クリントン大統領と民主主義の危機
ハワード・ジン『20世紀:人民の歴史』
(原文http://www.howardzinn.org/のアーカイブ)
翻訳:岩間龍男(翻訳公開030602)
記号研=岩間龍男先生(岐阜・高)のおかげで今は日本で絶版になっているハワード・ジン『民衆のアメリカ史』の続編にあたる『20世紀:人民の歴史』の部分訳が出来ました。現在進行しているブッシュ路線を考える貴重な資料になると思います。誤訳があるかもしれませんが、気づき次第訂正していきたいと思います。お気づきの方は連絡ください。(寺島隆吉・岐阜大学教育学部)
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1.支持基盤の弱かったクリントン
1996年クリントン大統領は明確な有権者の支持がないまま再選をされた。1992年に第三の政党の候補ロス・ベロー(訳注:米国の実業家)に投票して、投票者の19%が二大政党への嫌悪感を示したように、選挙民は明らかにその選択に満足をしていなかった。半数が棄権をし、投票した人のうち、精彩のない対立候補のロバート・ドウルを破って、わずか49%の人々がクリントンを選択しただけであった。「もし神が我々に投票させるつもりだったならば、神は我々に候補者を与えるべきであった。」とある車のバンパー・ステッカーには書いてあった。
クリントンは2回目の就任式で、「新しい世紀新しいミレニアムの」縁にある我が国について話をした。彼は言った。「我々は新しい世紀のために新しい政府が必要だ。」しかし「新しい政府」になるだろうという主張を米国人がクリントンの最初の4年間に何も認めていないことは、選挙での支持の脆弱さから明白なことだった。
クリントンの就任はマーチン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日の全国的な祝賀会とたまたま重なった。クリントンは彼の演説の中でキングの名前を何回も引き合いに出した。しかしクリントンとキングは全く違った社会哲学を表していた。
1968年に暗殺されるまでに、キングは我々の経済体制は不公平なものであり根本的な改革が必要だと考えるようになっていた。彼は「資本主義の悪」について話をし、「経済的政治的権力の根本的な再配分」を求めていた。
一方、大企業が空前の規模で民主党に資金を与えていたので、クリントンは就任からの4年間は「市場組織」と「民間企業」への完全な信頼を明確に表明していた。1992年の選挙運動中、マーチン・マリエッタ(訳注:米国の兵器企業)株式会社の最高経営責任者は次のように述べた。「民主党はさらに財界に向かって進んでいるし、財界もさらに民主党に向かって進んでいると私は思う。」
マーチン・ルーサー・キングの軍事力強化への反応は、ベトナム戦争への彼の反応と同じであった。「この狂気は止めねばならない。」そして「人種差別と経済的搾取と軍国主義はすべてつながっている。」
クリントンは積極的にキングの人種平等の「夢」を思い起こしたが、暴力を拒絶する社会の夢を思い起こすことはなかった。たとえソビエト連邦がもはや軍事的脅威でなくなっていても、彼は米国は世界中に配置している軍隊を維持し、「ふたつの地方の戦争」に備え、冷戦時代のレベルで軍事予算を維持すべきだと主張した。
2.見せかけの民主主義
クリントンは社会変革のためでなく選挙戦勝利のため「(有権者の)中心部分に接近しろ」という打開のために1992年に民主党の候補者となっていた。これは黒人や女性や労働者の支持を十分に得、その一方で白人の保守的な有権者の支持を犯罪への強靭さと強い軍事力の政策で勝ち取ろうとしていたということだ。
いったん就任をしたらクリントンは共和党の前任者の時より多くの政府のポストに有色人種の人々を任命した。しかし、もし将来のあるいは現実の任命された者があまりにも厚かましくなってきたら、クリントンは彼らをすばやく解任した。
