し簡単な挨拶を行なった。しかし私には彼のスピーチよりも、国際平和学会を率いる若い事務局長・児玉氏のスピーチのほうに興味があった。
彼の演説は、世界各国から参加した参加者への歓迎と会場を提供し運営に労を尽くしてくれている大学への謝辞だけで、特に深い内容があったわけではない。が、若くして世界の学会をリードしている人物が、英語を武器として活躍している姿には、何か惹かれるものがあった。
昼食が終わると会場を移動して、いよいよ学会の開幕である。キャンパスが広いのでバスに乗って中央図書館・大ホール(Peace Hallと名づけられていた)まで移動する。中央図書館も地下1階地上3階という巨大さで、中央図書館前の広場も2本の大きな噴水が地上高く水を噴き上げている。このような壮大な景観はアメリカの大学でも数は多くない。
開会総会では、元国連事務総長のガリ氏とキュンヒー大学の学長が基調講演(Keynote Speech)を行なった。学長の演説は国連を中心として平和建設の大切さを強調したもので余り新味はなかった。ガリ氏のほうはアメリカが主導するグローバリゼーションと闘うことなしには真の平和は達成できないとするもので、私には少し驚きだった。
というのは私のイメージによるガリ氏は、国連平和維持軍を創設し、結局「国連軍」「多国籍軍」を口実としたアメリカの戦争介入に道を開いた人物として、余り良い印象を持っていなかったからである。しかし、国連にいたときは大国アメリカの意向を無視できず、したがって国連を退いたから今だからこそ本音を語ることができたのかもしれないと思い直した。
基調講演のあとの全体会(Plenary Session)では「非暴力運動」をテーマに4人の報告者が報告を行ない、質疑討論が行なわれた。その中でも私が一番に興味を引かれたのは最初に報告を行なった韓国人女性(Kim,
Jeon-Soo)のものだった。タイトルは「Overcoming Violence in the Divided Korean Society: The
Task of The Korean Women’s Peace Movement and Peace Education」である。
彼女の報告を聞いていると、戦前は日本の植民地になり、独立した後も朝鮮戦争で国土を二分されただけでなく、その後も、アメリカに後押しされた軍事独裁政権のもとで過酷な弾圧を受けてきた韓国民衆の歴史が良く理解できたし、民政大統領キム・デジュン(金大中)による「太陽政策」の元で、苦しみながら南北和解・南北統一の道を探り続けているようすがヒシヒシと伝わってきた。
彼女の報告の中でも特に心を惹かれたのは、「昨年の911事件後、アメリカが北朝鮮を『悪の枢軸』のひとつとして名指しし、その影響で、せっかく開けつつあった南北対話の道が閉ざされようとしている」という報告であった。彼女は「せっかく開けつつあった南北統一の道が、アメリカによる無思慮で一方的な宣言によって覆されようとしている事実を通じて、韓国民衆は密かな反感をアメリカ政府に抱き始めている」とも述べていた。
韓国の若者は南北が分断されている現状の下で、2-3年の徴兵と軍事訓練が義務付けられている。街のあちこちで緑の迷彩服の若者を目にすることができる。私が学会の受付で「板門店」観光ツアーの申し込みをしている時にも、ツアー・デスクのひとが「最近も南北境界線で銃撃戦があり、負傷者も出たらしい」との話を私に聞かせてくれた。これは実に不幸な事態であり、この不幸の傷口をさらに深く広くしようとするアメリカの政策に対する怒りと嘆きが上記報告から生々しく聞こえてきた。
ところで、この全体会の報告はひとり15分と決められていたにもかかわらず、この制限時間を守って報告したのは、上記の韓国人女性だけであった。あとの報告者は平気で時間制限を越えて報告し、しかも司会者は折しもの世界サッカー大会の連想から、最初に「制限時間を超えた人には、イエロ-・カードやレッド・カードを出しますから」と宣言し、会場から笑いと拍手を得ていたにも関わらず、それを止めようともしない。それで何時終わるとも知れない運営に業を煮やして退場する参加者も出始めた。
私もこれでは付き合いきれないと思い、会場を出た。記号研では「時間内にレポートを読み上げる」のを報告のマナーとしているが、この学会でも、それを実行したのは先にも述べた韓国人女性だけであった。あとのひとは予め会場にレジュメが配られただけで勝手に好きなだけ話すか、レジュメすら配らないで話す報告者もいるといった状況で、何のために司会者がいるのかと思わせる運営ぶりであった。このやり方は翌日の分科会でも基本的には変らず、この学会の弱点を浮き彫りにした。
そんなわけで夕食を兼ねたレセプションは予定を大きくずれ込んで始まった。会場には世界中から多彩な人物が集まっていて私はウズベキスタンの平和博物館館長だというひとの隣に座った。彼は自分が運営している博物館の写真を次々と見せてくれ、「日本にも招かれて何度か訪問したことがありますよ」「世界語であるエスペラントの会合で再び日本に行く予定です」と語ってくれた。こんなふうにして世界の多様な人たちと交流できるところが国際平和学会の良いところではないか。今までに参加したTESOLの学会では、こんな交流は生まれなかった。そんな思いで眠りについた。
5 平和教育分科会(PEC)への参加
学会二日目の午後からは分科会(Commission)が始まる。私は最初から平和教育分科会(Peace
Education Commission、略称PEC)に参加することに決めていたので、他の分科会には参加しなかった。ちなみに、他にどのような分科会があるかを列記すると下記のようになる。
Peace Culture
and Communications
Eastern Europe
Peace and
Ecology
Global Political
Economy
International
Human Rights
Internal
Conflicts
Nonviolence
Peace History
Peace Movements
Peace Theories
Refugees
Religion and
Peace
Security and
Disarmament
Gender and Peace
Reconciliation
Working Group on
Indigenous Peoples
Youth
この平和教育分科会では最初から「Paper」で報告する人と「Abstract」で報告する人の2種類があったが、先にも述べたように、最初から「Paper」を用意してきた人の報告は、内容的にも豊かであるだけでなく、時間配分もきちんと自分の持分を守って報告する人が多かった。
ところが「Abstract」だけを用意してきた人は、内容的にもまとまりがないだけでなく、時間が自分の持分を越えても、それに気づかず、冗長な話を続ける人が多かった。というのは、「Paper」を用意してきた人は、時間配分を考えて適当に「Paper」を割愛しながら読んでいくので、ほぼ時間枠の中で報告を終えることができるのである。
ただ、この方法の欠点は、音読を聞きながら「Paper」を目で追っていくのだが、割愛した部分が大きすぎると、どこを読んでいるのか分からなくなるという点である。記号研ではレポートを飛ばし飛ばし読んでいくのではなく、「まとまりのある部分を時間内で読む」「どこを読むかがレポート報告の良し悪しを決める」としているので、上記のような問題は起こらない。
しかし、たとえ割愛しながら読みで追いかけるのに苦労したとしても、内容が良ければ、手元に「Paper」が残っているので、あとで部屋に戻ってから読み返すこともできる。きちんとした「Paper」には最後に必ずReferencesが付いているのが普通だから、必要な文献は国に帰ってから注文もできる。しばしば「Paperを読むだけでは学会発表ではない」などと言われたりするが、それは全くの間違いである。
分科会の報告をするつもりだったのに前置きが長くなってしまったが、この分科会で私の印象に残ったのは次の二つだった。
PEACE EDUCATION THEORY、Ian M. Harris、Department
of Educational Policy and Community Studies、University of Wisconsin-Milwaukee、USA
TEACHING ENGLISH for INTER-ASIAN
UNDERSTANDING: KOREA and JAPAN、Kip Cates、Tottori University、JAPAN
前者のHarris氏の報告はノルウエーの平和学者ガルトゥングの「直接的物理的暴力」と「間接的構造的暴力」の概念に依拠しつつ、これまでの平和教育を歴史的に概観しながら今日の平和教育の到達点を非常に分かりやすく分析して見せてくれた。つまり「戦争のない状態」だけが平和なのではなく(これを「消極的平和」と言う)、戦争を生み出す根源=例えば貧困の問題を解決してこそ、真の平和すなわち「積極的平和」が得られるとするのである。
そこで、Harrisによれば現在の平和教育は大別すると次の5つに分類できると言う。括弧内は、この教育を主として主張し推進している研究者または国際機関である。
Human Rights Education (Reardon, Boulding)
Environmental Education (Bowers, Orr)
International Education (Heater, UNESCO)
