無料-
出会い-
花-
キャッシング
フィリピンのモデルとイラク
2003年10月21日
ステファン・R・シャロム
翻訳:寺島隆吉+岩間龍男(公開2003年11月1日)
APEC(アジア太平洋経済協力会議)への参加を兼ねてフィリピンを訪れたブッシュ大統領は、「フィリピンの歴史を見れば米国がイラク統治をした結果どんな未来が開けてくるかが分かる」と演説をした。しかし実際の歴史はどのようなものだったか。シャロムの次の論説は米国がフィリピン人民をスペインから「解放」した後フィリピンをどのように弾圧・搾取してきたかを詳細に叙述している。(寺島隆吉)
|
フィリピン議会の両院合同会議で土曜日に演説をしたブッシュ大統領は、米国のイラク政策に疑問を持つ批判家たちに次のように述べた。「中東の文化は民主主義の制度を支持しないだろうという人がいる。同じ疑いが、アジアの文化についてもかつて言われた。しかしこれらの疑いは60年近く前に誤りであることが証明された。というのは、この時フィリピン共和国がアジアで最初の民主主義国家となったからだ。」
ブッシュの演説のほとんどは実に馬鹿げたものだった。例えばイラクでの戦争はテロリストの聖地を終焉させたという彼の主張である。実際にはこのイラク戦争で、米国は「テロの脅威ではない国を占領して、テロの脅威を持つ国に変えてしまった。」これはテロリズムの専門家ジェシカ・スターンの言葉である。しかしブッシュが「米国のフィリピンにおける記録を見ることは、イラクで待ち構えていることを明らかにする点で役に立つ」と提案した点は、正しいことであった。
その歴史的な記録は、民主主義を促進する米国の関わりについて、私たちに何を教えているのだろうか。
百年前に米国はフィリピンを支配するスペインの植民者を打ち破ったが、フィリピンを自分たちのために占領しただけであった。
(土曜日のブッシュの演説では、このことは「フィリピン人といっしょに米軍兵士は植民地支配からフィリピンを解放した。」と要約されていた。大統領の報道担当官スコット・マクレランの言葉によれば、1896年の国民的英雄ジョゼ・リサールの殉死がフィリピン人を鼓舞した。「そしてその後、革命が起こり、アジアに最初の独立した共和国がすぐに生まれた。」しかし、その独立した共和国は即座に米国に征服された。)
米国のフィリピンの併合を批判した人たちが、ワシントンが住民の承諾を得ていなかったことを糾弾した時、上院議員のヘンリー・カボット・レッジは、もし住民の承諾が必要だったのなら「過去における我々の拡大の記録は犯罪である。」と答えた。
1898年にフィリピン人は何を望んでいたのか。彼らの民主的な願いとは何であったのか。米国議会での米国の将軍の証言によれば、フィリピン人は独立が意味することがほとんど分からなかったので、彼らはおそらく独立というのは何か食べるものだと考えていた。「彼らは牧羊犬ほどにも、独立が意味していることが分からない。」とその将軍は説明した。
しかし彼はそのすぐ後の証言で、フィリピン人は「米国人を取り除きたがっている。」と述べた。「彼らはそんなことを望んでいるのか。」と困惑した議員は尋ねた。「はい、そうであります。彼らは我々を追い出したがっています。それは、この独立というものを望んでいるからですが、その独立が何なのか彼らは知りません。」とその将軍は答えた。
民族自決権の本当の意味を米国が理解できないことは、世紀末前後の近視眼ということだけではなかった。「バターンへ戻る」という1945年の映画の、次のシーンを考えてほしい。1941年、フィリピンの学校で、米国人の先生が生徒に、米国がフィリピンに与えた物は何かと尋ねた。「清涼飲料水!」「ホットドッグ!」「映画!」「ラジオ!」「野球!」と生徒たちは叫んだ。
しかし先生と校長先生は子どもたちの誤りを訂正して、米国の本当の貢献はフィリピン人に自由を教えたことだと説明した。しかし、その先生は、フィリピン人たちは「米国の占領に抵抗していた」から最初はその自由を有り難く思っていなかったと真顔で言っていた。
本当に彼らは抵抗した。そして戦闘員であろうが非戦闘員であろうが、何千ものフィリピン人が、米国流の自由を彼らに教えようとする米国軍隊によって殺害された。
半世紀近く後の1946年に、フィリピンの米国植民地支配が終わった。しかし、米国の支配は続き、フィリピンの民主主義は阻止されたままだった。これは、植民地が独立を与えられ、植民地主義が新植民地主義に置き換えられた最初の例ではなかった。無作為にひとつ例をあげてみると、1932年に英国はイラクに独立を与えた。しかし、ロンドンによるイラク軍事基地の利用権を認める25年間の条約にイラクが署名し、西側の石油会社がイラク石油の錠前を獲得して初めてイラクに独立が与えられたのだった。