商務長官のロナルド・ブラウン(飛行機墜落事故で死亡)は黒人の顧問弁護士であったが、クリントンは明らかに彼の起用を喜んでいた。一方、ラニ・ギニエは黒人の法律学者で司法省の公民権部門の仕事に向いている人物だったが、彼女の人種平等と有権者の意思表示に関わる問題についての強烈な考えに保守派が反対をした時、彼女を解任した。そして公衆衛生局長官の黒人のジョイセリン・エルダーズが性教育の中で自慰行為は適切な主題であるという物議を醸す提案をした時、クリントンは彼女に辞職するよう要求した。
クリントンは最高裁判所に任命した次の二人にも同じ臆病さを示して、ルース・バーダー・ギンズバーグとステファン・ブレイヤーは民主党ばかりでなく共和党にも十分に満足のいく穏やかな人物であると念を押した。クリントンは最高裁判所を最近になって去ったサーグッド・マーシャルやウイリアム・ブレナンの残した業績に従う強い自由主義者のために闘う意志はなかった。ギンズバーグとブレヤーは二人とも死刑の合憲性を擁護し、人身保護条例の使用への抜本的な制限を支持していた。二人ともボストンの聖パトリック祭のパレードの組織者がゲイの行進者を排除する「憲法上の権利」を支持して、最高裁判所の最も保守的な裁判官とともに投票をした。
下級の連邦裁判所の裁判官を選ぶ時にも、クリントンは70年代のジェラルド・フォード大統領の時よりも、自由主義者を任命することはほとんどあり得ないことを示すこととなった。1996年初頭の『フォーダム法律展望』の中で公表された3年間の研究によれば、クリントンの任命はその半分以下で「自由主義的な」決断がなされたにすぎなかった。ニューヨークタイムズによれば、レーガンとブッシュは彼らの哲学を反映する裁判官の候補者を支持して積極的に闘ったが、「クリントンはそれとは対照的に、たとえわずかな論争でもあれば、その候補者をすぐにそこから降ろすことをした。」
3.法と秩序
クリントンは自分が「法と秩序」に関わる問題では「不屈」であることを示したがっていた。まだアーカンソーの州知事であった1992年に大統領選に立候補していた時、彼は知恵遅れの男の死刑執行を監督するためにアーカンソー州へ飛行機で戻った。そして彼の大統領就任中の初期に、彼と司法長官のジャネット・レノはテキサス州のウェーコの総合ビルに武装して隠れていた狂信者のグループをFBIが攻撃することを認めた。その攻撃で構内を吹き荒れる火災が発生し、少なくとも86名の男性や女性そして子どもが殺害された。
大統領職の初期において、クリントンは貧しい囚人に弁護士を提供する国家資源センターの資金を削除する法律に署名をした。ニューヨークタイムズのボブ・ハーバートの記事によれば、その結果としてジョージア州で死刑に直面していた男は弁護士なしで人身保護令状の訴訟手続きに来なければならなかった。
1996年には、ひどい刑務所の状態の改善を保障するために、裁判官が刑務所のシステムを特別の長のもとに置くことを一層困難にする法律に大統領は署名した。彼はまた法律上のサービスのための連邦資金を差し控える新しい法律を認めた。この資金は弁護士が集団代表訴訟を扱うために使っていたものである。(このような訴訟は市民的自由に対する攻撃に異議を唱えるのに重要なものだった。)
1996年の「犯罪防止法」は議会の民主・共和両党が圧倒的に賛成票を投じた法律で、クリントンも熱心に支持した法律だったが、犯罪の防止ではなく処罰に力点を置いて犯罪の問題を扱うものであった。これはすべての刑事犯罪に死刑を適用し、新しい刑務所の建設に80億ドルを与えるものであった。これらすべてのことは有権者に政治家は「犯罪に対しては厳しい」ということを確信させるものであった。しかし、犯罪学者のトッド・クリアはニューヨークタイムズ(「より強力な厳しさはより馬鹿げたことだ」)でこの新しい法律について次のように書いていた。「1973年以来のより厳しい判決は刑務所の囚人に1000万人を加えた。これは米国に世界で最も高い投獄率を与えることとなったが、暴力犯罪は増え続けた。」「なぜ厳しい罰則が犯罪と関係がないのか。」とクリアは問う。決定的な理由は「警察と刑務所が事実上、犯罪者の行動の原因に何の影響もないことだ。」彼は犯罪の原因を次のように指摘する。「ニューヨーク州の囚人のおよそ80%は、ニューヨーク市の8つの周辺からの者たちだ。彼らは深い貧困や排斥や社会的無視に苦しんでいる。これらすべてのことが犯罪の温床になる。」
