ハワード・ジン『民衆のアメリカ史』
(原文http://www.howardzinn.org/のアーカイブ)
翻訳:岩間龍男(翻訳公開030602)
記号研=岩間龍男先生(岐阜・高)のおかげで今は日本で絶版になっているハワード・ジン『民衆のアメリカ史』の部分訳が出来ました。現在進行しているブッシュ路線を考える貴重な資料になると思います。誤訳があるかもしれませんが、気づき次第訂正していきたいと思います。お気づきの方は連絡ください。(寺島隆吉・岐阜大学教育学部)
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1.カーターは人権を口にしたけれど
1977年から1980年ジミー・カーターは大統領の職にあったが、これは民主党の中で代表を務めていた支配層の一部によって、幻滅した国民の支持を取り戻そうとした試みのように思われた。黒人や貧乏人への2,3の同情の意思表示や外国での「人権」を話題にしたにもかかわらず、カーターは米国制度の歴史的政治的枠組みの中に留まった。その枠組みは企業の富や権力を保護し、国の富を浪費する巨大な軍事機構を維持し、米国を海外の右翼の専制政治と同盟させるものだった。
カーターは強力な影響力を行使する三極委員会(日米欧委員会)の国際的なグループによって選ばれたと思われる。『極東経済展望』(Far Eastern Economic Review)によれば、その委員会の二人の創立メンバーであるデイビッド・ロックフェラーとズビグニェフ・ブレジンスキーは、「ウオーターゲイト事件で手傷を負った共和党が必ず負ける」ことを仮定すると、1976年の大統領選挙にはカーターが適任の人物だと考えた。
大統領としてのカーターの仕事は、支配層の見地から言えば、米国人の政府や経済体制や海外での悲惨な軍事的冒険への急激な失望に歯止めをかけることだった。選挙運動中に彼は失望し怒っている人々に語りかけた。彼は黒人たちに最も強くアピールをした。なぜなら彼らの1960年代後半の反乱は、1930年代の労働者や失業者の運動の高揚以来、権力側への最大の恐るべき難問となっていたからだ。
カーターは自分は「人民党」だとアピールした。つまり、彼は強者や金持ちに悩まされていることに気づいた米国社会の様々な人々に訴えたのだ。彼自身は富豪のピーナッツ栽培者であったが、米国の普通の農場経営者として自分を見せかけた。ベトナム戦争が終わるまで彼はずっとその支持者だったが、戦争反対の人々への同調者として自分を見せかけた。そして彼は1960年代の若い反政府勢力の多くの人々に軍事予算をカットすると約束してアピールをした。
弁護士への宣伝の演説では、カーターは金持ちを保護するための法律の使用に反対する意見を述べた。彼は黒人女性パトリシア・ハリスを住宅・都市開発省長官に、公民権運動のベテランであるアンドリュー・ヤングを国連大使に任命した。彼はまた国内青年事業団を指導する仕事を、若い元反戦活動家であるサム・ブラウンに与えた。
しかし彼の最も重大な約束は、ハーバード大学の政治学者サミュエル・ハンチントンの三極委員会の報告に沿うことだった。その報告は、どのようなグループが大統領を選挙で選んでも、いったん選ばれたら「その時に大切なことは重要な機関の指導者からの支持を得る能力だ」と述べていた。伝統的な冷戦時代の知識人ブレジンスキーはカーターの国家安全保障の顧問となった。『国防総省秘密報告』によれば、カーターの国防長官ハロルド・ブラウンはベトナム戦争中に、当時の爆撃のすべての制限をなくしてしまうことを構想していた人物であった。カーターのエネルギー省長官シュレジンジャーは、ニクソン政権下では国防長官であったが、ワシントンの記者団のメンバーからは「国防予算の下降傾向を逆転させることを試みる宣伝の原動力」と言われていた。シュレジンジャーはまた原子力エネルギーの強力な支持者であった。
彼の内閣で他に任命された人たちは企業と強いコネクションがあった。財界の著者はカーターの選挙からそれほど長くたっていない時に「今までのところ、カーター氏の動きや論評そして特に内閣の任命はビジネス界にはとても安心を与えるものだった。」と書いていた。ベテランのワシントン特派員トム・ベッカーは次のように書いた。「入手可能な証拠はカーター氏は今までのところウオール街の信頼を選んでいるということだ。」
カーターは人々を抑圧する政府に対しより巧みな政策を始めた。彼は国連大使アンドリュー・ヤングを使って黒人のアフリカ国家の間で米国への友好を築き上げ、南アフリカ(共和国)が黒人へのその方針を自由化するよう勧めた。南アフリカでの平和的な解決は戦略的な理由から必要なことだった。すなわち南アフリカはレーダー追跡システムのために使われた。また南アフリカは重要な米国の企業投資を持っており、必要な原材料の重要な源であった。(特にダイアモンド)したがって米国が必要としていたことは、南アフリカの安定した政府であった。黒人を抑圧し続ければ内乱が起きるかもしれなかったのである。
実用的な戦略的必要性と公民権の前進を結び付ける同じアプローチが他の国々でも使われた。しかし、主要な動機はヒューマニズムより実用的なものだったので、チリの2,3の政治犯の釈放のように「名目的」な色合いの濃いものであった。下院議員ハーマン・バディロが、米国が拷問や裁判なしの投獄で本質的な人権を組織的に侵害している国々への貸付に対し、米国が世界銀行や国際的な金融機関に反対票を投じるように要求する提案をした時、カーターはこの案を打ち破ることをすべての下院議員に勧める個人的な手紙を送った。この案は下院で発声投票を勝ち取ったが、上院では否決された。
カーターのもとでは、反体制派を投獄し拷問を行い大量殺人を行っていた世界中の政権を支持し続けた。フィリピンやイランやニカラグアやインドネシアがその例である。インドネシアでは東チモールの人々がジェノサイド(大量虐殺)ぎりぎりのキャンペーンの中で絶滅されつつあった。
おそらく体制側のリベラル派である新共和党マガジーンNew Republic Magazineは、カーターの政策について賛成をして論評していた。「次の4年間の米国の外交政策は本質的にニクソン・フォード時代に作られた政治哲学の延長線上にあるだろう。これはまったく否定的な展望ではない。連続性は必要である。それが歴史というものだ。」
2.ベトナム戦争へのスタンス
カーターは反戦運動から距離をおく友人として立ち現れたが、1973年の春にニクソンがハイフォン(北ベトナムの都市名)港を機雷封鎖して北ベトナムの爆撃を再開した時、カーターは「細かな決定については同意しようがしまいが、我々はニクソン大統領を支援し支持する」ことを力説した。カーターはいったん大統領に選出されると、ベトナムが米国の爆撃によって荒廃させられたという事実があるにもかかわらず、ベトナム再建へ援助を与えることを拒否した。記者会見でこのことを尋ねられて、カーターは「破壊は双方にあった」ことなので、米国側に特別な再建援助の義務はないと答えた。
米国が地球の半周の距離を横切って膨大な爆撃機の編隊と200万の兵士をベトナムに送り込み、8年後にはこの小さな国の100万人以上の人々を殺害しその土地を廃墟と化したことを考えると、彼の声明は驚くべきものであった。