Development Education (Galtung, Friere)
Conflict Resolution Education (Johnson
& Johnson, RCCP)
これはこれで説得的な理論展開だったのだが、現在のアフガニスタンやパレスチナ情勢を解明し、そのような事態を引き起こさせないための教育として「戦争とメディア」を研究し教える分野がどうしても必要ではないかと私には思われた。「現在の国際法ではどのような戦争が禁じられているのか」「戦争を通じてメディアがどのようにコントロールされていくのか」を教えなくては、戦争を起こさせない力を民衆の「生きる力」として定着させることはできないのではないか。すなわち「戦争教育」と「情報教育(メディア・リテラシー)」である。
後者のCates氏の報告は鳥取大学の学生と韓国姉妹校の学生の交流をすすめてきた自分の体験を踏まえつつ、英語教育が「国際教育」「平和教育」にどのように貢献できるかを具体的に論じたものとして非常に感銘を受けた。韓国が日本の植民地だった時代を視野に入れつつ、そのような苦く暗い時代を克服する道を、日韓相互に、どのようにしたら築いていけるのかを、カナダ人の大学教師が地道に実践し研究している姿勢が印象的だった。
しかも「ワールドカップ共同開催を機に」というお祭り的実践ではなく、彼が鳥取大学に赴任して以来、10年近くも続けられている「English Pen-Pal Program」を土台にしていることも、聞き手の心を動かす何かがあったし、彼が紹介した日韓の英語教科書の違いも私には少しく衝撃的だった。というのは韓国の教科書では天皇が降伏宣言をした当日のあるエピソードを通じて韓日和解のみちすじを探ろうとしているのに対して、日本の教科書は日韓の食事作法の違いを会話形式でとりあげているだけだったからである。
他にも、アメリカの大学院博士課程に在学中の日本人女子学生(今はドイツ人と結婚してドイツで生活しているのに、学会参加のため、はるばる韓国に来たという)が、アメリカの歴史教科書で「パール・ハーバー」がどのように記述され、それがどのように変遷しているのかを調べた報告や、京都教育大学の先生が大学院で「平和教育」の講座を開講し、どのようなカリキュラムを作っているのかなど、幾つか興味深いものがあったか、少し長くなりすぎたので、この程度で2日目の報告は止めておくことにする。
6 「ナヌムの家」の訪問記(1)
学会三日目(7/3)は学会をさぼって「ナヌムの家」を訪問することに決めた。先に述べたとおり、バス・ツアーのスケジュールの一つに「ナヌムの家」と「独立記念館」を訪問する日程があったのだが、「板門店ツアー」と重なっていたから、こちらの方は自力で訪問することにしたのだった。
しかし、いわゆる「従軍慰安婦」の人たちが共同生活をしている「ナヌムの家」は、予め持参した『ナヌムの家のハルモニたち』(清同社)という本に載っている住所だけでは、どこにあるのか全く分からない。観光ツアー会社の人に聞いても良く知らないと言うし、学会受付で働いている韓国人学生も、行ったことがないから全く分からないという。
そうこうしているうちに例の「韓国民族村」を一緒に訪ねた三重大学留学センターの先生が、「反差別国際理解教育運動三重県支部のひとたちが独自の小型バスを仕立ててナヌムの家を訪問する計画があるから、それに便乗可能か訊ねてみよう」と言ってくれた。そのニュースに小躍りしたのも束の間、定員オーバーで便乗はできないとの返事が戻ってきた。
訪問するために持参した『ナヌムの家のハルモニたち』には、ソウルの日本大使館の前でハルモニたちが毎週水曜日に抗議集会をしていることが書かれていたから、そこに行けばハルモニ(韓国語で「お婆さん」の意)たちに会えるし、頼めば「ナヌムの家」にも連れて行ってくれるかもしれない。しかし、抗議集会は今も継続されているのだろうか。
途方にくれていると、受付の韓国人学生のひとりがナヌムの家の電話番号が分かったから、試しに電話をしてみたらと、番号を教えてくれた。韓国語が全く分からないと言うと、先に電話をしてみてくれたらしく、日本人のボランティアが来ているそうだから大丈夫だと言う。そこで早速、電話をかけてみたら、「明日水曜日も抗議集会はあるし、帰りのバスに便乗もできる」と言う。なんという幸運!!
そんなわけで今日はとにかくソウルの日本大使館まで行かなくてはならない。地下鉄で行けばスウォンから直通で大使館近くまで行けることは、観光ガイドブックで分かっているのだが、駅名標識がすべてハングル文字だから、せめて文字が読めるようにならないと、目的地までたどり着けない恐れがある。そこで付け焼刃の韓国語学習をしたのだが、未だに暗号解読のようにしてしか文字が読めない。
韓国語は文法的には日本語と全く同じだし、ハングル文字もローマ字と同じで、母音字と子音字の組み合わせで出来ているということは、理論的には分かっているのだが、文字表を見ながら組み合わせどおり発音するのは、そんなに簡単な作業ではない。ましてハングル文字を全て覚えて、文字表との照合なしで、駅名を判別するのは、不可能に近い。抗議集会の時刻までにソウルに着けるだろうか。
そんな不安を抱えたまま大学でタクシーを拾ってスウォン駅まで行く。ところが地下鉄がどこにあるか分からない。英語で話し掛けてみても誰もが分からないという顔をして逃げ出してしまう。キュンヒー大学の学生は「今どきの韓国の若者は英語ができるから心配ないですよ」と言うのだが、私の不安どおり話し掛けた誰もが白人を見た日本人のように逃げ出してしまうのだった。
そこでふと思いついたのがガイドブックの地下鉄マークを見せて「どこにあるか」という身振りをするという方法だった。早速この方法を試してみたら、意味が分かったらしく、その若い女性はきょろきょろと辺りを探している。日頃その駅を利用しているであれば、地下鉄がどこにあるかぐらいは知っていそうなものだが不審に思っていると、彼女は私の手を引っ張って近くの階段を上がっていった。なんと地下鉄の乗り場が2階にあったのである。
実を言うと、これまでにソウルには2回も行っているのに地下鉄に乗るのは今回が初めてであった。だから切符の買い方も知らないし、改札をどういうふうに通り抜けるのかも知らない。ガイドブックには説明らしきものが書いてあるのだが、なんとも要領を得ないからである。しかし「按ずるよりも産むが安し」で今回も何とか電車に乗り込むことはできた。そしたら驚いたことに駅名には横文字も付けられているではないか!不安度が一気に下降した。
日本では街を歩いていても標識には必ず横文字も付けられている。ところがスウォンの街のどこを歩いていても横文字はおろか漢字すらもない。最近まで日本の音楽や映画など、ほとんどの日本文化が輸入禁止だった韓国だから、「日本の占領時代を思い起こさせるものは一切、残さない」という決意がそうさせているのだろうか。漢字の一掃というのも、そのような政策の一環なのだろうか。とにかく、そんなことを考えていたから駅名も不安だったのである。
しかし、それでも駅名のハングル文字くらいは何とか読めるようになりたい。そう思って電車の中でも「ハングル文字の組み合わせ表」を見ながら、駅名をブツブツ発音したり、日常会話の文字列を発音練習したりしていると、隣のおじさんが物珍しそうに私の顔を見ていたが、そのうちに「その発音はちがう」などと発音指導してくれるようになった。そのおじさんは途中で下車したが、「カムサハムニダ」とお礼を言ったら嬉しそうに去っていった。
7 「ナヌムの家」の訪問記(2)
そうこうしているうちにソウルに着いた。地下鉄で1時間くらいの距離だった。トラブルがあったら困るので、抗議集会の始まる12時までに着けるよう朝早く出たつもりだったのに、日本大使館に一番近い駅であるチョングク(鐘閣)に着いたら既に11時半近くだった。
慌てて電車を降り、なるべく日本大使館に近いと思われる出口改札を探してタクシーを拾った。英語で「日本大使館」と言ったら通じたので、これまた一安心。というのはスウォンのタクシー運転手は英語が全く通じなかったからだ。たとえば「水原華城」に行く時はハングル文字で書いてもらうか「スウォンファソン」と言わなければならなかったのである。
それはともかく、大使館前に着くと誰もいなかったので、少し待ってみることにした。すると徐々に人が集まり始めたがハルモニたちの姿がなく、集まってくるのは若者と老人男性のみ。若者たちはゼッケンを首にかけたり、横断幕を取り出したりしている。中にはプラカードを持ち出す男性もいる。背もたれのない、小さな椅子を並べて準備らしきものも整った。
そうこうしているうちに車が着き、そこからハルモニたちが降りてきた。最近はハルモニたちも老齢のため体力が落ち、抗議集会も椅子に座って行なわれるようになったという。先ほど並べていた椅子はその椅子だったのだ。それにしても大学生くらいの若者が多いのには驚いた。私は「従軍慰安婦」の問題に興味があるのは、それ相当の年齢の人だけだろうと勝手に想像していたからである。
一番の年長老人がビラを配っているのを貰ったら日本語で書いてあったので、日本語で話し掛けたら、向こうも私が日本人であることにはじめて気づいた様子であった。ビラを読むと「第2次大戦中にアメリカが日系アメリカ人を強制収容所にいれたことに対しては、政府は正式に謝罪し、個人に対する補償金も出しているのに、日本政府はなぜ同じことができないのか」と書かれていた。
こんな老人が日系アメリカ人について調べて知っていることに驚いたが、考えてみれば、この運動に携わっている人ならば当然のことかもしれない。しかし、それに引き換え、肝心の日本人で第2次大戦中に日系アメリカ人が受けた残酷な仕打ちについて知っているものはどれ位いるのだろうか。少なくとも岐阜大学の学生は私が「国際理解教育」の授業で紹介するまでは聞いたこともなかったと言っている。