4.捨てられた自由の女神
クリントンであろうが彼の共和党の前任者であろうが、政権を保持する人々は共通の何かを持っていた。彼らは自らを守る術のない集団に一般市民の怒りを向けさせて権力を保持しようと試みてきた。1920年代の厳しい社会批評家であったH.L.メンケンは次のように述べている。「実際の政策のすべての目的は、際限のない一連のお化けで(これらすべては虚構のものであるが)、民衆を脅し続けることだ。」
犯罪者もこのお化けのうちのひとつだ。また移民や「福祉を受ける」人々やイラクや北朝鮮のようなある政府もお化けのひとつだ。注意を彼らに向けさせ、彼らの危険を作り出し誇張して、米国の制度の失敗を隠すことができるのである。
移民は便利な攻撃対象であった。なぜなら、彼らは投票権がないので彼らの利益は簡単に無視をすることができたからだ。政治家たちが米国史の中で時々噴出した外国嫌いを演ずることは容易なことだった。外国嫌いの具体例としては、19世紀半ばの反アイルランドへの偏見、鉄道で働かせるために連れてきた中国人に対する頻繁な暴行、1920年代に制限的な出入国管理法に道を開いたヨーロッパ東南部からの移民への敵意などである。
60年代の改革精神は移民の制限緩和につながったが、90年代には民主党と共和党が同じように米国人労働者の経済的恐怖心を利用した。資金を節約(企業の小型化)をするために米国企業は従業員を解雇し、さらに利益を上げられる状況を作るために国外へ工場を移転していたので、職がどんどんと失われていた。移民、特にメキシコからの南部の国境からやって来た数多くの移民が、米国市民の職を奪い、政府から利益を受け、米国市民に高い税金を払わせることになっているとして、非難の対象となった。
二大政党は、違法の移民からだけでなく合法の移民からも福祉給付(食糧配給券、年配者と身体障害者への支払い)を奪う法律を通過させるため手を組み、クリントンはそれに署名をした。1997年初頭までに、貧しく年老いた身体障害の100万人近くの合法の移民に手紙が届けられた。その手紙は、もし彼らが市民にならなければ、2〜3ヶ月のうちに食料配給券と現金支払いが打ち切られることを警告するものであった。おそらく50万人の合法の移民にとって、市民になるために必要な試験に通過することは全く不可能なことであった。なぜなら彼らは英語を読めなかったり、病気であったり、身体障害者であったり、あまりにも年老いていて勉強できなかったりしたからだ。マサチューセッツに住んでいるポルトガルからのある移民は、通訳を通じてレポーターに述べた。「毎日私たちはその手紙が来ることを恐れている。もし小切手をもらえなくなったら私たちはどうすればいいのか。私たちは飢え死にするだろう。ああ、なんてこった。生きている価値がないじゃないか。」
メキシコの貧困から逃れてきた違法の移民は、90年代前半には厳しい扱いに直面し始めた。何千もの国境警備隊が追加された。メキシコ・シティのロイター通信電は(1997年4月3日)その厳しい政策について次のように述べた。「違法の移民へのどのような取り締まりも反射的にメキシコ人を怒らせ、何百万人もの人々が合法的にあるいは違法に毎年職を求めて米国に2000マイルの国境を越えて移住している。」
数十万人の中央アメリカの人々は、グアテマラやエルサルバドルの政治的暗殺集団から逃げてきたのだが、そして米国はこれらの政府に軍事援助をしてきたのだが、「政治」難民とみなされていないため米国からの国外追放に今やなろうとしていた。これらの難民が政治的なものだと認めることは、これらの抑圧的な政権が人権について改善をしているので、米国の軍事援助を受け取り続ける価値があるという当時の米国の主張の偽りを立証してしまうことになってしまっただろう。