おそらく体制側のひとつの意図は、将来の世代が戦争を『国防総省秘密報告』の中に出てきたような軍事的経済的利益のために民間人への無慈悲な攻撃としてではなく、不運な誤りとして見るようにすることであった。ベトナム戦争中の主要な反戦知識人の1人であるノーム・チョムスキーは、戦争の歴史が主要なメディアの中でどのように扱われているのか1978年の中ごろを検証して、次のように書いている。メディアは「歴史的記録を破壊し、より快適な物語にしてしまい、戦争の「教訓」を誤りや無知や費用の社会的に中立なカテゴリーに矮小化していた。」
カーター政権は明らかに口当たりのよい攻撃的でない外交政策を行うことによって、ベトナム戦争後の米国人の幻滅を消し去ろうとしていた。したがって、「人権」が強調され、南アフリカやチリに対してその政策を自由化する圧力をかけた。しかし、綿密に調べてみると、これらの自由主義的な政策は世界中の米軍や米国企業の権力や影響力をそのままに残しておけるように仕組まれていた。
3.パナマの利権
中央アメリカの小国パナマ共和国とのパナマ運河条約の再調整はひとつの例である。パナマ運河はその引渡し費用として米国企業に1年に15億ドルを確保させた。米国は1年に通行料として1億5000万ドルを集め、そこから230万ドルをパナマ政府に支払い、その一方でその地域に14の米軍基地を維持していた。
1903年に米国はコロンビアに対する革命を巧みに行い、中央アメリカに新しい小さなパナマ共和国を樹立し、米国に軍事基地とパナマ運河の支配と「不滅の」主権を与える条約を定めた。パナマにおける反米の抗議活動に対応して、カーター政権は1977年にその条約の再調整をすることを決定した。ニューヨークタイムズはパナマ運河についてはきわめて率直に次のように述べている。「我々はパナマ運河を盗み、我々の歴史書から自分たちに不利な証拠を取り除いた。」
1977年までにはパナマ運河はその軍事的重要性を失っていた。パナマ運河には大きなタンカーや航空母艦は入る事が出来なかった。その上、パナマにおける反米の暴動はカーター政権に保守派の反対を押し切って、米軍基地を徐々になくしていく新しい条約を取り決めさせることとなった。(その米軍基地は簡単にその地域の別の場所に移転することができた。)パナマ運河の法律上の所有権は一定期間の後にパナマに引き継がれた。またその条約は、ある状況のもとでは米国の軍事介入の根拠になり得るあいまいな文言を含んでいた。
4.グローバルな搾取
カーターの外交政策がどんなに洗練されたものであろうとも、60年代後半から70年代にかけての基本線で事は動いていた。米国企業は空前の規模で世界中で活動していた。70年代前半までにはおよそ300の米国企業があり、その中には7つの大手銀行が含まれ、米国の外でその純益の40%を稼いでいた。それらは「多国籍企業」と呼ばれていたが、実際のところその最高幹部の98%は米国人であった。彼らは世界の中では米国とソビエト連邦に次いで第3の経済圏を構成していた。
貧困国とのこれらのグローバル企業の関係は長期間にわたり搾取の関係であった。これは米国商務省の統計からも明らかなことである。1950年から1965年にヨーロッパにおける米国企業は81億ドルを投資し55億ドルの利益を上げているが、ラテンアメリカでは38億ドルを投資し112億ドルの利益を上げているし、アフリカでは52億ドルを投資し143億ドルの利益を上げている。
それは古典的帝国の状況であった。天然資源の豊富な国々が強国の犠牲者となり、その強国の権力はその資源を掴んだ富によって支えられていた。米国企業はダイアモンド、コーヒー、プラチナ、水銀、天然ゴム、コバルトの100%を貧困国に依存していた。そして、マンガンの98%、クロムとアルミニウムの90%を外国から得ていた。一定の輸入品(プラチナ、水銀、コバルト、クロム、マンガン)の20から40%はアフリカからであった。
5.巨大な軍事予算
民主党あるいは共和党のどちらが政権の座にあろうが、もうひとつの外交政策の基本は外国の陸軍将校を訓練することだった。軍はパナマ運河地帯に「南北アメリカ学校」を持ち、その学校からラテンアメリカの何千もの軍の指導者が卒業していた。例えばその卒業生のうちの6名は、民主的に選出されたアジェンデ政府を1973年に転覆したチリの軍事政権の人たちであった。その学校の米国の司令官はリポーターに次のように述べた。「我々は卒業生と接触を持ち続け、彼らも我々と接触を持ち続けている。」
そして米国は金持ちに対しては寛大であるという評判を育てた。実際、災害の犠牲者にしばしば援助を与えていたが、この援助はその国の政治的忠誠度によって決まっていた。西アフリカで6年間の干ばつがあった時、10万人のアフリカ人が飢え死にした。カーネギー国際平和基金の報告によれば、米国の国際開発機関(AID)は6カ国をカバーする西アフリカのサヘル地域の遊牧民への援助を与える時には非能率的で怠慢であったと言っていた。AIDの対応は、それらの国々は「米国と緊密な歴史的経済的政治的つながりがない」ということだった。
1975年初頭、マスコミはワシントンからの緊急報告をした。それは「ヘンリー・A・キッシンジャーは米国の支援の削除をするために国連で米国に反対票を投じた国々を選ぶ政策を始めた。」というものだった。いくつかの事例では、その削除は食料や人道的支援の削減も含まれていた。」
ほとんどの支援は公然とした軍事に関するものだった。1975年までに米国は95億ドルの軍事輸出を行った。カーター政権は抑圧的な政権に対しては武器の販売を終わらせると約束したが、それが政権の座につくと大量の販売が続けられた。
そして軍部は巨大な国の予算額を占め続けた。カーターが選挙に出た時、民主党政治綱領委員会に「我が国の防衛や同盟国への義務を危険にさらすことなしに、我々は毎年50から70億ドル程度現在の防衛費を減らすことができる。」と述べた。しかし彼の最初の予算は軍事費の削減ではなく100億ドルの増加であった。実際、彼は次の5年間に軍事費に1兆ドル使うことを提案した。そしてカーター政権は、学校で無料の給食を得ている140万人の貧乏な学童へのミルクのお代わりを与えないことによって、1年に2500万ドルを農務省が節約することを発表していた。
6.不公平な富の偏在
もしカーターの仕事が社会制度への信頼を回復することであったならば、これは人々の経済問題の解決の大きな失策であった。食品や生活必需品の価格は賃金よりもっと早く上昇し続けた。失業率は公には6ないし8%であり、非公式にはその率はもっと高かった。若者や特に若い黒人といった人々のキーとなる集団にとっては、失業率は20から30%もあった。大統領としてカーターを最も支持している集団である米国の黒人たちは彼の政策にひどく失望したことが、すぐに明らかになってきた。堕胎を必要とする貧しい人々への国の援助にカーターは反対をしたが、金持ちの女性は簡単に堕胎できるのでこれは不公平であると指摘された時、彼は「まあ、人生には不公平なことや金持ちには出来て貧乏人には出来ないことは多くあるものだ。」と答えた。
カーターの「人民主義」は石油とガスへの政権の関与の中では見えなかった。消費者のための天然ガスの価格調整をなくしてしまうことが、カーターの「エネルギー計画」だった。天然ガスの大手製造業者はエクソン社だったが、そのエクソンの最大の個人的株はロックフェラー家によって所有されていた。