またビラの裏面には「元の新羅の国、伽耶の遺跡を調べたところ、天皇のルーツを示す多くの遺物が見つかった。これを発掘調査したのは筑波大学など日本の学者であり、その記念碑式典には、日本から多くの研究者の参加があった。」と書かれていた。古事記や日本書紀などの天皇神話が伽耶に伝わる古代神話に酷似していることは以前から知っていたが、「慰安婦問題」の集会でも問題になっているのだと初めて知った。
さて抗議集会は12時から始まり30分ほど続いた。若者が次々とマイクを握り、何かを訴えているのだが、何を訴えているのかが分からない自分が恨めしい。若者といっても、ほとんどが女性で、あとで昼食を一緒にしたときに例の老人に聞いてみると、ソウル市内の女子大学生で、韓国でも指折りの名門大学だそうであった。そんな大学生にまで「慰安婦問題」が広がっていることを日本のどれだけの人(とりわけ為政者)が知っているのだろうか。
次々と挨拶やシュプレヒコールが繰り返されて、最後に、座っていたハルモニのひとりが皆の前に立った。彼女は参加者に強い調子でスピーチをして、そして今度は向きを変え、日本大使館の方に拳を振り上げて何かを叫んだ。こうして、彼女のスピーチを最後に、この日の集会が終わり、参加者は近くの食堂で昼食をとった。そのとき彼女が何を叫んでいるのか分からなかったが、「ナヌムの家」に着いてから、在日朝鮮人のボランティア(女性)が解説してくれた。
彼女によれば、あのハルモニは、このナヌムの家には住んではいないが、水曜デモと抗議集会には必ず参加している元従軍慰安婦で、最後に日本大使館に向かって叫んだのは、「日本政府が正式な謝罪をして個人に対する補償金を出さない限りは絶対に死なない」という内容だったそうである。それにしても1982年に教科書問題が起きて以来、阪神大震災のときを除き一度も休んだことがないという抗議集会の持続力に(ギネスブックにも載るくらいだと言う)彼女らの怒りの強さを、まざまざと知ることが出来た。
また先にも述べたように、抗議集会の参加者の多くが若者であり、しかも名門大学の学生も少なからず含まれていることを、昼食をともにしながら話を聞いているうちに、知ることが出来た。また、この水曜デモと抗議集会のことはテレビでも放映され、多くの人が知っているはずだと言う。だとすると、岐阜大学留学センター主催のサマースクールに毎年かなりの韓国学生が参加しているが、このような事実を知らない日本の学生との心の溝は、どうすれば埋まるのだろうか。そんな複雑な思いが胸をよぎった。
8 「ナヌムの家」の訪問記(3)
昼食をすませてから、若者が運転する小型乗用車で、いよいよ「ナヌムの家」に向かうことになった。車の中にはハルモニが一人しか乗っていなかったので、他のハルモニたちはどうしたのかと訊ねると、ソウルに用事があるから今は帰らないのだという。
後部座席のハルモニの横には先ほどの抗議集会に参加した女子学生が座っていた。どこへいくのかと思っていたら、ボランティアとして「ナヌムの家」の運営を手伝っているのだという。あとで知ったことだが、彼女は、この1ヶ月、「ナヌムの家」で住み込みでハルモニたちの世話をしているらしい。
この小型車を運転している若者、ボランティアの女子学生、デモと抗議集会の参加者など、韓国の若者たちに「慰安婦問題」への関心が確実に根付き・広がり始めていることを、この事実が示しているように思われた。それと比べて日本の若者の能天気さはどうだ。それ以前に日本の為政者の能天気さはどうだ。
そんなことを考えていると、車はソウル市内を出て,どんどん田舎の方に入っていく。時々、運転している若者が(チョウ君というらしい)片言の日本語で話し掛けてくるので、どこで勉強したのかと聞くと、「ナヌムの家」で働くようになってから勉強し始めたのだという。最近は日本人の訪問客も少しずつだが増えているらしい。
1時間ほど車を走らせて、やっと「ナヌムの家」に着いた。本当の片田舎だった。ここまで自力で来るのは不可能に近い。今日の抗議集会に参加して本当に良かったという思いを噛みしめた。しかし、こんな田舎に、こんな建物が、と思わせるようなモダンなコンクリート壁の建造物が車から見えた。入り口の門壁と「日本軍“慰安婦”歴史館」だった。
最初に「ナヌムの家」がスタートした時は、ソウル市内の空家を借りていたが、様々な問題が派生し、幾つかの場所を移転しているうちに現在の場所に落ち着いたことは、『ナヌムの家のハルモニたち』という本に詳しい。今は、この地にハルモニたちの居住空間だけでなく「事務所」「研修館」「歴史館」までもが完備され、「歴史館」の中だけでなく庭にも支援する芸術家の様々な美術品が展示されている。
建物に到着し車から降りようとすると、軍事用の迷彩服を着た若者がたくさん作業をしていた。あとでカン・ソンミ(姜成美)に訊ねると、彼らも「ナヌムの家」の草刈その他の仕事をするため、ボランティアで来ているのだと言う。こんなふうにして、韓国の若者に、日本による残虐行為が確実に定着していくのに、「知らないのは日本の若者・為政者ばかりなり。」そういう思いが、また頭をよぎった。
カンさんは日本からボランティア活動で来ている若い女性で、短大を卒業したあと、自分のルーツである韓国語を勉強したくなって、昨年1年間はソウルの学校で韓国語を勉強したのだと言う。関西に住んでいるのだが、在日2世である両親は全く韓国語を話せないが、在日1世である祖父母から韓国語を聞くことはあるとも語っていた。日系アメリカ人がたどったと同じ軌跡が、そこにあるように思えた。
アメリカでも、英語の話せない日系1世が受けた差別から逃れようと、日系2世は日本語を意識的に使わない生活をアメリカで選んだ。が、日系3世は、そんな両親の家庭で育ちながらも、日本語を学びたいという気持ちが育ち始めている。私がアメリカの大学で日本語を教えていたときも、そんな日系3世が私のクラス(初級・中級)に必ず何人かはいた。彼らは家庭で日本語を学ぶ機会がなかったからこそ学校で日本語を学びたくなったのである。
それはともかく、カンさんは韓国で母国語を学んだ後、この「ナヌムの家」にボランティアで働きたいと思うようになった。その詳しい心の遍歴を聞きそこなったが、彼女の心に新しい意識が芽生え始めていることだけは間違いない。(ちなみに、彼女にとって韓国語は母語ではない。彼女にとって母親から学び取った母語は、あくまで日本語である。「母語」と「母国語」の違いは小さいようで実は大きい。)
さて「ナヌムの家」に着き、彼女と話しているうちに、「日本からの訪問客が到着したから一緒に歴史館を見学しませんか」と言うので、バスで到着した一団のところに行くと、何と国際平和学会に参加していた例の三重県のグループであった。そこで早速「研修館」で「ナヌムの家」の概略説明を聞き、最近(1997年12月)亡くなられたばかりのカン・ドクキョン(姜徳景)さんの記録ビデオを見て、いよいよ「歴史館」の見学となった。
最近は徐々に「歴史館」を見学に来る日本人が増えているので通訳なしには応対できないそうである。一時期、日本人で韓国語が出来る若い女性がボランティアで来ていたことがあるそうだが、カンさんが来るまでは、それも途絶えていたらしい。「ナヌムの家」のホームページ日本語版も、したがって彼女が来るまでは、更新できずに放置されていたようだ。最近は「小学校からの英語」が叫ばれているが、果たして今求められているのは英語さえ出来ればよい人材なのか。
そんな思いをいだきながら「歴史館」の見学に入った。展示は全てハングル文字で、時には音声付の映像が流れてくる部屋もあったが、それも韓国語である。展示されている資料は日本軍が残したものだから、もちろん日本人は資料を読めるのだが、展示説明に込められている韓国人の怒りは、したがって日本人には分からない。だからこそカンさんのような通訳ボランティアが必要になっているのだろう。以下、彼女の説明に従って「歴史館」を簡単に紹介する。
9 「ナヌムの家」の訪問記(4)
まず歴史を概略すると次のようになる。
1992年にソウル市内で仏教団体が中心になって出発させた「ナヌムの家」は1995年に現在地に永久入居。そして1998年に「歴史館」開館。
この「歴史館」は、第一展示場「証言の場」、第二展示場「体験の場」、第三展示場「記録の場」、第四展示場「告発の場」、第五展示場「整理と誓い」、第六展示場「野外広場」の六つで構成されている。
小さな資料館の割には極めて多くの資料が展示されており、展示のしかたも非常に工夫されていて見る人の心を打つものがあった。
たとえば「証言の場」では、これまでの調査に基づいてアジア全域のどこに幾つの「慰安所」があったかの詳細なカラー地図が展示されていたり、「体験の場」では「慰安所」が再現されていて見学者が中に入って当時の雰囲気を実感できるようになっていた。
また「記録の場」では、ほのかに光がそそぎ香の香りが立ち込めている中に太いろうそくの火が幾つもゆらめき、壁には大きな肖像画が懸けられていた。芸術的雰囲気に満ちていると同時に、何とも厳粛な空間であった。これは「ハン(恨み)」を抱いたまま異国の地で死を迎えた多くの魂の、鎮魂の場なのである。
「告発の場」では、ハルモニたちが描いた多くの絵画や他の作品が展示されていたり、亡くなったカン・トクキョン(姜徳景)の遺品が陳列されていた。この場が「告発の場」と命名されたのは、恐らく彼女の数々の絵「奪われた純潔」「我々に謝罪せよ」「責任者を処罰せよ」などの絵が、見るものの胸に鋭く突き刺さってくるからであろう。