1996年の初頭に、連邦議会と大統領は手を組んで「反テロリズムと効果的な死刑の法令」を通過させた。この法令は、それがどれほど昔のことであろうが、どれほど深刻なものであろうが、犯罪の罪を問われたらいつでも移民なら誰でも国外追放ができるものであった。米国人と結婚し子どもがある合法的な永住者も、それから除外されなかった。ニューヨークタイムズはその7月に「数百人もの長期の合法的な居住者が、その法律が通過して以来、逮捕されている。」と報じた。移民に対する新しい政府の政策は、クリントンの「新世紀のための新政府」の約束を成し遂げるには程遠いもので、18世紀の悪名高い外国人騒乱法や1950年代のマッカーシー時代のマッカラン・ウオルター法への逆戻りであった。それは自由の女神に刻まれた壮大な主張とはほとんど調和しないものであった。それにはこう刻まれている。「私に与えよ。自由に生きたいと願う者、貧困の疲れた人々、貧しい人々の群れを。人間の溢れんばかりの貴国では屑とも見なされる惨めな人々を。家もなく、嵐にもてあそばれる人々を。黄金の扉の傍らに、私は燈を掲げよう。」
5.捨てられた社会保障
1996年の夏(明らかに来るべき選挙のために中道派の有権者の支持を得ることを期待して)、クリントンはニューディール政策のもとで作られた法律で扶養児童をかかえる貧しい家族への財政上の援助の連邦政府の保証を終わらせる法律に署名をした。これは「福祉改革」と呼ばれ、その法律は「1996年の個人的責任と就業機会の調停の法律」という欺瞞的な名前がついていた。その目的は連邦の給付金を受け取っている貧しい家族(その多くは母子家庭であったが)に、2年後に給付金を削除し、生涯の給付金を5年間に制限することによって、仕事に行かせ、子どものない人々に3年間で3ヶ月だけ食料配給券を与えることを可能にした。
ロサンジェルスタイムズは次のように報じた。「合法の移民が医療扶助を受けられなくなったので、家族たちは新しい現金給付の5年間の制限と闘わねばならなかった。健康問題の専門家は結核や性病の復活を予想している。福祉の切捨ての目的は、5年間にわたって500億ドルを節約することであった。(これは購入の計画がされている新しい戦闘機一機分の額より少ない。)選挙中にクリントンの支持者だったニューヨークタイムズでさえも、新しい法律の規定は「仕事を生み出すこととは何も関係がなく、すべては貧乏人の給付削除により予算のバランスを保つことと関係があった。」と述べていた。
貧乏人の給付金を削除して彼らに仕事を見つけることを強要することについては、単純で大きな問題があった。給付金を受けられなくなる人々すべてに対して仕事がなかったのである。1990年ニューヨーク市では年収23000ドルで衛生部で2000人分の仕事の募集広告が出された時、10万人の人々がそれに申し込んだ。2年後シカゴでレストランのチェーン店のスタウファーの550人分の仕事に対して、7000人の人々がやって来た。イリノイ州ジョリエットではありもしない仕事に申し込むために午前4時半にコモンウエルス・エジソンに2000人の人々がやって来た。1997年初頭には、マンハッタンのルーズベルト・ホテルの700人分の仕事に4000人の人々が列をなした。ニューヨークの仕事の増加率と生活保護を受ける47万人の人々から考えて、現金給付の名簿から放り出されたすべての人々を吸収するのに24年間かかるだろうと見積もられていた。
ニューディール政策の時代に行われたように、仕事を作り出す政府の政策を確立することをクリントン政権は確固として拒んだ。このニューディールの時代には、数百万の人々に建設労働者から技術者そして芸術家や作家にいたるまでの雇用を作り出すために数十億ドルが使われた。