カーター政権の初期、連邦エネルギー公社は湾岸石油(訳注:Andrew Mellonが1895年に設立)が外資系企業から得る原油価格を79.1ドルと大げさに言っていたことに気づいた。当時その嘘の価格を消費者に湾岸石油は肩代わりさせていた。1978年の夏、カーター政権は湾岸石油が4220万ドル返済することに合意する「妥協」が成立したと発表した。湾岸石油は株主に対して、「前年に十分な準備をしてあったのでその支払いが収入に影響を及ぼすことはないだろう」と通知した。
湾岸石油との妥協を成功させたエネルギー省の弁護士は、この妥協は長期にわたり費用のかさむ訴訟をさけるためになされたのだと言った。その訴訟はその妥協で届けられた3690万ドルの費用がかかったのだろうか。政府は不正所得の半分のお返しとして服役期間なしに銀行強盗を釈放することを考えたのだろうか。この解決はカーターが選挙期間中に弁護士の会合で法律は金持ちの側にあると述べたことの完璧な一例であった。
米国の富の不公平の基本的な事実は、保守派であろうがリベラルであろうがカーター以前の政権によって引き起こされていたのと同じように、カーターの政策によっても明らかに引き起こされたのだ。米国エコノミストであるアンドリュー・ジンバリストの1977年の『ル・モンド外交』の記事によれば、米国人の上位10%が会10%の30倍の収入があり、米国の上位1%の人々が富のうち33%を所有していた。5%の最富裕層が個人で所有されている会社株の83%を所有していた。100の大企業は、(累進課税で金持ちは少なくとも収入の50%を税金として支払っていると人々に誤解を与えていたが)平均で26.9%の税金を支払っているだけであったし、主要な石油会社はわずかに5.8%を支払っていただけだ。(1974年の主税局の統計)実際20万ドル以上を稼いだ244人の個人は税金を全く払わなかった。
1979年、カーターは貧しい人々のための給付金について弱々しく提案をしたが、議会は強くその提案を却下した。ワシントンの「子どもを守る基金」の理事である黒人女性マリアン・ライト・エーデルマンはいくつかの事実を指摘した。米国人の子ども7人のうち1人(全部あわせて1000万人)は定期的な基本的医療保障がない。17歳以下の子ども3人に1人(全部合わせて1800万人)は歯医者に行ったことがない。ニューヨークタイムズの特集記事で彼女は次のように書いた。
上院予算委員会は最近、子どもたちの健康問題を審査し扱う要綱を改善する政府のわずかばかりの要望額2億8800万ドルを8800万ドルに引き下げた。それと同時に、上院はリットンインダストリーズに財政的緊急援助をし、イラン王制からの注文された少なくとも2隻の駆逐艦を海軍に引き渡すために7兆2500万ドルを見い出した。
カーターは主に企業に利益を与える税制「改革」を認めた。エコノミストのロバート・レカッチマンは『ネイション』(The Nation)の記事の中で、前年に比べ1978年の下四半期の企業利潤の急激な増加(44%)に注目をした。「昨年11月に大統領は無法な行動をとり、裕福な個人や企業に莫大な利益をもたらす1800万ドルの減税に署名をした。」と彼は書いた。
1979年、貧しい人々が賃金カットに苦しんでいる一方で、エクソンオイルの会長の給与は1年に83万ドルに引き上げられていたし、モービルオイルの会長の給与は1年に100万ドル以上に引き上げられた。その年はエクソンの純利益が56%上がり40億ドル以上になったのに、3000の小さな独立したガソリンスタンドは仕事をやめた。
カーターは社会計画を預かるいくらかの努力をしたが、これは大変に大きな軍事予算でその根元を削り取られてしまった。おそらくこれはソビエト連邦への用心のためだったが、ソ連が1979年にアフガニスタンに侵入した時、カーターは法案を再制定したり、1980年のモスクワオリンピックのボイコットを呼びかけるような象徴的な行動を取れたにすぎなかった。
7.イラン革命
一方、米国の兵器は海外の左翼の反体制派と戦う独裁者の政権を支援するために使われた。カーター政権の1977年の議会への報告ははっきりしないものだったが「人権を守らない嘆かわしい素性の国々のいくつかは、我々が重要な安全保障と外交政策の利益を持つ国々でもある。」
カーターは1980年の春に議会にエルサルバドルの農民の反乱と戦う軍事政権に5700万ドルの貸付金を求めた。1978年の下院の総選挙の後フィリピンでは、フェルディナンド・マルコス大統領は21名の選挙で破れた反対派の候補者のうち10名を拘留した。多くの囚人たちは拷問にかけられ、多くの市民が殺された。それでもなお、カーターは連邦議会にマルコスに3億ドルの軍事援助を向こう5年間与えることを求めた。
ニカラグアでは、米国は何十年もの間ソモサ独裁政権を維持する援助を行った。この政権の基本的脆弱さと、それに反対する革命勢力の人気を読み誤って、カーター政権は1979年のほぼ政権崩壊までソモサを支援し続けた。
イランでは、1978年の終わり頃、シャー(王政)の独裁政権に対する長年の憤慨のため大規模な大衆デモが巻き起こっていた。1978年9月8日、何百ものデモ参加者がシャーの軍隊によって虐殺された。テヘランからのUPI電によれば、翌日カーターはシャーへの支持をはっきりと打ち出した。
「シャー(王政)に反対するデモ参加者に対して軍隊が、デモの3日目の昨日攻撃を始めた。ジミー・カーター大統領は王の宮殿に電話をして、37年間の支配の最大の危機に直面していたモハマド・レーザ・パーレビ国王への支持を表明した。9人の下院議員はイランの新しい首相の演説から抜け出て、彼の手は保守的なイスラム教徒と他の異議を申し立てる人々を取り締まる中で「血で汚れている」と叫んだ。」
1978年12月13日、ニューヨークタイムズでニコラス・ゲイジは次のように報告した。
「大使館筋の情報によれば、ここ米国大使館の職員はシャーの支配に対する増大しつつあった挑戦に対してシャーを支援するために送り込まれた専門家たちによって支えられている。新しく到着した専門家にはCIAのイラン専門家や外交官、軍人が含まれている。」
1979年の初頭、イランの危機が強まっていた時、CIAのイランの主要な以前のアナリストがニューヨークタイムズのレポーターであるセイモア・ハーシュに次のように述べた。彼と彼の同僚はCIAの援助でシャーによって1950年代の遅くに作られたイランの秘密警察であるサバキによって、イランの反体制派が拷問にかけられたことを知っている。さらに彼は、上級のCIAの職員がサバキの当局者に拷問の技術を教えることに関わっていたことを付け加えた。
それは大衆的な大規模な革命で、シャーは国外へ逃げた。カーター政権は後にシャーをおそらく治療のために米国に受け入れたが、これは革命家たちの反米感情を大きくした。1979年11月4日、テヘランの米国大使館は学生たちの闘士によって占拠された。彼らはシャーを罰するためイランに帰すよう要求し、52人の大使館員を人質にとった。
続く14ヶ月間、人質を大使館の建物に閉じ込めて、この問題は米国の外電のトップニュースとなり、米国国民の強力な国家主義の感情を刺激した。カーター政権が移民帰化局に有効なビザを持たないイラン人学生に対する国外追放の手続きを始めるよう命じた時、ニューヨークタイムズは慎重ではあるが明確な承認を与えた。政治家や報道機関はヒステリー状態となった。高校の卒業式であいさつをすることになっていたイラン系アメリカ人の少女は、その予定からはずされた。「イランを爆撃せよ」というバンパー・ステッカーが国中の自動車に貼られた。