「整理と誓い」の場では、ハルモニたちの手形が壁に展示され、それに自分の手形を押し付けて彼女らの息遣いを直に実感できるようになっていた。出口近くには署名台が置かれ、ささやかな記念品の売店もあった。私はそこでキム・ハクスン(金順徳)さんが描いた絵をもとにしたTシャツを買った。連行された当時のチョゴリ姿の少女が描かれていて、失われた青春の思いが痛く感じられたからである。
「歴史館」を出ると広場があり、そこが第六展示場の「野外広場」だった。そこには韓国の著名な芸術家から寄贈された様々な作品・造形物が展示され、韓国におけるこの運動の広がりを、見るものに強く印象付けていた。
さて、こうして1時間弱で「研修館」「歴史館」を見終わったところで、三重県のグループはハルモニたちが居住している実際の場を見ずに帰っていった。案内してくれたカンさんは「せっかく来たのだからハルモニたちと話していきませんか」というので、彼女たちの住んでいる建物に入れてもらった。
家の中はハルモニたちが寝ている部屋とテレビなどが共同で見れる居間、そして台所兼食堂から成っていた。居間に入ると書籍『ナヌムの家のハルモニたち』で顔なじみのキム・ハクスンさんたちがいた。そこで上記の本を見せていろいろ話をうかがった。
キムさんにとっては日本でそんな本が出ていることを知らなかったらしく、本の中に出てくる自分の絵や写真を見つけるたびに、自由ではない日本語で嬉しそうに指差し解説するのだった。そこで買ってきたばかりのTシャツを見せると、「これは少女時代の私だ」と嬉しそうに、かつ悲しそうに言う。
彼女にとってはTシャツを買ってもらえるのは嬉しいが、絵の中に描かれている現実は出来れば忘れたい記憶なのである。また、その隣には日本語が全く分からずに悲しげに口を閉ざしているハルモニもいて、「ナヌムの家」の現実を私に教えてくれる。ここには最近になって中国などから移住してきた「元慰安婦」のひともいるのだった。
この運動と調査が進むにつれて、東南アジアで置き去りにされた沢山の「元慰安婦」がいることが分かってきて、その人たちに援助の手を差し伸べようと、希望者には「ナヌムの家」への移住を勧めているという。しかし彼女らは日本語どころか韓国語すら忘れてしまって、この「ナヌムの家」においてすら、心を通わせる道を奪われてしまっている。
さて、こうして話しているうちに夕方も近くなり、帰る道筋すら危うくなるので、「そろそろ帰ります」と言うと、「もう夕食の時刻だからハルモニたちと一緒に食事をしていったらどうですか」と言う。そんな好意に甘えてよいのかと一瞬、迷ったが、ハルモニたちの生活をもっと知るのに良い機会だと考え、食べてから帰ることにした。
食事は至って簡素なものだったが私には美味しかった。ひとつのお盆のあちこちに窪みが付けてあり、その各々にご飯やおかずを盛り付けて食べるようになっているのだが、韓国の普通の庶民が日常的に食べている食事の典型がそこにあるように思われた。「お代わりをどうぞ」というので、ご飯のお代わりまでもいただいてしまった。
こうして食事が終わったのは良いけれど、問題は帰りの道筋である。当初はタクシーで最寄のバス停まで行き、そこからソウル経由でスウォンに帰ることを考えていた。そうすれば行きと同じ道をたどることに何とか大学の学生寮にまでたどり着くことが出来る。その旨をカンさんに言うと意外な返事が返ってきた。
というのはソウルまで戻らなくても直接にスウォンに高速バスがあるというのである。しかも「ナヌムの家」の職員が久しぶりにクワンジュ(広州)の市内で食事をする予定だから、そのバス停まで車で送ってあげると言う。そこで早速その御好意に甘えることにした。この「ナヌムの家」の職員の心の暖かさを改めて実感したし、そのような人たちだからこそ、このような施設に働いているのだとも思った。
こうしてバス停で待つこと1時間弱。ようやく高速バスが来た。帰りのバスの中で「三重県のグループのバスに便乗できなくて本当に良かった」という思いを噛みしめていた。なぜなら、あのバスに便乗を許されていたら、「水曜デモ・集会」に参加することもなかったし、「ナヌムの家」のハルモニたちとゆっくり話をし、食事を共にする機会もなかったと思うからである。まさに「災い転じて福」である。これが「一人旅」の良さではなかろうか。
10 「独立記念館」の訪問記(1)
学会四日目(7/4)は「独立記念館」の訪問である。この記念館については早乙女勝元『柳寛順(ユ・ガンスン)の青い空』(草の根出版会)という本で知っていたので、韓国に行ったら一度は必ず訪ねてみたいと思っていたところである。
ところで柳寛順(ユ・ガンスン)は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と言われている人で、日本が朝鮮を植民地支配していたとき、1919年(大正8年)の「三・一独立運動」を煽動したとして捕らえられ、ソウルの刑務所で獄死した少女である。享年16歳だった。
彼女は、1909年(明治42年)に朝鮮統監府初代総監・伊藤博文を暗殺したアン・ジュンクン(安重根)と共に、韓国では「独立運動の英雄」とされている人物である。彼は日本の視点からすれば、いわゆる「テロリスト」だが、韓国人にとっては英雄なのである。
私が初めて韓国を訪れた時、ナムサン(南山)公園にあるアン・ジュンクン記念館を訪ねているので、今度は彼女の生家に近い独立記念館を訪ねてみたいと思ったわけである。ソウル市内には他にも、「三・一独立宣言」が読み上げられた「パゴダ公園」もある。まだ訪れていない人には、ぜひ勧めたい場所である。
それはともかく、昨日は「ナヌムの家」を訪ねたので今日は「独立記念館」を訪ねようと思ったのだが、問題は行き方である。昨日は地下鉄で行ったが、今日は超特急列車「セマウル号」で行く計画なのだが、韓国語が分からない自分には、目的地まで間違わずにいけるか自信がないからである。
昨日も何とかなったので今日も何とかなるだろうと、とにかくスウォン駅まで行った。駅の改札で「テジョン(大田)」「セマウル」と言ったら通じたらしく、「セマウル号」の座席指定券をくれた。韓国には超特急列車「セマウル号」のほかに特急列車「ムグンファ号」、急行列車「トンイル号」があるが、鈍行列車も含めて原則として全てが座席指定である。
とにかく現地に早く着いて見学時間を少しでも多くしようと思って超特急列車に乗ることにしたのである。また韓国の「超特急列車」というものがどんなものかを知りたいという気持ちもあった。しかし到着した汽車を見ると、「超」が付いているわりには、外観も速度も日本の急行・特急に当たる感じで、日本の「新幹線」のイメージから遠かった。
さて座席に座って横を見ると、隣の若者はきちんとしたスーツを着こなし、ノート型パソコンでなにやら仕事をしている。ふと見るとパソコン画面には日本語の文字が次々と打たれている。しかし彼がしきりに参照している本はハングル文字で一杯。日本人か韓国人か一瞬迷ったが、いずれにしても日本語が通じるはずと思って話し掛けた。
そこで分かったことは、彼はかって三重県の四日市市で6カ月の企業研修を受けて、現在はソウル市内で働いている技術者で、今から出張でキョンジュ市(慶州)まで行くのだと言う。彼が「どこに行くのか」と訊ねるので、「独立記念館を訪れるためにテジョンへ行くところだ」と答えると、物好きな日本人もいるものだという顔をしながら「独立記念館だったらチョンアム(天安)の方が近いですよ」と言う。
チョンアムだったら「セマウル号」では次の停車駅ではないか。慌ててガイドブック『個人旅行・韓国』を取り出して調べてみると、なるほど確かに「天安総合バスターミナル34・35番、独立記念館で下車、徒歩1分」と老眼では見辛いほど小さな文字で書いてある。ガイドブックでは「テジョン近郊の主要スポット」のページに紹介してあったから、てっきりテジョンで下車すればよいのだと思い込んでいたのである。
ちなみに、別のガイドブック『地球の歩き方・韓国』は、『個人旅行・韓国』よりも遥かに分厚く、しかも自分の足で地道に旅をする人のためのガイドブックであるはずなのに、「独立記念館」のことは1行も出ていない。日本人が訪れるはずのない場所だと思われているのであろう。しかし、こんな状態では、日本人と韓国人の歴史認識における大きな溝は永遠に埋まらないであろう。
それはともかく、彼のおかげで、1時間でテジョンに着き、そこから「独立記念館」へタクシーで行く予定が、30分も短縮された。彼と話していなかったらテジョンで真っ青になっていなければならなかっただろう。そんなこんなで彼にお礼を言っているうちに汽車はあっという間にチョンアムに着いた。彼の写真をデジカメに収め、帰国後にメールで送る約束をして汽車を降りた。さあ、いよいよ「独立記念館」だ。
11 「独立記念館」の訪問記(2)
チョンアム駅でタクシーに乗り「独立記念館」に向かう。ところが、これが遠い。1時間近くタクシーに乗っていて、やっと「独立記念館」に着いた。しかし既に述べたように料金は驚くほど安い。
タクシーを降りて「記念館」の敷地に入って「あっ」と息をのんだ。タクシーを降りたところからは、木立に囲まれてよく見えなかった「記念館」の全景が、敷地に入った途端、目に飛び込んできたからである。
遥か向こうに、高さ50メートルもの「民族記念塔」がそびえ立ち、更にその遥か向こうに巨大な「民族の家」大ホールが見える。眼前には眼を疑うような広大な空間が広がっていた。こんな広大な博物館は私の見た限りアメリカにも例がない。
これにようやく匹敵するのがワシントンDCのスミソニアン博物館群であろうか。しかし、この博物館群が並び立つ広大なモールも、博物館のためだけにあるのではなく、ホワイトハウスなど政府関係の建造物によって囲まれているのだから、「独立記念館」とは資金面でも構造面でも明らかな違いがある。
