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トランスカイ Transkei
南アフリカ共和国(南ア)の旧バントゥースタン(ホームランド)のひとつ。3つの飛び地からなり、総面積は4万1001km2。もっとも大きいものはインド洋に面する地域で、カイ川とムジンブブ川の間に位置していた。残りの2つは内陸にあり、うち1つはレソトと接していた。「首都」だったウムタタのほか、バターワース、エンコボ、イドゥティワ、ルシキシキ、ポート・セントジョンズ、クンブ、ツォロなどの町がふくまれていた。1994年、バントゥースタンが解体され、南アが9つの州に再編成された際、東ケープ州(→ ケープ諸州)に編入された。
トランスカイはおもにコーサ族の居住する広大な地域の一部だった。コーサ族は少なくとも16世紀にはこの地域に定住した部族で、グカレカ族、ポンド族、テンブ族、ポンドミス族、ボンバナ族などがふくまれる。コーサ族の土地は19世紀にイギリス人入植者に征服された。トランスカイとはイギリス人がつけた名前で、当時アフリカの部族がすんでいた「カイ川のむこう側」を意味する。
1910年に南アフリカ連邦(のちに南アフリカ共和国)ができ、その直後から白人指導者たちによってアパルトヘイト(人種隔離)政策が国策として実施されるようになった。この政策が頂点に達した50年代、政府は多数派のアフリカ人(バントゥー語系の黒人)を部族によって区分し、それぞれの部族のホームランドすなわちバントゥースタンを設置した。トランスカイは南のシスカイと同様に、コーサ語を話す部族のホームランドとしてわりあてられた。トランスカイにすんでいた人たちの大半はコーサ族だったが、ソト族もかなりふくまれていた。
トランスカイは、1961年に自治政府を設立することを強いられた、最初のバントゥースタンだった。すでに南ア政府は、バントゥースタンの目標はなんらかのかたちで「独立」することであると表明していたが、自治の具体的な内容はまださだめられていなかった。南ア政府は63年のトランスカイ制憲法のもとで自治政府を発足させ、トランスカイを自治国と認定した。トランスカイ自治政府は、立法評議会と行政評議会からなっており、立法評議会の議席の一部は選挙で決定されたが、大半は部族の首長層が占めていた。首長たちの大部分はバントゥースタンの設立当初から、南ア政府に協力していた。つづいて、71年に制定されたバントゥー・ホームランド制憲法によって、すべてのバントゥースタンにトランスカイと同様の自治政府がもうけられることになった。
トランスカイは1976年10月に第1番目の「独立国」となった。「独立」したバントゥースタンは、建前としては内政や外交で完全な権限をもつことになっており、実際に民族差別的な法を撤廃した政府もいくつかあった。だが、南ア政府が財政のほとんどを補助し、行政府におもだった役人や軍将校をおくりこんでいたことから、バントゥースタンの「独立」には限界があり、トランスカイの「独立」を承認した国は南アだけだった。
トランスカイの「国民」とさだめられた人は300万人をこえたが、そのおよそ半数はバントゥースタンの境界線の外に居住していた。バントゥースタン内の土地は不毛で、また雇用機会も不足していたため、出稼ぎ労働者として境界外に居住していたためである。また、境界内に居住していた者も、境界の付近にすみ、そこから南アの白人が経営する境界外の企業まではたらきにでかけた。
トランスカイでは、1963年に自治政府ができて以来、定期的に選挙が実施されていたが、80年代後半まで、カイザー・マタンジマとジョージ・マタンジマの兄弟と、彼らのひきいるトランスカイ民族独立党が実権をにぎっていた。76年カイザーは「独立国」トランスカイの首相に、弟のジョージは法相に就任、79年にはカイザーが「大統領」に就任し、弟を首相に任命した。その後、カイザーは86年に大統領をしりぞき、弟は汚職が発覚して87年に辞任した。ステラ・シグカウが後任首相に就任したが、ホロミサ将軍のひきいるトランスカイ国防軍によって追放され、以後ホロミサが国防軍の司令官として権力を保持した。94年の全人種参加の選挙後、トランスカイは統一南アフリカ共和国に再編入された。[1]
[1]"トランスカイ" Microsoft(R) Encarta(R)
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