52人の人質が生きて明らかに元気で開放された時、ボストン・グローブのアラン・リッチマンのように、このことや人権の他の侵害への米国の対応にはある種の釣り合いの欠如があると指摘するような大胆なジャーナリストはまれであった。「52人の人質がいたがこれは把握しやすい数であった。それはアルゼンチンで永久に消えてしまった15000人の罪のない人々のようではなかた。...米国人の人質は私たちの言語を話した。私たちの言語を話さないだいたい3000人の人々が昨年グアテマラで撃たれた。」
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8.レーガン・ブッシュ時代の始まり
レーガンの選挙での勝利は(このあと8年後にはジョージ・ブッシュが選出されるが)、カーター大統領よりさらに自由主義の傾向に欠ける別の体制側の人たちが政権担当をすることを意味した。その政策は貧乏人の利益をさらにひどく削減し、金持ちの税金を引き下げ、軍事予算を増やし、連邦裁判所を保守的な裁判官で満たし、カリブ海の革命運動を破壊するために活発に活動するものであった。レーガン・ブッシュ大統領の12年間は、連邦司法部を決して適度に自由主義的なものとはせず、主に保守的な機関に変えてしまった。1991年の秋、レーガンとブッシュは837の連邦裁判官の地位を補充し、最高裁判所を変えるために右翼の裁判官を任命した。
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株式会社アメリカはレーガン・ブッシュ時代の大きな受益者となった。60年代から70年代に、大気や海や川や川の汚染や、労働条件の劣悪さのために何千もの人々が死亡したため、国内では重大な環境保護運動が生まれてきていた。1968年11月に、ウエストバージニアの鉱山の爆発で78名の鉱夫が死亡した後、鉱山地帯で激しい抗議があり、議会は1969年に炭鉱健康安全法を可決した。ニクソン政権の労働長官は「新しい国家の情熱、環境改善への情熱」を語った。
翌年、労働運動と消費者団体の強い要求に屈して、また労働者の有権者の支持を得る機会ととらえて、ニクソン大統領は1970年に職業安全衛生法に署名をした。これは重要な立法で、安全で健康な職場への普遍的な権利を確立し、その実施機構を作り出した。数年後にこのことを振り返って、ニクソンの経済諮問委員会の議長であったハーバート・シュタインは次のように嘆いた。「環境規則の不可抗力的なものについてはニクソン政権でも統制ができないことが明らかになった。」
労働安全衛生局の計画を賞賛してジミー・カーター大統領が就任した時、彼はまた経済界をしきりに喜ばせたがった。労働安全衛生局の局長に彼が任命した女性は、職業安全衛生法の実施に強力に闘い、時々成功を収めた。しかし石油価格やインフレや失業率の上昇にともない米国経済が困難の兆候を示したので、カーターはその法律が経済界に生み出す困難についてますます気にかけているようだった。たとえ労働者や消費者に有害であっても、企業への規則を取り除き大目に見ることを彼は主張するようになった。
環境保護の規則はますます「コスト利益」優先の犠牲となり、大衆の健康と安全を守る規則は二の次となり、それが会社にとってどれほど犠牲の大きいものなのかが優先された。
レーガンとブッシュの下、企業利潤の手短な用語である「経済」への懸念が、労働者や消費者のどのような懸念よりも優越した。レーガン大統領は環境保護の法律の厳格な実施に代えて「自発的な」アプローチを行うことを提案した。これは企業が何を行うかを自分たちで決定するよう企業に任せるものだった。彼は労働安全衛生局長官として、その目的に敵意を持っている実業家を任命した。彼が最初に行ったことは、繊維労働者に綿ぼこりの危険性を指摘する政府の10万冊の小冊子を廃棄するよう命令することだった。
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9.企業利益保持と社会保障の削減
....巨大な軍事態勢を維持し石油企業の利益水準を保持する事が、レーガン・ブッシュ政権のふたつの目的だったようだ。ロナルド・レーガンが就任したすぐ後に、石油産業の幹部たちはホワイトハウスの居住区を改装するために27万ドルの献金を行った。AP通信によれば「請願の動きは....石油産業に20億ドルの価値があった決定である石油価格の統制を解除した4週間後にあった。コア石油ガス会社のオクラハマシティのジャック・ホッジスは言った。“この国のトップに立つ男は最上の場所に住むべきだ。レーガン氏はエネルギー業界を援助してくれたから。”」
レーガンは軍事体制を築き上げる(在任中の最初の4年間で1兆円を越える額を割り当てた)一方で、貧乏人の利益を削減してこの費用を払おうとした。1984年には社会計画で1400億ドルの削減をし、同じ時期に「防衛」予算を1810億ドル増加させた。彼はまた1900億ドルの減税を提案した。(この大部分は大金持ちに流れるものだった。)
減税と軍事支出にもかかわらず、レーガンは減税は新しい収入を生み出し経済を刺激するので予算のバランスがとれていると主張した。ノーベル賞を獲得したエコノミストであるワシリー・レオンチェフは「そんなことは起きる可能性がない。実際それは絶対に起きないと私は個人的に保証する。」と素っ気なく述べた。
実際、商務省の数値は法人税を下げられた期間(1973年〜1975年、1979年〜1982年)はより高い設備投資を示さず急激な落下があったことを示していた。設備投資の急激な上昇(1975年〜1979年)は、法人税がその前の5年間より少し高かった時に起きていた。
レーガンの人道的なものに対する予算の削減の結果は深刻なものがあった。例えば、社会保障の35万人の身体障害者給付金が打ち切られた。連邦政府は身体障害なので働けないと証言する会社の医師と州の監督官の主張を却下して、油田の事故で怪我をした男を仕事に戻るよう強制した。その男は死亡し、連邦の役人は「私たちは広報活動の問題を持っている。」(??)と言った。ベトナム戦争の英雄ロイ・ベナビデズは、レーガン大統領から議会の名誉勲章を貰っていたが、心臓や腕や足の銃弾の破片によって働けないことはないと社会保障の役人に告げられた。議会の委員会に出席して、彼はレーガンを非難した。
レーガン政権の時代に失業が増加した。1982年には、3000万人が一年中あるいは数ヶ月の間失業をしていた。その結果1600万人の米国人が医療保険を失った。というのは医療保険は仕事をしている時に保障されているからだ。ミシガン州では、国内で一番失業率が高く、1981年に幼児死亡率が上昇し始めた。
新しい要求は、100万人以上の子どもたちの無料の学校給食を廃止してしまった。これは子どもたちの毎日の栄養摂取の半分を占める食事であった。数百万の子どもたちは公式に「貧しい」と宣言されているランクに入り、米国の4分の1の1200万人の子どもたちが貧困の中で生活していた。デトロイトのいくつかの地域では、幼児がバングラデシュと同じ割合で死亡していた。ニューヨークタイムズは「米国の空腹の人々に起きていることを考えると、この政権は恥の原因をもっているだけだということになる。」