フィリピンの形態も似たものだった。ワシントンは99年間賃貸料なしで巨大なふたつの軍事基地と多くの小さな軍事基地を維持していた。フィリピンの都市オロンガポは、1959年の『タイムマガジン』の説明によれば、「米国海軍によって完全に管理される唯一の外国の都市」となった。基地合意の条文はその後数十年間で数回改正されたが、米国当局者が1970年代にでさえ認めているように、これほど広大で何の妨げもない基地の権利を米国が持っている場所はフィリピン以外になかった。
これらの基地は、ベトナムからペルシャ湾までの米国の介入のための後方支援の拠点として何年も役に立った。マニラではなくワシントンが、これらの基地がどのように誰に対して使われるのか決定していた。そしてフィリピンの人々は自分たちの国に核兵器が持ち込まれていることを知らされていなかった。
独立したフィリピンは経済的にも米国に従属させられていた。フィリピン政府は米国大統領の承諾なしにはその通貨の価値を変えることを禁じられていた。そして米国の投資家はフィリピンで特別な投資の権利を与えられていた。米国の当局者は、フィリピン人が民主的にその特別な投資の権利を受け入れたと主張している。
しかし実際には、そのことを可能にする法律が議会を通過したのは、反対意見を持つ国会議員が不当にも停職させられた後のことであった。その投資の権利を、フィリピン人は国民投票で承認した。これは、ワシントンが戦争で破壊されたフィリピンの復興支援をすることによって、それを頼みとするフィリピン人の賛成票を掠め取ったからにすぎない。
<参考>フィリピンの歴史、20世紀フィリピンと「アメリカ民主主義」
1946年から1972年まで、フィリピンは競い合いのある選挙制度を持っているという意味では形式的には民主主義国であった。しかし、それはイデオロギーや政綱では区別のできない二つの裕福なエリート勢力が、結託して権力の座を争う政治体制であった。そしてその勝利の決定的な要素は、米国政府のあからさまな、あるいは秘密の支援によっていた。
1965年に候補者の政策を分かつ問題があったのは事実であるが、この時フェルデナンド・マルコスはベトナムに軍隊を送らない(たとえ後方支援であっても)と誓約をしたにも関わらず選挙で勝利を収めるや否やその選挙公約を破ったので、これは例外であるとはほとんど言えない。
これはフィリピン人への米国による政治教育の別例だったのかもしれない。というのは、1964年の米国大統領戦の時、リンドン・ジョンソンは「これ以上戦争は拡大しない」と約束したが、それから即座に米国の軍事的関与を拡大したことを思い出してほしい [彼はジョンソンを見習ったのだ] 。しかし、マルコスの政策転換は秘密裏に彼に送られていた米国の資金によって支配されたのだ、と考えた方が良いかも知れない。
1972年までに、フィリピンのエリートたちと米国の同盟者が最善の努力をしたにもかかわらず、フリピンの民主主義はついに自己表現をし始めた。政治家たちはもはや通常の買収がうまくいかないことに気づき始めた。(「彼らは、金はもらうが適任と考える人に投票する」と、不平を漏らす政治家もいた。)
小作農民や学生や労働者はますます現状に挑んできていた。大衆の圧力を受けて、議会、そして最高裁判所までが、ますます民族主義的な方向へ動き、米国の利益を脅かした。したがって、マルコスが大統領の2期目で最後の任期の終わり頃に戒厳令を宣言した時、ワシントンからは何の非難もなかった。
それどころか、マルコスが議会と報道機関を閉鎖し政敵を逮捕した時、ワシントンはその軍事的経済的援助を強化した。米国上院議員の一人が、米国の反応について次のように要約・報告している。「フィリピンの軍事基地や親米政権を守ることのほうが、よく見ても、まだまだ不完全な民主主義制度を守ることよりも大切だ。」
10年以上にわたる独裁支配のためにフェルディナンド・マルコスは米国政府に支持されたのである。彼は1981年に戒厳令を表面上解除したが、戒厳令のすべての権力を保持していた時、米国副大統領ジョージ・H・W・ブッシュはマニアを訪れ、次のように言ってマルコスに祝杯を上げた。「私たちはあなたが民主主義の原則と民主主義の手続きを厳守していることに好感を持っている。」
1986年フィリピンの人々は、自分たちがその指導者や米国の指導者とは異なり、本当に民主主義を理解していることを示して、マルコスを追放した。一方、レーガン政権は最後の可能な瞬間までマルコスにしがみついた。