「独立記念館」は敷地面積は400万平方メートルにも及び、そこに75棟の施設があり、その中には食堂・郵便局・銀行・交番・消防署まであって、大ホール前の広場には約10万人を収容できると言う。しかも、この広大な敷地と建物の全てが民間の募金によって設立・整備されたというから、韓国人の怒りと熱情の強さを知ることが出来る。
というのは、この記念館は、日本の教科書における歴史の歪曲問題を契機に募金の呼びかけがなされ、その合計金額は500億ウォン(当時の日本円で100億円近く)にも達したからである(1982年)。そして1987年8月15日「光復節」の日に全ての工事を完了し開館に至ったという。韓国人にとっては、日本「降伏」の日こそ、逆に「光復」の日、すなわち「光が復(もど)る」日だったのである。
それはともかく、真夏のぎらぎらする日射の中を、まず「民族の塔」まで歩く。たいていの人は車か観光バスで「独立記念館」を訪れるから、いきなり「民族の塔」近くの駐車場から見学をスタートさせるのだが、私の場合は全くの入り口からスタートするので、まず「民族の塔」まで行き着くのに全身から汗がふき出してくる。先にも述べたように、高さ50メートルもの見事な白亜の塔である。前面には韓国の国花ムグンファ(無窮花=むくげ)が美しくあしらわれている。
「民族の塔」の遥か向こうに建っているのは「民族の家」大ホールだが、既に述べたように、これまた想像を絶するばかりの大きさで、ソウルにあるキョンボックン(景福宮)の勤政殿さえ足元にも及ばない。そこに辿り着く前に「民族(キョーレ)の大広場」があり、その左右に大きな「白蓮池」が広がり、悠々と鯉が泳いでいた。実に雄大な眺めである。しかし、とにかく暑い。大ホールに着いたら汗だくであった。
大ホールの正面フロアには、これまた高さ15メートルにも及ぶ男女の群像が天を指差している。「不屈の韓国人の像」である。ワシントンDCにおける「リンカーン記念堂」、すなわち、ホール入り口に何本もの巨大な脊柱があり、その後ろのフロアにリンカーン像があるわけだが、その像の代わりに「不屈の韓国人の像」を置いたような構造であった。フロアでは、「ユ・ガンスン(柳寛順)」の特別展が開かれていた。今でも彼女は韓国三一独立運動の英雄の英雄なのである。
その展示を見ていると、どこからか日本語が聞こえてくる。私が「記念館」の切符売り場をくぐった時は、こんな真夏の平日に誰も訪れるものがないものと見え、辺りに人影がほとんど見えなかったから不思議に思って、その方向に視線を向けると、男性3人がガイドらしい女性の説明を熱心に聞いている。「これはしめた!一緒に参加させてもらおう」とその旨を申し出ると「いいですよ」という声が返ってきた。訊ねると「大阪の私学高校の教師で、修学旅行の下見だ」という。
こんな所を修学旅行の場所として選ぶ高校もあるのだと思って感心してしまった。サッカーのワールドカップを契機に韓国に対する関心は確実に高くなっているが、修学旅行の場所として韓国を選ぶにしても、せいぜいがソウルの市内観光か、姉妹校との交流にとどまっている。「ナヌムの家」や「独立記念館」を選ぶ高校は例外中の例外ではなかろうか。「管理職もそれでよくOKしましたね」と言うと、「うちの学校は民主的に運営されていますから」という返事だった。
さてガイドさんは「修学旅行の日程では展示館の全てを見ることは無理でしょうから、第3-5展示館だけをご案内します」と言って歩き出した。後で節を改めて紹介するように、この「記念館」は全部で七つの展示館と円形劇場を持っているので、それを全て丁寧に見て回っているとたっぷり1日はかかる。だから「記念館」以外の見学場所・交流場所も日程に入っているような修学旅行では、独立運動が中心になっている第3-5展示館に見学が限定されるのは当然であろう。
展示館の説明は時には日本語が加えられていることもあるが、基本的には全てハングル文字だからガイドさんの日本語による説明抜きには分からないことも多い。その意味では遇然に修学旅行の下見にぶつかったのは、千歳一遇の好機だった。しかし他方、単なる下見ということもあって、教師たちも丁寧に見るわけではなく、おおよその雰囲気さえ掴めばよいといった感じで帰っていった。彼らに「この後どこへ行くのか」と聞くと、次は「世界遺産」に指定されているスウォンだという。
スウォンから来た人とスウォンに行こうとする人たち。一瞬、「彼らの車に便乗すれば何不自由なくスウォンに帰れるも知れない」という考えが浮かんだが、私にとってはそれよりも「記念館」をきちんと回ることの方が大切だった。そこで、「もう少しゆっくり回りたいから」と言って彼らと別れた。時計を見ると既に昼近くだった。そこで「記念館」内部の「3・1広場」地下にある食堂で昼食を済ませてから、ゆっくり展示館の全てを巡ることにした。以下、節を改めて、その詳細を語ることにする。
12 「独立記念館」の訪問記(3)
さて「独立記念館」の展示構成は概略、次のようになっている。
第1展示館:民族伝統館(1876年の開港以前まで)
第2展示館:近代民族運動館(1910年の国権喪失まで)
第3展示館:日帝侵略館
第4展示館:三・一独立運動館
第5展示館:独立戦争館(光復軍、義烈闘争)
第6展示館:臨時政府館(在外同胞の闘い)
第7展示館:大韓民国館(政府樹立、南北分断の悲劇)
円形劇場:360度の円形映画
野外展示場:彫刻、記念碑、統一念願の塔
そこで早速、第1展示館「民族伝統館」から見ていったのだが、各展示館はそれぞれに興味ある展示を持ち、その全てを見ることは不可能だし、私が見たものの全てを紹介することは紙面の関係で出来ない。で、私の眼を引いた1-2のみを以下に記すことにする。
第1展示館は近代以前の朝鮮民族の伝統文化や豊臣秀吉など数多くの侵略軍と戦った歴史が紹介されている。特に面白かったのは皇帝「世宗」が発明したとされるハングル文字の成立過程と秀吉の水軍を打ち破った亀甲船の巨大な模型(2分の1)だった。
「カタカナ」と「ひらがな」と「漢字」という3種類の文字体系を持つ日本語と比べて、ハングル文字だけで全てが表記できるハングルは、やはり偉大な発明であろう。それに比べて、未だにアルファベットを持たない中国語は、民衆にとって非常に習得困難な言語の一つだろう。
かって、アメリカ先住民のひとつ「チェロキー族」の保留地を訪れたとき、文字をもたないとされている彼らが先住民の中での唯一、文字を持ち新聞も発行していたこと、その音韻構造が「母音」「子音」の組み合わせからなり日本語や朝鮮語と同じことを知って驚愕したことがあったが、見学しながらそのことを思い出した。
また韓国人にとっては、秀吉の朝鮮出兵を阻止し打ち破ったイ・スンシン(李舜臣)は、やはり英雄中の英雄なのである。ソウル中心部「景福宮(キョンボックン)」から真っ直ぐ南に伸びる大通り「世宗大路」に立っているイ・スンシン将軍の巨大な立像が、そのことを良く物語っている。植民地時代の暗く長い歴史を考えれば当然のことであろう。
第2展示館「近代民族運動館」では、日清戦争・日露戦争後に強まった日本の侵略に対して武器を取って戦う義兵部隊のミニチュアが眼を引いた。1907年、日本によって大韓帝国軍が強制的に解散させられたのに抗して全国で義兵部隊が蜂起し、1908年11月にはソウル東大門12キロ地点まで迫った。この壮大なミニチュアは当時の激戦の様子を生々しく再現していた。
1945年に日本がアジア太平洋戦争に敗北し、軍隊の解散と平和憲法の受諾を強制させられたわけだが、上記の韓国の歴史からすると、日本の平和憲法を起草したアメリカの意図は、高邁な理想に基づくものではなく、日本の抵抗力を根こそぎ奪おうとするものであったことが分かる。(同じようにアメリカは、パナマ運河の実質的運営権を維持するため、麻薬を口実にノリエガ将軍を逮捕しパナマの軍隊を解散させた。)
平和憲法を起草したアメリカの意図が高邁な理想に基づくものでなかったことは、朝鮮戦争直前に戦犯を釈放して旧体制を復活し、朝鮮戦争直後に「自衛隊」の前身「警察予備隊」を復活させているし、新憲法や農地改革に携わった進歩的アメリカ人の多くが帰国後に「レッドパージ(赤狩り)」で公職追放の憂き目に会っているからである。しかし、アメリカの意図に反して、強制させられたはずの日本人が新憲法の理念を強固に保持し続けていることは歴史の皮肉である。<1>
さて第3展示館「日本侵略館」では、日本が朝鮮を植民地化していた当時の様々な資料が展示されていて身のすくむ思いがするが、中で最も強烈なのは「拷問体験の場」であろう。「体験の場」といっても実際は幅20センチほどの細長い隙間から当時の拷問の様子を覗き見るようになっているのだが、この方が開け放たれた空間の中で拷問の蝋人形を見るよりも当時の雰囲気を伝えるのではないかと思えた。それほど蝋人形は生々しく生きて動いていた。
拷問は様々な方法で行なわれ、その中の典型的な方法で5つのものを5つの仕切られた場面で再現しているのだが、その様子を文字で再現するのは難しい。ぜひ自分の眼で確かめて欲しいと思う。先に案内してくれたガイドさんの話では、この一つ一つが実際に体験した人の証言に基づいて再現されたものであり決して捏造でもないし誇張されたものではないとのことであった。その証拠として証言者の名前が各場面に添えられていた。