6.大きな政府の時代の終わり
「大きな政府の時代は終わった。」とクリントン大統領は大統領に立候補した時に宣言したが、これは社会計画にあまりにも政府はお金を使いすぎているという共和党の立場を米国人が支持しているという仮定から票を集めようとしたためだ。しかし民主共和両党とも世論を読み誤っていた。
マスコミもこのことについてはしばしば共犯者であった。1994年中頃の中頃の選挙で、わずか37%の有権者しか投票に行かず、その半数をわずかに上回る投票者が共和党に投票し、メディアはこのことを「激変」として報告をした。
ニューヨークタイムズの見出しには「人々は共和党議会を信任」とあり、米国民は共和党の「より小さな政府」の政策を支持していると述べていた。しかし、その見出しの下の記事では、ニューヨークタイムズとCBSニュースの世論調査によれば投票した65%の人々が「自分のことを面倒みれない人々を世話をするのは政府の責任である」と言っているとのことであった。
クリントンと共和党は「大きな政府」に反対することで手を組み、社会福祉事業をねらっていただけだった。大きな政府の他の政策表明、つまり軍事の請負業者との巨大な契約と企業への寛大な補助金は法外なレベルで続いた。
「大きな政府」は実は米国の創立者から始まった。彼らは計画的に社債保持者、奴隷所有者、土地の投機家、製造業者の利益を保護する強い政府を打ち立てた。そしてこの200年間、何百万エーカーの無料の土地を鉄道業者に提供し、製造業者を保護するために高い料金を設定し、石油企業に優遇税制措置を行い、ストライキや反乱を抑制するためにその軍隊を使って、米国政府は金持ちや権力者の利益に奉仕し続けた。政治指導者と財界の幹部が「大きな政府」について不平をもらしたのは、抗議網に包囲されその組織網の安定性を恐れて、政府が貧乏人のための社会立法を通過させた20世紀の特に30年代と60年代だけであった。クリントンは金利を決める連邦準備制度理事会議長にアラン・グリーンスパンを再任した。グリーン・スパンの主な関心事は「インフレ」を避けることだった。それは社債保有者の利益を減らすため、彼らが望んでいないことだった。彼の財政上の支援団体は労働者の高賃金をインフレを招くものと見て、もし十分な失業がないならば賃金が上がってしまうかもしれないと心配していた。
「均衡予算」を達成するために毎年の赤字を減らすことは、クリントン政権が執着するものとなった。しかしクリントンは金持ちへの増税や軍事費の削減は望んでいなかったので、それに代わる唯一のものは、健康管理や食料配給券や教育や母子家庭への出費を少なくすることによって、貧乏人や子どもや老人を犠牲にすることだった。この2つの例が1997年の春のクリントンの第2次政権の始めに出てきた。
「クリントン大統領の教育計画の重要なひとつ、すなわちボロボロになった国立の学校を修理するために50億ドルを使うという提案は、連邦予算のバランスを取るための先週の合意で静かに葬り去られた
もののひとつだった。」(ニューヨークタイムズ 1997年5月8日)
「ホワイトハウスの介入の後、議会は昨日国内の1050万の保険をかけていない子どもたちに健康保険を拡大する提案を拒絶した。上級のホワイトハウスの役人がその修正案は慎重な扱いを要する予算の合意を危うくすると呼びかけた後に、7人の議員がその修正案の反対にまわった。」(ボストングローブ 1997年5月22日)
7.軍事機構の維持
一方、政府は少なくとも毎年2500億ドルを軍事機構を維持するために使い続けていた。これは米国が「二つの地方の戦争」に即座に対応できるようにしておかねばならないとう仮定に基づいていた。しかし、ソビエト連邦が1989年に崩壊した後に、ブッシュ政権の国防長官ディック・チェイニー(ハト派とはとても言えない人物であるが)は「脅威はあまりにも遠ざかったので、その存在は認めがたい。」と述べた。