被扶養児童家族援助の計画を通じての母子家庭への援助や食糧配給券や医療扶助による貧しい人々のための医療保障などの福祉は、攻撃の対象となった。生活保護を受けている大部分の人々にとって(州によって給付金は異なっていたが)、これは補助の額が月に500ドルから700ドルを意味し、月およそ900ドルの貧困レベルより低い状態にしておくことを意味した。黒人の子どもたちは白人の子どもたちの4倍の者が生活保護を受けて成長する可能性があった。レーガン政権の初期においては、政府の援助は不必要で民間企業が貧困の面倒をみるという主張に答えて、ある母親は地方紙に次のように書いた。
「私は被扶養児童家庭援助を受けていて、ふたりの子どもは学校に行っています。私は1000人以上のクラスで128番の優秀な成績で大学を卒業し、英語と社会学の文学士の資格を持っています。私は図書館の仕事、子どもの世話、社会事業そしてカウンセリングの仕事の経験があります。私はCETAの事務所へ行ったことがあります。そこには私の仕事は何もありませんでした。...また私は新聞の求人広告に目を通すために毎週図書館へ行っています。私は履歴書といっしょに送ったすべての手紙の表紙のコピーを持っています。そのコピーの束は何インチもの厚さがあります。私は年にせいぜい8000ドルの仕事に申し込みをしてきました。私は時給3.5ドルで図書館でパートで働いています。生活保護は補填をするため私の分担額を減らしています...。私たちは採用できない職業安定所、統治できない政府、働きたい者に仕事を作れない経済体制を持っているようです。...先週私は自動車保険を支払うためにベッドを売りました。大量輸送機関がない時に、私は職を探しに行くのに自動車が必要だからです。私は誰かがくれたスポンジゴムの上で寝ています。これが私の両親がこの国にやって来て求めていた大きなアメリカン・ドリームなのです。一生懸命勉強し、よい教育を受け、規則に従いなさい、そうすればあなたは豊かになれるだろうと。私は金持ちになどなりたくありません。私はただ子どもたちを食べさせ上辺だけの品位を持ちたいだけです。....」
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10.不公平な税制
レーガン政権は議会で民主党の援助も受けて、大金持ちに税率を50%に引き下げ、1986年には着共和党と民主党の連立が税率の最高を28%まで引き下げる別の「税制改革」の法案を後援した。バレットとスティールは、学校の先生も工場労働者も億万長者もみな28%の税金を支払えばいいことを特に言及した。金持ちがだれよりも高い率で税金を払う「進歩的な」所得の考え方は、今やほとんど死んだも同然だった。
1978年から1990年の税金のすべての法案の結果として、(「資本主義の道具」として自らを宣伝していた)フォーブズ誌によって国内で最も豊かな人として選ばれた「フォーブズ400」の純資産は3倍となっていた。およそ1年に700億ドルが政府収入の中で失われ、この13年間のうちに国内で最も富裕な1%の人々が1兆ドルを得た。
ウイリアム・グレイダーは彼の『誰が人々に告げるのか。アメリカの民主主義の裏切り。』という注目すべき本の中で次のように指摘している。
これまでに起きたことで共和党を批判し民主党がホワイトハウスに返り咲くことさえすれば公平な課税制度が復元されると信じている人々にとって、不安にさせる次のような事実がある。金持ちのエリートが大きな勝利を治めた課税政策の分岐点は、民主党が権力を握りロナルド・レーガンがワシントンに来る前の1978年に起きた。民主党の多数派は不平等な税負担の一歩一歩のこの大きな転換を支持してきた。
所得税の仕組みが今世紀の最後の数十年間にますます後退したばかりでなく、社会保障税も後退した。すなわち貧乏人や中産階級の給料からますます多くの税金が差し引かれたが、給料が42000ドルに達するともはやそれ以上は差し引かれなかった。1990年代初頭までに、年収37800ドルの中流家庭は社会保障税としてその収入の7.65%を支払った。その10倍の37万8千ドルの年収の家族は社会保障税として1.46%を払ったにすぎない。このより高い給与税の結果、賃金労働者の4分の3の人は所得税を通じてより社会保障税を通じて毎年より多くの税金を払ったことになる。労働者階級の党と考えられていた民主党にとっては困ったことに、これらの高い給与税はジミー・カーター政権のもとで提案されたことだった。
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レーガン時代の終わりまでには、米国の金持ちと貧乏人の格差はたいへんに広がった。1980年に企業のトップに位置する人々は平均的工場労働者の40倍の給与をもらっていたし、1989年までにはそれは93倍になっていた。1977年から1989年までの12年間で、最も豊かな1%の人々の税込みの収入は77%上昇した一方、人口の5分の2を占める最も貧しい人々の収入は全く増えず実際はわずかばかり下がっていた。
租税構造が金持ちに有利に変更されてきたので、1990年までの10年間に、最も豊かな1%の人々は税引き後の収入が87%増えた。同じ時期に、下位の人口の5分の4の人々の税引き後の収入は(最も貧しいレベルで)5%下がったり、増えた者もわずか8.6%の増加だった。
下位のレベルの人々の状態はひどかったが、特に黒人やヒスパニックや女性や若者にとって大きな損害があった。レーガン・ブッシュ政権時代に生み出された最低の所得者層の一般的な貧困化は、事を始めるための物がなく、仕事でも人種差別があるため、黒人家族に最も強烈に襲いかかった。公民権運動の勝利は何人かのアフリカ系アメリカ人には空間を開いたが他の人々を遅れたままの状態にした。
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11.二大政党に支えられた軍事費
トルーマンからレーガン・ブッシュに至る第2次世界大戦後の巨大な軍事予算のすべては、民主共和両党によって圧倒的に認められてきた。
核兵器や非核兵器を作る数兆円の支出は、軍事力を築いていたソビエト連邦が西ヨーロッパを侵略するだろうという脅威によって正当化された。しかし前ソビエト連邦駐在大使で冷戦の理論家のひとりでもあったジョージ・ケナンは、この脅威は実は何の脅威もないと言った。そして25年間CIAで働き、かつてはCIAのスパイ作戦の長官だったハリー・ロシツケは1980年代に次のように書いていた。「政府の中に在任していた間そしてそれ以降も、ソ連が西ヨーロッパを侵略したり米国を攻撃することがソ連にどれほど利益があるのかを示す諜報機関の見積もりを私は今までに見たことがない。」
しかし、そのような恐怖心を人々の心に作り出すことは、恐ろしい過剰な武器を作る議論には役に立つものだった。例えば、数百の核弾頭を発射できるトライデント潜水艦は15億ドルかかった。それは核戦争の時を除いては全く意味のないものであった。そしてそれはすでに利用可能な数千の核弾頭に数百の核弾頭を加えるにすぎなかった。その15億ドルは、致命的な病気に対して世界中の子どもたちに予防接種をして500万人の死を防ぐ5カ年計画に融資をできる十分な額だった。(ラス・シバード、世界の軍事と社会的支出 1987−1988)
1980年代には、国防総省の研究をしていたランド会社のアナリストがいつもと違って実に率直に、膨大な数の兵器は軍事的観点からすれば不要であるが、国内や海外であるイメージを伝えるためには有益であると、インタビューアーに次のように述べた。