私自身は授業でピノチェト将軍下のチリにおける拷問やインドネシア支配下の東ティモールにおける拷問・虐殺のドキュメンタリー番組などを学生に数多く見せてきているから、これらの拷問を虚偽だとも誇大だとも思わないが、ドキュメンタリーでは拷問場面が回想として言葉で語られているのに対して、この「体験の場」では、それが言葉ではなく実際の場面として突きつけられるから目を逸らしようがない。が、私たち日本人が何をしたかは、眼を逸らさず直視なければならない事実である。
13 「独立記念館」の訪問記(4)
さて、第3展示館「日程侵略館」には、この他にも、ソウルの南山(ナムサン)に朝鮮神宮を建て「天照大神」と「明治天皇」の位牌を設置し韓国人に定期的に参拝させた写真や光武皇帝を強制退位させて宮廷を出て行く朝鮮総督府総監・伊藤博文とその軍隊の写真、さらには外国の新聞に載った「朝鮮人が多数、目隠しをされ銃殺されている写真」など、さまざまな資料が展示されているが、その詳細は語り尽くせないので、次の第4展示館「3・1運動館」に移る。
この「3・1運動」とは、1910年に主権を奪われた朝鮮人が1919年3月1日にソウルのパゴタ公園で読み上げられた独立宣言を機に朝鮮全土に広がった独立運動である。民衆は太極旗を手に、口々に「テーハン(大韓)トンニプ(独立)マンセー(万歳)」と叫びながら、全国いたるところで広場を埋め尽くし市内を行進した。ソウル市内だけでも50万人もの市民が示威行動に参加し、3月1日から5月末までの3ヶ月間における集会回数は1542回、参加者は202万3098名にも上ったと言う(早乙女、前掲書)。
だが、それに対する弾圧も凄まじいものがあった。同じく前掲書によれば、日本の官憲による死亡者は7509名、負傷者1万5961名、逮捕されたもの4万6948名だったという。李花学堂(イハ・ハクグン=現在は名門、李花女子大学となっている)の学生だったユ・ガンスン(柳寛順)が、強制休校で郷里に帰省していたピョンチョン(並川)でも、彼女が「3・1運動」を開始したときには並川市場周辺は見るもむごたらしい修羅場となり、彼女自身もピストルで父と母の両方を一挙に射殺されている。
またピョンチョンからスウォンに戻る途中のキョンギ・ド(京畿・道)ファソン・グン(華城・郡)ヒャンナム・ミョン(郷南・面)チェアン・ニ(堤岩・里)にある堤岩教会では、日本当局は1919年4月1日に村人を教会に集め、密閉状態にして火を放った。窓を破って脱出しようとするものに対しては一斉射撃が浴びせられ、生き延びた人はいない。急を聞いて駆けつけた村人で、この事件を目撃し生き延びた人の証言によれば、教会を焼いた日本官憲は民家にも放火し、一戸を除いて全て全焼したという。
東ティモールでも国民投票の直後に独立運動の村人を教会・神父もろごと全てを焼き払った事件があったが、それを髣髴させる事件である。このように「3・1運動館」には、この運動だけにしぼって資料がぎっしりと展示されている。これだけでも見ていると辛くなってくるが、もちろん独立運動は「3・1運動」で終わったわけではない。1919年3月1日から1945年8月15日の「光復節」の日まで独立運動は間断なく継続されていたのであり、それを展示したのが第5展示館「独立戦争館」である。
第5展示館に入ると正面に、尹奉吉(ユン・ボンギル)・安重根(アン・ジュングン)・金佐鎮(キム・ジャジン)の銅像が置いてあって、この3人は何者かと思わせる。アン・ジュングンは既に知っているとしても、あとの二人は私には全く未知の人物だった。帰国後に第1展示館の売店で買った日本語版「ガイドブック」を読んでみると、この3人について次のような説明がある。これを読むと、アメリカやイスラエルの言う「テロリスト」そのものである。
「日帝の侵略期間、義烈士たち自分の命を省みず、祖国の独立のため義挙を起こした。彼らは侵略の元凶やその機関に向かって爆弾を投げた。こうして日帝には不当な韓国侵略に対して警鐘を鳴らし、同胞には祖国独立の意志を教え悟らせた。」
「彼らによって韓国侵略の総本山の朝鮮総督府と経済の侵奪機関である東洋拓殖株式会社が破壊され、日帝の軍部首脳が爆殺された。そして日本帝国主義の象徴的人物である天皇と植民地の韓国最高である総督にも数度にわたって爆弾の洗礼が降り注がれた。」
「この第5展示館は、このように日帝侵略の全期間、祖国の光復・解放のため武装活動を実践した人々の活躍を展示したところである。」
だとすると、ワールド・トレード・センターの自爆攻撃を単に「テロだ」と非難したり、アフガニスタンを爆撃するだけでは問題の解決には全くつながらないことが良く分かる。自爆テロを生み出す背景を解明し、その解決を図る以外に、テロ問題の展望は生まれてこないのではないか。この展示説明を見ながら、そんなことを思った。それほど、この展示館には、所謂「テロリスト」の氏名と写真が列挙され、いつ何処で如何なる「テロ活動」を行なったかが当時の日本の新聞記事をも使って説明されているのである。
このように詳細に説明していると、なかなか最後まで行き着かないので、第6展示館「臨時政府館」および第7展示館「大韓民国館」は駆け足で通り過ぎることにする。と言うよりも、この辺りまで来ると私も疲れてしまって、事実、駆け足で通り過ぎるように展示物を見て終わったのである。
3・1運動の後に大韓民国臨時政府上海で設立され、やがて韓国光復軍が創立されることになるわけだが、この「臨時政府館」は、この過程を主にして展示されている。これを見ると、海外でも様々な運動が展開され、それが広いネットワークをつくっていたことが分かる。彼らは軍事訓練を実施して独立軍を養成したり、資金と食料を集めて軍費に当てたりしていた。あたかも「アルカイーダ」のネットワークを見る思いであるが、興味深いことは、この軍事訓練にアメリカも参加していたことだった。考えてみれば当然のことかもしれないが、この展示を見たときは一瞬、目が点になった。
最後の第7展示館「大韓民国館」は、日本敗戦後に独立を達成した韓国が、さらに朝鮮戦争と南北分断という悲劇を経て現在に至るまでの奇跡を追っている。この間、韓国は軍事独裁政権と闘うための新しい運動が生まれたては弾圧され、また新しい運動が生まれては弾圧されるという苦難と発展の道をたどってきている。その概略を記すと<註>のようになる。そして冷戦崩壊の後、ようやく南北対話が始まり、統一への明るい兆しが見え始めた。この過程を詳細に展示したのが「大韓民国館」なのである。
しかし、既に述べたように、せっかくの明るい兆しも、9・11事件以後、ブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」として名指しで攻撃を始めたことにより、またもや暗い影が落ち始めている。
14 「独立記念館」の訪問記(5)
最後の第7展示館を見終わったら既に5時近くになっていた。しかし、360度の円形劇場では何を上映しているのか気になるので覗いてみた。
ワシントンDCのスミソニアン博物館にも、このような円形劇場があり、そこの映像を見ていると、あたかもグランド・キャニオンの上を飛んでいるような錯覚を覚えたりするようにつくられているが、それの韓国版といった感じであった。
この円形劇場では今まで見てきた展示館の内容を、もう一度おさらいするような映像が次々と映し出され、宇宙船「韓国号」に乗って過去から未来へ飛躍せんとする韓国人の意気が込められているように感じた。韓国人のエネルギーを肌で感じた。
日本には、このような博物館がない。侵略の反省と原爆体験を踏まえて未来に羽ばたく意気込みを感じられるような、そんな博物館が日本にも欲しいとつくづく思った。押し付けられた憲法9条を逆手に取って恒久平和を目指す新しい型の博物館が欲しい。そんな思いで劇場を出た。
既にあたりは夕暮れの色が漂い始めていた。しかし問題は、どうやってスウォンまで戻るかである。チョンアム(天安)の駅まで行けば、あとは汽車に乗ってスウォンに戻るだけなのだが、記念館からタクシーが拾えるかどうかが問題なのである。そんな不安をいだきながら記念館の出口に向かった。
あたりには、もう人影がまばらになり始めていた。出口付近で小さな子どもを連れた若夫婦に出会った。すると、彼らは「民族の塔」をバックに記念写真を撮りたいから、お願いできないかと近づいてきた。そこで写真を撮った後、ふと思いついて「英語が話せますか」と念のために聞いてみた。というのは彼らにタクシーのことを訊ねてみたくなったのである。
「少しだけなら」という返事だったので、早速タクシーが近くで拾えるかどうか、さもなければ近くに天安駅までのバス停があるかどうかを訊ねてみた。彼らも自家用車で来ているので知らないらしく、「記念館」の施設で働いているひとをつかまえて訊いてくれた。すると「タクシーは駄目だがバスならある」という答えだった。
嬉しいことに、その若夫婦は「バス停はすぐ近くだし、自分たちの車もその近くの駐車場においてあるから、案内してあげる」と言う。そこで一緒にバス停まで行ってもらったのだが、時刻表を見てもらったら、まだかなりの時間があるようだった。すると若夫婦は何やら相談している様子だったが、近寄ってきて「天安駅まで車で送ってあげる」と言い出した。
これには感謝のことばもなかったが、ひたすらお礼を言いながら助手席に乗せてもらった。話していて分かったことは、彼らはソウルに住んでいるのだが、今日はワールド・カップの余波で会社から休暇が出て、奥さんの実家が近くだから、夏休みを楽しむために「記念館」を訪れたのだという。サッカーにおける韓国ティームの快進撃が、こんなところに影響しているのを知って驚いた。
チョンアム駅で彼らに改めてお礼を言い、「今日は何という充実した一日だったことか」と彼らに感謝しながら「セマウル号」乗車した。来るときはスウォン駅からチョンアム駅まで一駅だったから次に停車した時に降りればよいのだと勝手に決め込んでいた。そして次に停車した時、何も考えずに下車したところ、辺りの景色がスウォン駅と全く違う。慌てて駅名を確かめると、何とスウォンの一つ手前のオサン(烏山)駅だった。