共和党と民主党の合意の下、政府は少なくとも700億ドルはかかるF22戦闘機を作る計画を推し進めていた。AP通信は総合攻撃戦闘機の計画は全体で1兆ドル結局かかるだろうという会計検査院の見積もりを報じた。
軍隊の使用はそれでもまだ米国外交政策の中心だった。クリントンはバグダッドを爆撃した空軍を派遣した時までかろうじて6ヶ月大統領の職にあった。バグダッド爆撃は前大統領ジョージ・ブッシュのクウェート訪問の際の暗殺の陰謀に対する報復としておそらく行われたものだった。そのような陰謀の証拠はきわめて弱いもので、悪名高いクウェートの腐敗した警察からの情報であった。にもかかわらず、米国の戦闘機はイラクの首都の「情報局本部」を標的としていると主張して、首都近くの郊外を爆撃し著名な芸術家とその夫を含む少なくとも6人を殺害した。コラムニストのモリー・アイビンスは、主張されていたバグダッドの爆撃の目的は、「強力なメッセージを送ることであり」、テロリズムの定義に合致すると提唱した。「テロリストの狂気はその復讐の行動において見境がなくなり、注意を引きつけるものであり、どのようなことでも.....。個人にとっての真実は国家にとっても当てはまる。」
米国は世界の最も危険な政権のいくつかに、破壊的な武器を供給し続けた。インドネシアは記録的な大量殺人を犯し、東チモールへの侵略と占領の時におそらく70万人の人口のうち20万人を殺害した。それでもなおクリントン政権はF16戦闘機と他の攻撃兵器をインドネシアに売ることを認めた。ボストン・グローブには次のように書いてあった。(1994年7月11日)
「議員たちのよって行われた主張はスハルト政権や防衛関係の請負業者や石油会社やジャカルタと取引をしている採鉱企業を気づかって、米国人は商売のために大量虐殺を大目に見ていると思わせた。」
1996年ノーベル平和賞が東チモールのホセ・ラモス・オルタに与えられた。彼はその賞を獲得するすこし前にブルックリンの教会で、次のように述べた。
「1977年の夏、私がニューヨークにいた時、私は私の妹のひとりである21歳のマリアが航空爆撃によって殺されたというメッセージを受け取った。ブロンコという名の航空機は米国によって供給されたものだった。その後数ヶ月のうちに、17歳の弟のガイが、米国によって供給されたベル・ヘリコプターによって、村の他の多くの人々といっしょに殺されたという別の報告を受けた。同じ年、別の兄弟のナンが捕らえられ(米国製の)M16で処刑された。....」
同じように米国製のシルコルスキ・ヘリコプターが反抗的なクルド族部落を破壊するためにトルコによって使われた。作家のジョン・ターマンは(戦争の戦利品。武器貿易の犠牲者。)「クルド族に対するテロ作戦」とその中で呼んでいた。1997年の初頭に、米国は他の国々のすべてを合わせた分より多くの武器を売却していた。レーガン政権下の国防総省の職員で後に武器売却の批評家となったロレンス・コーブは次のように書いている。「それはマネーゲームとなってしまった。私たちは武器を輸出し、結局世界中に広がる武器に対抗するためにより洗練された武器を開発しなければならないという馬鹿げた螺旋状態に陥ってしまった。」
8.人権より利益
米国外交政策ではビジネスの利益が優先され、人権は二の次のこととなった。国際的なグループであるヒューマン・ライツ・ウオッチが1996年に年次報告を出した時、ニューヨークタイムズはその発見を要約している。
「ヒューマン・ライツ・ウオッチは多くの強国、特に米国を厳しく批判し、利益の上がる市場への権利を失わないようにするため、中国、インドネシア、メキシコ、ナイジェリア、サウジアラビアの政府に人権を改善するよう強く求めることができなかったことを告発している。」
同様に人権より利益への関心が、ソビエト連邦の崩壊から生まれてきた新生ロシアに対する政策でも明らかに見られた。ロシアを資本主義の方向へ向かわせることを願って、米国商品の市場としてロシアを開放する過程の中で、ロシアが独立を望んでいたへんぴな地域であるチェチェンへの残酷な侵略と爆撃を開始したあとでさえも、米国政府はロシア大統領ボリス・エリツィンのいじめの政策に目をつぶった。