「もし強力な大統領と防衛秘書を持つならば、あなたは一時的に議会へ行って“我々は必要としていることをただ築くだけだ。...そしてもしロシア人が2倍のものを作るなら、我々も強力なものをつくるのだ。”しかしそれは政治的には不安定なものである..。したがって我々の国内の安定と国際的な認識にとっては、たとえ競争の客観的な意味が...疑わしいものであっても、我々はよい競争相手のままであると主張することのほうが良いことである。」
1984年、CIAはソ連の軍事支出を誇張していたこと、そして1975年以来ソ連の軍事支出が実際は2%であったのに毎年4から5%増えていると主張していたことを認めた。このようにして、誤った情報あるいはもっと言うならば詐欺によって、軍事支出を増やしたのである。
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1989年にソ連が崩壊し始め、もはや「ソ連の脅威」がなくなった時、軍事予算は幾分か減らされたが、それでもなお民主共和両党によって巨額のままであった。1992年、下院軍事委員会の委員長で民主党のレス・アスピンは、新しい国際情勢を考慮して、軍事予算を2810億ドルから2750億ドルに引き下げることを提案した。
同じ年民主共和両党は軍事予算のわずかな削減を支持したが、ナショナル・プレス・クラブのために行われた世論調査は次の5年間で国防支出の50%削減を59%の有権者が望んでいることを示した。
両党とも軍事予算を高水準に維持すべきだということを市民に説得することに失敗したようだ。しかし彼らは民意を代表すべきなのに民衆を無視し続けた。1992年の夏に、議会の民主共和両党は軍事予算から人々の必要事項への資金を移動することに反対をした。そして、ヨーロッパを「防衛」するために1200億ドル費やすことを可決した。ソ連の攻撃からの危険など、かつてはあったのかもしれないが、もはやヨーロッパにはなかったのにである。
民主共和両党は長い間「二大政党提携の外交政策」で手を組んできたが、レーガン・ブッシュ政権時代に米国は海外での軍事使用で特別な侵略性を示した。これは侵略の中で直接使われるか、米国と協力する右翼的専制的な政権への公然のあるいは秘密の支援の中で使われた。
12.ニカラグア革命
レーガンはニカラグアで革命が起きた直後に大統領となった。ニカラグアでは評判のよい(1920年代の革命的英雄アウグト・サンディノにちなんで名づけられた)サンディニスタの運動が(米国によって長く支援されてきた)腐敗したソモサ王朝を転覆した。マルクス主義者と左翼の司祭と雑多な民族主義者の連合体であるサンディニスタは、農民に対しより多くの土地を与え、貧しい人々に教育と医療保障を広げることに着手しようとしていた。
レーガン政権はこのことを「共産主義」の脅威と見なし、さらに重要なことには中央アメリカにおける長年の米国の支配への脅威と見なして、サンディニスタ政権を転覆することを即座に画策し始めた。CIAに反革命軍(「コントラ」)を組織させることによって極秘の戦争を米国は行った。その「コントラ」の指導者の多くは、ソモサ政権下の憎むべき国家警備隊の元指導者たちであった。
「コントラ」はニカラグア内部では大衆の支持が全くなかったため、米国に支配されていた隣国の貧しい国ホンジュランスにその本拠地を置いていた。ホンジュランスから国境を越えて、農場や村を攻撃し、男や女や子どもたちを殺害して、残虐行為を行った。「コントラ」の元大佐エドガー・チャモロは国際司法裁判所で次のように証言をした。
「サンディニスタを破る唯一の方法は、政府機関(CIA)が他の場所のように共産主義の反乱のせいにする戦略を使うことだ、そして殺し誘拐し略奪し拷問しろと、我々は言われていた。多くの一般市民が冷酷に殺害された。多くの他の人々が拷問にかけられ、手足を切断され、暴行され、略奪され、別の方法で虐待された。...私がそれに加わることに同意した時....私はそれがニカラグア人の組織であることを期待した....しかしそれは米国政府の単なる道具であることが分かった...。」
ニカラグアの米国の行動を秘密にしていたのは理由があった。世論調査は米国民はそこでの軍事的関与に反対をしていたからである。1984年、CIAはラテン・アメリカの政府機関を使って、その関与を隠し、船を爆破するためにニカラグアの港に機雷を敷設した。その情報が漏れた時、国防長官ワインバーガーはABCニュースに「米国はニカラグアの港に機雷を敷設していない。」と述べた。
その年の暮れに、連邦議会はおそらく世論とベトナムの記憶に対応して、米国が「ニカラグアの直接的間接的に軍事的準軍事的な作戦」を支援することを違法とした。レーガン政権はこの法律を無視して「第3の政党の支持」を探しながら、「コントラ」に資金提供する方法を見つけることを決めた。レーガン自身はその資金の少なくとも3200万ドルをサウジアラビアに求めた。グアテマラの友好的な独裁政権は秘密裏に「コントラ」へ武器を与えるために使われた。米国の援助に依存し、いつもその支援で頼りになるイスラエルも使われた。
13.イラン・コントラ事件
1986年、ベイルートの雑誌に出た話がセンセイションを引き起こした。それは米国によって(表向きは敵とされている)イランに武器が売却され、その代わりにレバノンのイスラム過激派に拘束されていた人質をイランが解放する約束をし、その武器売却で得た利益は、武器を買うために「コントラ」に与えられていたというものだ。
1986年11月記者会見でこのことを尋ねられた時、レーガン大統領は4つのウソをついた。その4つのウソとは、イランへの武器の出荷は2,3の形ばかりの対戦車ミサイル(実際は2000あった)であり、「第三者の」の出荷を米国は許さなかったこと、武器と人質が交換されるようなことはなかったこと、そしてその作戦の目的はイラン穏健派との対話を促進することだったと述べたことだった。しかし実際その目的は人質を解放し、その功績を認められて「コントラ」を助けるという二重のものだった。
その前の月に、「コントラ」へ武器を運んでいる輸送機がニカラグアの砲撃によって撃ち落され米国のパイロットが捕まった時、ウソが拡大された。(「米国政府とは何も関係がない」と)副国務長官のエリオット・エイブラムズがウソをついたし、国務長官のシュルツもウソをついた。捕らえられたパイロットはCIAのために働いていたという証拠が上乗せされた。
イラン・コントラ問題全体は米国の体制側の二重の防衛線の完全な例となった。第1の防衛線は真実を否定することだった。もし真実が暴露されれば、第2の防衛線が研究されることになっていたが、そのようなことはそれほどなかった。報道機関はそれを公にするだろうが、問題の核心にせまることはないだろう。
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14.グレナダ侵攻
イラン・コントラ事件は、米国政府がその外交政策で望んでいる目標を追求する時には、自国の法律をも破るという多くの例のひとつにすぎない。1973年ベトナム戦争の終わり頃、連邦議会はインドシナで情け容赦なく使われていた大統領の権限を制限するために、「戦争権限法」を通過させた。この法律は以下のように述べていた。