どうしてこんなことになったのか理解に苦しんだ。駅で買ったのは「超特急セマウル号」の切符だったつもりだが、実は「特急ムグンファ号」だったのだろうか。とにかく次の汽車が来るのを待つより仕方がない。それにしても次に来るのが「鈍行」だったら面倒だ、スウォンに帰るのが予定よりはるかに遅くなってしまう。韓国は全席「座席指定」だから、切符ももう一枚必要か。そんな不安な思いで待っていると、ほどなく列車が近づいてきた。
嬉しいことに、乗車してみたら、その列車は「特急」だったらしく、何処にも停車せず、あっという間にスウォン駅に着いた。座席指定の点検もなく、切符を買い換える必要もなかった。せっかく若夫婦に自家用車で駅まで送ってもらったのに、とんだ失敗をしてしまったと若干、落ち込んでいた気分が明るくなった。キョンヒー大学の学生寮に着いたら食堂の閉店間際だったが、何とか夕食にありつけた。
このように一人旅は浮き沈みが激しい。しかし、だからこそ面白いとも言える。この日も疲れたが、さまざまなことをたっぷりと経験した満足感で眠りについた。眠りに着く前にふと思い出したのが「記念館」で出会った迷彩服の若者たちである。徴兵訓練の最中でも彼らは研修の一環として「記念館」を訪れ、日本が植民地時代に何をしたかをたっぷりと学んで帰る。それに引き換え日本の若者はどうか。
日本の若者には徴兵制もなく、自分の国が周辺の国々した行為もほとんど学ばず大人になっていく。しかし他方では、中小企業ですら韓国・中国・東南アジアに工場や支店を持つようになっている。このような現状で、海外に企業派遣された若者は、どうしてアジアの若者たちと真の意味でわだかまりなく付き合っていけるのだろうか。現状のままでは、アジアの若者たちは一方で先進国日本に憧れを抱きつつ、他方で心の中に沈殿した憎しみを抱きながら日本の若者と交流せざるを得ないのではないだろうか。<3>
そんな思いで眠りについたのであった。明日はいよいよ学会の最終日である。
15 国際平和学会、最終日
7月5日(金)は学会最終日なので、この日はやはり平和教育の分科会に出て最後の雰囲気を嗅いでおこうと中央図書館のPeace
Hallに出かけた。岡本三夫氏(広島修道大学)など顔なじみの人たちが既に来ていた。
岡本氏は欧米で開拓された平和学を日本に最初に紹介し、大学における「平和学講座」を設置するために奔走され実現に漕ぎつけた人物として著名である。彼は最近、東大で開講された集中講義「平和学」にも、講師のひとりとして招かれている。
この東大の「平和学」という講義は、学生の「自主ゼミ」として出発したものだが、学生の要求により正式な単位認定科目として認められるようになったのだという。最近のアフガン戦争・パレスチナ紛争に刺激を受けて、このような動きが学生の中から生まれてきているのは、本当に喜ばしいことである。
それはともかく、分科会のほうは最終日を待たずに既に帰国した人も多く、参加者の人数は少なかった。そのうえ、レジュメもきちんと配布されないままの発表や討論だったので、数少ない参加者も戸惑っているようであった。これは参加すべきではなかったかと一瞬、思ってしまった。
後で分かったことだが、分科会最終日に残っているのは、この分科会の運営責任者のグループだけで、基本的な討論は昨日で終了し、今日は今後の「平和分科会」の運営をどうするかの打ち合わせが主要な仕事であるらしかった。そこで私は11時に「休憩」が入ったのを幸いに、このホールを退散することにした。
午後からは昼食を兼ねての「閉会集会」であった。会場に出かけると、パーティ設営場所の近くで松井やよりさんのグループが、本やパンフレットをテーブルの上に展示して客引きをしていた。荷物になるから、三日目の全体会会場で売れ残ったものを売りつくして帰りたいというのである。
松井やよりさんといえば、元朝日新聞記者で、今は独自の女性解放運動をしている人として有名である。特にアジアの子供や女性の問題をとりあげていて著書も多いので、名前だけは知っていた人物だった。そこで早速、テーブルに並べられている本・パンフレットで目ぼしいものはないかと物色した。
その結果、以下の書籍とパンフレットを購入することにした。
(1) 松井やより監修『あしたを拓く女たち:女たちの韓国スタディ・ツアー』アジア女性資料センター、2001.
(2) 編集委員会(編)『女たちの21世紀』No.30、アジア女性資料センター、2002.
(3) 「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(訳)『日本軍性奴隷制を裁く“女性国際戦犯法廷”』ハーグ判決概要、2001.
最初のものには韓国の各地を訪問した記録と感想が多様に掲載されていて面白かった。ソウルでは独立宣言が読み上げられたパゴタ公園など多くの史跡と慰安婦関係の団体、カンジュ(広州)ではナヌムの家の訪問記があり、自分が訪れたときの印象ととれだけ同じで何処が違うかを読み比べたいと思ったのである。
2番目のものは「特集:拡大する原理主義勢力と女性たちの抵抗:アフガニスタンと世界の女性たちの声」という文字が目に飛び込んできたので、買ってしまったのだが、中でも面白かったのは「アメリカのキリスト教原理主義と中絶問題」だった。原理主義といえばイスラム教だけのように思われているが、ここにはきちんとキリスト教の問題も述べられていた。
最後のものは慰安婦問題をめぐる国際法廷の判決文の翻訳である。日本で言われている「慰安婦」は、国連人権委員会では「性奴隷」と正式には呼ばれていることは知っていたが、民間の国際法廷が開かれ、ハーグで最終判決(2001年12月4日)が下されていたことは、恥ずかしながら全く知らなかった。(パンフレットの発行年月日を見ると12月22日となっている。)
国連人権委員会ではクマラスワミ女史を委員長とする調査委員会が設けられ、既に最終報告書で日本政府の対応が厳しく批判されていることは、NHKの特別番組でも報道されていた(これは記号研「教材資料一覧」にも載せられている)が、「ハーグ判決概要」を読んで、私の全く知らなかった事実が余りにも多いことに驚かされた。判決文で次々と列挙される残虐な事実は目を覆いたくなってしまった。
「知育偏重」などと言われているが、事実は全く逆である。「教えられていないこと」「知らされていないこと」が如何に多いことか。チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』(現代企画室)を読んだときに抱いたと全く同じ思いが、この判決文の概要を読んだ直後に込み上げてきた。今こそ正しい意味での「知育」が求められているのではないか。
以上が書籍・パンフレットの感想だが、松井さんと販売会場で話をしていて気になったことが一つあった。それはたまたまチョムスキーのことが話題になったときである。彼女は「チョムスキーの主張に基本的には賛成だがカンボジアのポルポト政権の残虐行為を免罪していることだけは許せない」と言うので、私は「そんなはずはないでしょう」と反論したが、具体的事実を知らないので反証は出来ずに、その場は終わった。
これは後日談になるが、チョムスキーの言動を追跡して作られたドキュメンタリー映画『マニュファクチャリング・コンセント』が京都造形芸術大学で上映されるというニュースを耳にして、先日、京都まで出かけた。「世論はどのようにして捏造されるか」が、この映画のテーマであり、チョムスキーが様々な例をあげて、それを論証していた。その論争のひとこまに上記のカンボジア問題も含まれていて、これが松井やよりさんの言う「問題」か、と思った。
しかし、このドキュメンタリーを見る限りでは、チョムスキーはポルポト政権の残虐行為を決して是認していない。ただ彼が主張していたのは「ポルポトの残虐行為と同じ時期にインドネシア政府はポルポトよりも遥かに残虐な民族抹殺(東ティモール独立運動)を行なっていた。ところがアメリカ政府はインドネシア政府に対して一言も批判しないどころか、裏で援助や軍事訓練さえしている」という事実だけなのである。明らかに松井さんの誤解なのである。
話が横道にそれてしまったが、そんなこんなで閉会集会「さようならパーティ」は幕を閉じた。開会集会でも感じたことだが、閉会集会での児玉氏(国際平和学会事務局長、三重大学助教授)の挨拶も、世界中から参加者・居並ぶ名士を前に堂々としていて見事だった。彼は広島大学教育学部の大学院(修士課程)を卒業した後、スウェーデンに渡り、ルンド大学で「平和学」の博士号を取得したそうだが、彼の英語は、そんな経歴の中で磨かれてきたものであろう。日本からこんな若い事務局長が出てきたことは喜ばしい。
パーティは午後4時前には終わったのだが、天候も悪く、疲れていたので、今日は早めに寝て明日に備えることにした。
16 スウォン最後の日、「世界遺産」を歩く
先にも述べたように、スウォン滞在の最終日はハンムンジョン(板門店)に行く予定だったが、台風が接近しているという天気予報のため、バス・ツアーは中止になってしまった。
その予報のとおり昨日から今日(7月6日)にかけて豪雨が降り続いている。そこで帰国準備をしながら購入したばかりの書籍・パンフレットを読み、部屋でゴロゴロしていたら昼になってしまった。
昼食を例によって地下の食堂で済ませて部屋に戻り、また学会資料を読んでいるうちに空が少し明るくなってきた。もし天気が良くなってきたら、もう一度「スウォン・ハソン(水原華城)」を尋ねてみたいという気持ちが強くなってきた。