コラゾン・アキノがマルコスにとって代わり、当初は政府に何人かの革新主義者を持ち、国内で長く続く暴動を扱う方法として、社会改革の計画を発表した。しかし、米国とフィリピン軍の圧力を受けて、革新主義者は取り除かれアキノの政策は社会改革の代わりに軍事行動を取るものとなってしまった。
アキノの最善の努力にもかかわらず、マルコス後の新憲法は「外国の軍事基地や軍隊や施設は、議会で適切に認められた条約なしには、認められない。」と述べていた。民族主義的な心情がフィリピンではとても強かったので、1991年のフィリピン議会では米国=フィリピン軍事基地協定の期間延長を認めない議決がなされた。しかしその議決がされるとほとんどすぐに、米国は協力的なフィリピン当局者の援助を得て、憲法の規定が働かないようにしようとした。
1999年、フィリピンの基地の「利用の権利」を与える合意がなされ、アブ・サヤフ[フィリピンの反政府イスラム過激派]と戦うことを援助するために、2002年に数百人の米軍が送られた。現在、フランス通信社(AFP)の報道によれば、「ペンタゴンは、米国太平洋軍司令部司令長官トーマス・ファーゴが“重要な戦術上の機動性のある発着場”と呼ぶものをフィリピンに維持するために活動している。それにはUH−1ヘリコプター、C−130輸送機、大型トラック、巡視船が含まれており、これらはこの地域で米国の大規模な軍事作戦がある時に使用可能だ。」
もちろん、これらの米軍とその装備は、グロリア・マカパガル・アロヨ大統領が適切な条約を議会に提出しさえすれば、フィリピンの憲法を侵害することにはならない。しかし、そのような条約は否決されると考え、アロヨ政権と米国の政権は単に憲法を無視する道を選んだ。これは民主主義ではなく新植民地主義の顕著な特徴である。
現在、イラクでは明らかに民主主義は存在せず、米国が事を取り仕切っている。米国に任命されたイラク統治評議会閣僚の、ひとりの顧問が述べているように、「イラクの人々は、事を取り仕切っているのは占領者たちであることを正確に知っている。統治評議会の閣僚は二義的で補助的な役割を果たしているにすぎない。」
しかし、たとえ選挙が行われイラク政府が正式に引き継ぎをした時でも、新植民地主義的関係が予想される。そこでは、米国はイラクの政権担当者に米国の利益を支えることを確実に行わせるだけだろう。
すでに米国の到達目標がどんなものか、その兆しが見え始めている。2003年4月29日、『ニューヨークタイムズ』は次のように報道した。「ブッシュ政権の高官によれば、米国はイラク新政府と長期の軍事的な関係を計画している。新政府はペンタゴンの軍事基地へのアクセス権を認め、その不安定な地域の中心部に米国の影響力を投影するものとなるだろう、」
政府高官のひとりは次のように述べた。「アフガニスタンのように、新しいイラクとの長期の防衛関係のようなものができるだろう。その軍事関係の程度・範囲は未定だ。それが完全な作戦基地なのか、もっと小さな前方作戦基地なのか、単純な基地利用の権利だけなのかということについては、これから決めなければならない。」
国防長官ドナルド・ラムズフェルドはその話を否定したが、5ヶ月後(2003年9月21日)の、別の『ニューヨークタイムズ』の報道によれば、「ペンタゴンはそれを模索すれば、将来のイラク政府は米国にイラクに永続的な基地を作ることを許すかどうか決めるだろう」とブッシュの政府当局者が言っている。
経済政策に関しては、『インディペンデント』紙(2003年9月22日)が次のように論評した。「米国によって任命された行政機構が“経済の全部門を外国の投資家に公開する”と発表した時、実質的にはイラクという国家が競売にかけられたのと同じになった。その発表は、新保守主義の圧力団体がワシントンで優位を占めつつある顕著な証明である。彼らは減税や貿易関税の削減を勝ち取ったのだ。それは石油以外の、産業から保健そして水までのあらゆるものに適用されるだろう。」
そして石油に関しては、米国によって任命されたイラク石油産業「諮問」委員会議長であり前シェル石油会長だったフィリップ・J・キャロルは次のように述べた。「近い将来に確実なことは、イラク石油産業の将来の拡張は、部分的には外国資本によって行われるだろう。」
フィリピン議会に対する演説で、ジョージ・W・ブッシュは「今日町に並んで暖かく親切な歓迎をしてくれたマニラ市民」に感謝すると述べた。彼の訪問に抗議する何千ものフィリピン人を彼は見なかったのかもしれない。ブッシュの自動車パレードは1時間遅れた。これは、シークレット・サービスが大統領の安全を心配し、米国とフィリピン当局者(再びあの民主主義の保護があった。)が、デモ参加者(=本当の民主主義)を交通検問や軍用車両という障害物で引き留めていたからであった。
[PR]動画