「すべてのあり得る事例において、戦争行為あるいは差し迫った戦争行為へ関与が状況によって明確に示されているところへ米軍を導入する時には、大統領は議会と事前に相談をしなければならない。」
ジェラルド・フォード大統領は即座にこの法律を破り、マヤグエス号の米国の商船隊員を一時的に拘留したことに対する報復として、カンボジアの島への侵略とカンボジアの町への爆撃を命じた。攻撃命令を出す前に彼は議会に相談などしなかった。
1982年の秋、レーガン大統領は内戦が起こっていたレバノンの危険な状況のもとに米国海兵隊員を送ったが、ふたたび「戦争権限法」の要件を無視した。次の年、テロリストによって兵舎で爆弾が爆発させられ、200人以上のその海兵隊員が殺害された。
そのすぐ後の1983年10月には(何人かのアナリストは、これはレバノンでの惨事から注意をそらすために行われたと結論付けているが)、レーガンはカリブ海の小さな島グレナダに米軍を侵攻させた。ふたたび議会は通告をされ、相談はされなかった。この侵略(公には「緊急の猛威」作戦と呼ばれていた)の米国人に示された理由は、グレナダで起きた最近のクーデターが米国市民(島の医学校の学生たち)を危険にさらしており、東カリブ海諸国機構から介入をするよう緊急の要求を米国が受けたというものだった。
1983年10月29日のニューヨークタイムズの特派員バーナード・グワーツマンの異例の辛らつな記事は、これらの理由をくつがえした。
「米国と他の友好国に軍事援助を求める正式の要求は、米国自身の要求で先週の日曜日東カリブ海諸国機構によって行われたものだった。米国はその集団の条約の条件下で行動するよう要求されているという証拠を示したかったからだ。しかし、その正式の要求はワシントンで起草され、米国の特別な密使によってカリブ海の指導者たちに伝えられたものだ。」
キューバとカナダ両国は、米国の艦船がグレナダに向かっているのを見た時、米国人学生は安全であることを約束し米国の侵略が行われないよう力説する緊急のメッセージを米国に送った....。米国政府が米国人を平和的に引き上げさせる断固とした努力をした兆候はない。....米国政府当局者は、グレナダ政府と交渉をしようとする意向がないことも認めた。....「我々は間に合ってそこに行けた。」と大統領は言った。....論争の主要な点は、侵略を正当化するほどの危険性がグレナダ島の米国人に実際にあったかどうかということだった。米国政府当局者は、米国人が虐待されている、あるいは米国人が島を去りたくてもそれができないというしっかりした証拠を作ることができなかった。
この侵略の本当の理由は、米国高官がグワーツマンに述べているが、米国は(ベトナム戦争の敗北感を克服すると決意して)自分たちが本当に強力な国であることを示すことだった。
「米軍を実際に使わずして、その演習や誇示だけで何の意味があるのか。」
米国の軍事介入と資本主義的企業の促進のつながりはカリブ海では常にひどいものだった。グレナダに関しては、その軍事侵攻の8年後(1991年10月29日)ウォール・ストリート・ジャーナルの記事が次のように述べていた。これは「銀行の侵略」であり、7500人の人口のグレナダの首都セイント・ジョージに64人にひとつの割合で118の海外銀行があった。「セイント・ジョージはカリブ海のカサブランカつまりマネー・ロンダリングや脱税や多様な財政上の詐欺のための急成長する避難所となっていた。」
15.エルサルバドル軍事政権の支援
様々な米国の軍事介入の研究の後に、政治学者のステファン・シャロム(『帝国のアリバイ』)は、次のように結論付けた。すなわち「米国国民を救うためではなく(米国の介入がなかったならその米国国民はもっと安全だっただろう)、ワシントンがカリブ海地域を支配し、ワシントンの意志を貫くためにいつでも発作的な暴力を使う用意があることを明確にする目的で」侵略された多くの国々の人々は死んだのだ。彼はさらに続けて述べている。
「米国市民が本当に危険にさらされたいくつかの事例がある。例えば、1980年にエルサルバドルで政府に支援を受けた政治的暗殺集団によって4人の女性信者の事例だ。しかし、ここでは米国の介入や海兵隊の上陸、援護の爆撃攻撃はなかった。その代わりワシントンは軍事経済援助、軍事訓練、情報共有そして外交支援でその政治的暗殺集団を支援していた。
2%の人口が60%の土地を所有しているエルサルバドルでの米国の歴史的役割は、貧しい人々がどれほどいようと、米国の実業界の利益を支援してくれる現地の政府が政権を握っていることを保証することだった。実業界のお膳立てを脅かす民衆の反政府勢力のライオンたちは、反対を受けることになっていた。1932年に大衆的な暴動が軍事政権を脅かした時、米国は現地政府を支援するため1隻の巡洋艦と2隻の駆逐艦を送った。この間に現地政府は3万人のエルサルバドル人を虐殺した。
ジミー・カーター政権はこの歴史を逆転させるために何もしなかった。ラテンアメリカの改革を米国は必要としていたが、米国企業の利益を脅かす革命は望んでいなかった。1980年国務省の経済情勢の専門家リチャード・クーパーは、さらに公平な富の配分が望ましいと述べた。[また次のようにも付け加えた。]「しかし、私たちはまたその経済体制の中で続いているスムーズな機能の中に膨大な投資をしている。....その体制の大きな変化は私たち自身の繁栄に重大な影響を与え得る。」
1980年2月、エルサルバドルのカトリック大司教オスカー・ロメロはカーター大統領に個人的な手紙を送り、エルサルバドルへの軍事援助を止めるよう求めた。その少し前、州兵と国家警察はメトロポリタン大寺院の前で抗議する人々に攻撃を開始して24人を殺害した。しかしカーター政権は軍事援助を続けた。次の月にはこの大司教ロメロが暗殺をされた。
その暗殺は右翼のリーダーだったロベルト・ダブイスンによって命じられたという証拠が大きくなりつつあった。ダブイスンは副国防大臣ニコラス・カランサの保護を受けていた。ニコラスは当時CIAから9万ドルを受け取っていた。そして皮肉にも人権担当大臣次官補エリオット・エイブラムズが、ダブイスンは「殺人に関与していなかった」と宣言した。レーガンが大統領になった時、エルサルバドルへの軍事援助は急に上昇した。1946年から1979年のエルサルバドルへの軍事援助の総額は1670万ドルだった。レーガン在任中の最初の1年でその数字は8200万ドルに上昇した。
連邦議会はエルサルバドルでの殺人に大変当惑していたので、これ以上の援助を与える前に、現地の人権問題での進歩があることを大統領は証明すべきだと主張した。レーガンはこれをまじめに受け取らなかった。1982年1月28日、いくつかの村での政府の大虐殺の報告があった。その次の日、レーガンはエルサルバドル政府は人権に関して改善していることを証明した。その証明の3日後、軍人がサンサルバドルの貧しい人々の家を襲撃して20人の人々を引きずりだし殺害した。
1983年の終わり頃、連邦議会は[人権改善の]証明の要件を継続する法律を通過させたが、レーガンはそれを拒否した。
マーク・ハーツガードが彼の著書『ひざまずいて』の中のドキュメントのように、報道機関は特にレーガン時代は臆病で媚びへつらう姿勢だった。ジャーナリストのレイモンド・ボナーはエルサルバドルでの残虐行為と米国の役割を報道し続けたが、ニューヨークタイムズは彼を仕事からはずした。1981年、ボナーは米国によって訓練された多くの軍人によるエル・モゾテの町の数百人の一般市民の大虐殺について報道していた。レーガン政権はその記事をあざ笑っていたが、1992年に法医人類学者のチームがその虐殺現場からその大部分が子どものものである骨格を発掘し始めた。次の年には国連の委員会がエル・モゾテの大虐殺を確認した。