こちらに来てから既に「華城」を訪ねているのだが、以前にも述べたように、そのときは「華城」の一部を見ただけで、全体を歩いていない。それで、「世界遺産」の全体像を知らないという思いが強く、まだ心残りがするのである。
それに何よりも歩きたかった。自宅にいるときは買い物と犬の散歩を兼ねて、毎日、1時間は歩いているので、歩かない日が続くと精神的にもストレスが溜まってくる。だから「世界遺産」を見ながら思い切り肉体を酷使したいという気持ちが強くなってきた。
午後3時ごろになったら雨も小止みになったので、折りたたみの傘をリュックに詰め込み、とにかく出かけることにした。タクシーでまず「タルタルムン(八達門=南門)」まで行き、そこから歩き始めることにした。全長5.5KMの城壁と楼門の遊歩道である。
ガイドブックには「北門と華虹門を結ぶ城壁の上は遊歩道となっているため、街を見下ろしながら空中散歩を楽しむ事が出来る」と書いてあるが、遊歩道は、八達門(南門)→華西門(西門)→長安門(北門)→蒼竜門(東門)→八達門(南門)と一周できるようになっていた。
南門から歩き始めたのだが、いきなり急勾配の道が続き、他の観光客も喘ぎながら登っていった。城壁の上の遊歩道まで達すると、後は比較的平坦な道が続くので、道端に植えられている草花や花木を楽しみながら歩くゆとりが出てきた。延々と続く城壁と樹木・花木との調和は、やはり「世界遺産」の名にふさわしいものだった。
こんな自然公園を身近に持つスウォン市民はなんと幸せな人たちであろうかと思いながら歩いていると華西門に達した。見ると若者たちが大きな機械を据え付けて何か仕事をしている。何をしているのかと尋ねると「このスウォンがワールド・サッカーの会場になり、そこで録画した試合を、この山頂の機械を使ってスウォン市民に送り届けている」のだという。
なるほど言われてみれば、眼下にスウォン市街が遥かかなたにまで広がっている。それほど華西門(西門)は小高い山頂に築かれているのだった。かっては敵の動きを偵察するために造られたであろう見晴らし台が近くにあったので、彼らに頼んで写真を撮ってもらった。そしてついでに恥ずかしがる彼らの写真も撮らせてもらう。
旅に出て写真を通りすがりの人の撮ってもらうときは、可能な限り、その人の写真も撮らせてもらうことにしている。そのほうが旅の記憶が鮮明に残るし、お礼に写真をその人に送ってあげれば、新しい交流が生まれる可能性もある。この場合も、写真を送りたいので住所かメールアドレスをいただけないかと言うと、さっそく名刺を取り出して私にくれた。みればスウォン放送局のスタッフたちだった。
持参したカメラはデジタルだから、撮った写真を相手に「どんな写真になったか」をすぐに見せることができるし、それをメールの添付ファイルで送れば、わざわざ郵便局に行く手間隙も省ける。そんなわけで帰国してから送った写真に対するお礼状が、いま私のところに次々と届いている。独立記念館に行く途中でお世話になった若者、その帰りでお世話になった若者からも届いている。
外国の語学学校で英語を学ぶのも結構だが、このような生きた環境の中で、使いながら英語を学ぶほうが、はるかに良いのではないか。もっとも韓国にいるのだから礼儀上は韓国語を話すよう努力をすべきなのだが、残念ながら私の場合は最初の挨拶だけで後の韓国語が出てこないので、相手の人には申し訳ないが英語になってしまう。この場合も「下手な英語ですが」と何とかお互いの意思を通じ合うことが出来た。
しかし長安門まで来たとき土砂降りになりやむ無く楼閣の見晴台で雨宿りをした。そこには華城当時の衛兵の服装をした年配の男のひとがいて親しげに話しかけてきたが、相手は日本語も英語も分からないので、身振りで「一緒に写真を撮らせてくれ」と頼むと快く応じてくれた。衛兵のそばには地元の人らしい中年のおばさんがいて衛兵と世間話に打ち興じている。
見ていると、やおら傍の包み紙から何かを取り出して私に食べませんかと言う。手づくりのお餅らしいのだが、それに蜂蜜らしきものをたっぷり掛けて私にくれた。こんな場合は、言葉はほとんどいらない。お互いに「いかがですか」と韓国語で言い、「ありがとう」と日本語で言っても通じるのである。彼女は、その上、持ってきた飲み物まで私にくれた。これが「ぶらり一人旅」の良さかもしれない。
そんな出会いを重ねながら「華城」遊歩道歩きを終えた。大学の学生寮に戻ると既に夕暮れが深くなっていた。途中で雨に降られたりはしたが、何か充実感があり、長時間の歩きも心地よい疲れとなった。おかげで快眠できた。明日はいよいよ帰国である。
17 学会参加を終えて
七夕の日(7月7日)、起床するとすぐ荷物をまとめてタクシーを拾い、国際空港のバスが出るホテルまで行く。そこからインチョン(仁川)国際空港まで1時間以上もかかる。
できて
乗車するとまもなくバスは空港に向けて走り出し、途中でいろいろな客を拾いながら空港に着いた。トルコから参加した女子学生(大学院博士課程)が同じバスにいたので、写真を撮り、ついでにメール・アドレスも聞いておいた。
というのはZnetに載っているチョムスキーのエッセイを訳していて、トルコのクルド人虐殺問題やそれに対するアメリカの援助、さらにそれをめぐる出版弾圧問題に関心が深くなっていたので、トルコに関して今後も何か情報を得る手がかりになるかもしれないと思ったからである。(写真を送って間もなく、彼女からはお礼のメールが届いている。)
それにしても、世界中から国際平和学会のスカラシップを使って多くの大学院生が参加している。その意味で、この学会のスカラシップのもつ意味は極めて大きい。財源はどこにあるのかとパーティの席上で、たまたま近くに座っていた児玉事務局長に聞いたことがある。「寄付金に多くを頼っているが自分のポケットマネーから出すこともある」との彼の答えに驚いてしまった。
彼によれば三重県その他の官庁から様々な仕事を請け負い、従来なら官庁がどこかのシンクタンクに請け負わせるような仕事を自分が引き受けて、それを学会のスカラシップに回しているという。学生にもアルバイトを兼ねて仕事をさせ、それを学生たちの渡航費用に当てる援助もしているそうである。三重大学からの学生参加が非常に多い秘密がここにあったのだと初めて知った。
それどころか彼は最近、NPO(非営利法人)を名古屋に立ち上げて、そこに卒業生を送り込む仕事もしているという。彼は卒業生の就職口を世話する仕事までしているのである。その当の卒業生に学会パーティで話を聞く機会があったが、「給料は少ないけれど、やりがいのある仕事だから満足しています」との返事であった。若いにもかかわらず、こんなことまでしている大学教師がいることに目を見張る思いだった。
帰りの飛行機の中で偶然、またもや児玉氏と三重大学学生の一団に出くわした。そこで児玉氏と再び雑談をする機会を得たのだが、南アフリカ共和国で国際平和学会があったときも、少なくない学生が三重大学から参加したという話を聞いた。そんな学生を私はどうすれば育てることが出来るのだろうか。そんな思いで帰途に着いたのだった。
NOTES
<1> 日本に、江戸時代の思想家・安藤昌益について初めて本格的に研究し紹介したE.H.ノーマンも、アメリカ政府による厳しい「赤狩り」追及で、結局はカイロで自殺に追い込まれている。彼は連合軍の一員(駐日カナダ代表部主席)として日本の民主化に寄与したが、帰国後、「赤狩り」の追及を逃れて国外に出て、カナダ政府エジプト大使をしていたにもかかわらず、アメリカ政府は彼の存在を許さなかったのである。
<2> その概略を記すと次のようになる。
1960年4月19日、4月革命。強圧的な大統領・李承晩を倒した学生革命。
1961年5月16日、軍部によるクーデタで、朴正煕(パク・ヒョンヒ)による軍事政権が復活。
1972年12月27日、戒厳令のもとで朴大統領は「維新憲法」を公布し、恐怖政治を敷く。
1973年、新民党の金大中が東京のホテルから拉致される「金大中事件」。KCIAか?
1979年10月27日、KCIA部長・金載圭(キム・ジェギュ)によって朴大統領が暗殺される。
1979年12月、全斗煥(チョン・ドゥハン)将軍がクーデタによって軍部を完全に掌握する。
1980年5月18-27日、光州事件。全斗煥は軍を動かし徹底的な弾圧を行い、8月に大統領となる。
1997年12月、大統領選挙で金大中が当選し、初めて与党から野党への政権交代が実現する。
<3> 中学校の教師が韓国に修学旅行に出かけ、交流している中学校で挨拶した時、自分の名前を「伊藤博文の博文です」と言って紹介したら、一瞬、会場は水を打ったように静まりかえったという。それほど日本人が相手の歴史に関して(むしろ「自分の歴史」といっても良いかもしれないが)無知であることの証であろう。かって経団連は、アメリカに進出する日本企業のために、公民権運動の歴史を描いたドキュメンタリー『EYES ON THE PRIZE』の縮約版を各企業に配り、人権問題でトラブルが起きないように配慮した。そのアジア版が今こそ求められているのではないか。
<3> 独立記念館は展示館を7つ持っているのだが、それ以外にも下記のような施設を備えている。このような巨大な歴史館を民間で作ろうとした韓国人の怒りの大きさを日本人はもう一度考えてみる必要があるだろう。
民族(キョレー)の家:講堂、劇場、不屈の韓国人像
資料室:17000余種、67000余点(2000年現在)
図書室:蔵書32000余点(2000年現在)
研究所:独立運動史の研究&出版
電算室:各種の情報化事業
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