レーガン政権は、ラテンアメリカの軍事政権(グアテマラ、エルサルバドル、チリ)が米国に友好的であれば、彼らに不快感を持つことは全くないようだったが、その軍事政権が敵対的になるとたいへんに憤慨した。1986年のリビアのムアマル・カダフィー[訳注:1969年無血クーデターで軍事政権樹立]の政府がその例であった。未知のテロリストが西ベルリンのディスコを爆破し1人の米軍兵士を殺害した時、ホワイトハウスは即座に報復することを決めた。カダフィーは何年もの間の様々なテロリズムにおそらく責任があったが、この事件では彼に責任があるという本当の証拠はなかった。レーガンは目的を達成する決意をした。首都トリポリの上空に航空機が送られ、彼らはカダフィーの家を狙えと特別の命令を受けていた。しかし爆弾は混雑した町の中に落ち、おそらく100人の人々が殺害されたとトリポリの外交官によって見積もられた。カダフィーは怪我もしなかったが、彼の養女が殺害された。
ステファン・シャロム教授はこの事件を分析して書いている。(『帝国のアリバイ』)「もしテロリズムが非戦闘員を標的として政治的に動機付けられたものと定義するならば、その年のもっとも深刻な国際テロリズムの事件のひとつは、まさにこのリビアへの米国の攻撃である。」
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米国の外交政策は単にソビエト連邦の存在だけでなく、世界のあらゆる場所における革命の脅威によって動機付けられているということが、これまで疑われてきたが、今や明らかになった。急進的な社会批評家ノーム・チョムスキーは長い間次のように言い続けてきた。「安全へのアピールは大変なまやかしであって、それがヨーロッパであろうが日本であろうが第三世界であろうが、冷戦の枠組みは独立した民族主義への抑圧を正当化する道具として使われてきた。」(『新旧の世界秩序』)
「独立した民族主義」に対する恐怖は、このことが強力な米国の経済利益を危険にさらすからであった。ニカラグアやキューバやエルサルバドルやチリにおける革命は、ユナイティド・フルーツやアナコンダ・コッパーやインターナショナル・テレフォン・アンド・テレグラフなどの企業にとって脅威であった。このように、「国益の中」で民衆に提示される外国への介入は実は特別な利益団体のために行われているのだ。その利益団体のために米国民は自分たちの子どもたちや税金を犠牲にするよう要求されていた。CIAはそれがまだ必要であることを証明しなければならなかった。ニューヨークタイムズ(1992年2月4日)は次のように宣言した。「戦後の敵がいなくなった世界にいても、CIAと一握りのその姉妹機関は、10億ドルの人工衛星と分類された山のような文書を持って、米国人の心に適切なものとしてなんとか認識されなければならない。」
軍事予算は巨大なままであり、冷戦のための3000億ドルの予算は7%削減して2800億ドルになった。統合参謀本部議長コリン・パウエルは次のように言った。「私は世界の他の国々を徹底的に怯えさせたい。私は好戦的な意味でこのことを言っているのではない。」
巨大な軍事体制がいまだに必要であることを証明するかのように、ブッシュ政権はその4年間にふたつの戦争を始めた。パナマに対する「小さな」戦争とイラクに対する大規模な戦争である。
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16.湾岸戦争とその波紋
戦争中にサダム・フセインは米国当局者と報道機関によって、もうひとりのヒットラーとして描かれていたが、その戦争はバグダッドへの進軍をせずフセインに政権を握らせたまま、終わることとなった。米国はフセイン政権を弱体化すること望み、イランとの均衡を保つためにフセインを残し彼を消し去ることは望まなかったようであった。湾岸戦争の数年前、「勢力均衡」戦略の一部として、違った時期に米国はイランとイラクの両国に武器を売却した。
したがって戦争が終わった時、米国はサダム・フセイン政権の転覆を望むイラクの反体制派を支援しなかった。1991年3月26日付けのニューヨークタイムズのワシントン電は次のように報道した。「ブッシュ大統領は、イラク分裂の危険を犯すことよりむしろ、米国の介入なしにサダム・フセイン大統領に国内の反乱を鎮圧さることを決定した。これは本日の公式の声明と個人的概要説明によるものである。」
これは、サダム・フセインに反抗していたクルド族少数民族を援助のない状態に追いやった。そしてイラクの大多数の中にいた反フセイン集団を中ぶらりんで放っておくことになった。ワシントンポスト(1991年5月3日)は次のように報じた。「イラク軍からの大規模な逃亡がクルド族反乱の絶頂期の3月に起こりそうだったが、米国当局者が米国はその暴動を支援しないだろうと結論を出したので、そのようなことは起きなかった。....」
カーター政権時代の国家安全保障顧問ズビグニェフ・ブレジンスキーは湾岸戦争終了の1ヵ月後に、この戦争の冷静なプラス面とマイナス面の評価をした。「戦争の利益は明らかに印象的なものだった。第一に、露骨なイラクの侵略行為が拒絶され罰せられたことである。...第二に、米国の軍事力が今後、重大なものとして受け止められる可能性があることだ。第三に、中東とペルシャ湾岸地域は現在明らかに米国の勢力圏にあることだ。」
しかしブレジンスキーは「いくつかの否定的結果」についても懸念していた。そのひとつは「イラクへの空襲のまさにその激しさが、米国人がアラブ人の生命を価値のないものと見ている証拠として、この戦争行為が見なされるようになるかもしれないという懸念が出てくる。そしてそれはその米国の対応の道徳的な問題を表面化させる。」
アラブ人の生命が「価値のない」ものとしてみなされているという彼の論点は、その戦争が米国内で反アラブの人種差別の醜い波を引き起こしたという事実で強調された。実際、アラブ系米国人は侮蔑されたり殴られたり殺すと脅されたりした。「イラク人のために俺はブレーキをかけない」という車のバンパーに貼られたステッカーがあった。あるアラブ系米国人はオハイオ州のトレドで殴られた。
ブレジンスキーの湾岸戦争の評価は、民主党の見解に近いものと考えられる。民主党はブッシュ政権と足並みを揃えていた。民主党はその結果に喜んでいた。民主党は民間人の死傷者について懸念を持っていた。しかし民主党は反対をしなかった。ジョージ・ブッシュ大統領は満足した。この戦争が終わった時、彼はラジオ放送で宣言した。「ベトナムの幽霊は永久にアラビア半島の砂漠の中に葬り去られた。」
体制派の報道機関はこれに大きな同意をした。タイムとニューズウイークは、ラク人の死傷者には触れず、わずか数百人の米国人の死傷者に言及しながら、この戦争の勝利を歓迎する特別版を発行した。ニューヨークタイムズの社説(1991年3月30日)は次のように述べた。「湾岸戦争の米国の勝利は米国軍に特別の弁護を与えた。米国軍は素晴らしくその破壊力と機動性を開発し、その過程でベトナムでの嘆かわしい困難の記憶を消し去った。」...
(小見出しは原文にはなく、岩間が付けた。)