大部分が貧しい国々である35カ国への経済援助の段階的計画についてAP電が1993年11月に報告した時、政治的な影響力を得るための歴史的な経済援助が強調された。国際開発局の長官であるJ・ブライン・アトウッドは「影響力を購入するために、我々はもはや援助プログラムは必要としていない。」と述べた。
世界銀行と国際通貨基金は、いずれも米国によって支配されているが、負債に苦しむ第3世界への冷酷な銀行家のアプローチを採用した。これらの貧しい国々は、すでに絶望的な人々への社会事業を削減して、その乏しい資源の大部分を富裕国からの貸付の返済に当てるべきだと主張した。
対外経済政策はおそらく「自由貿易」合意に基づいていたが、その最も顕著な合意はカナダそしてメキシコと署名されたものだった。企業利益で熱狂的に支持を受けていた民主党と共和党は手を組んで北米自由協定(NAFTA)を通過させ、クリントンがこれに署名をした。労働組合はこれに反対をした。なぜなら、この協定では貧しい条件のもと低賃金で働く労働者を見つけるために会社が自由に国境を越えられることになるからだった。「自由貿易」の主張はほとんど信じられないものだった。というのは、貿易がある政治的経済的目的に役立つ時には、米国の政策は貿易を妨害することだったからだ。(その言い回しはいつも「国益」という言葉を使っていたが)かくして、米国はメキシコのトマト栽培者が米国市場に参入することを妨害し、国内での増大しつつあった大衆的な抗議によってタバコ販売の制限が行われた時でさえ、タイが米国のタバコ会社にその市場を開くよう圧力をかけた。自由貿易の原理のさらにひどい侵害としては、米国は食料や医薬品のイラクやキューバへの出荷を許さず、その結果として数万人の子どもたちが死亡した。1996年テレビ番組「60分」で、国連米国大使のマドレーヌ・オルブライトは質問を受けた。「イラクに対する経済制裁で50万人の子どもが死んだ。これは広島の原爆で死んだ子どもの数より多い。この制裁はこのような犠牲を出す価値があったものなのか。」これに対しオルブライトは答えた。「これはとても難しい選択だと思うが、その価値はあったと私たちは思っている。」
9.金持ち優遇税制
米国は世界の人口の5%を占めているだけだが、世界で生産されているものの30%を消費している。しかし米国人口のほんのわずかの者たちが利益を受けているだけであり、この人口の最も豊かな1%だけが1970年代後半からその富を著しく増加させ始めた。租税構造の変更の結果、1995年までに最も豊かな1%が1兆ドル以上を得て、今や国の富の40%以上所有した。
ビジネス誌フォーブズによれば、400の最も豊かな家庭が1982年には920億ドル所有していた。13年後には、これは4800億ドルに跳ね上がった。ダウ=ジョーンズ平均株価は1980年から1995年の間に400%上昇したが、労働者の平均賃金はその購買力で15%減少した。
したがって、米国経済は一部の最も豊かな人々のことを考えるならば「健全な」ものだと言う事ができた。一方、4000万人の人々は健康保険もなく、幼児の病気や栄養失調による死亡率は他のどの先進工業国よりも高かった。有色人種の人々にとっては、その統計はさらに悪いものであり、幼児は白人の子どもたちの2倍の割合で死亡していたし、国連の報告によればハーレムの黒人男性の平均寿命はカンボジアやスーダンより低い46歳であった。
米国は(20世紀のそのような政策の悲惨な結果を忘れあるいは忘れるようにして)人々を「自由市場」の神の恵みのもとへ送り込んだ。「市場」は環境や芸術のことなど気にかけなかった。そして、そのことは多くの米国人に仕事や医療保障や子どもたちのためのきちんとした教育や十分な住宅を与えなかった。レーガンのもとで政府は補助金を得ることができる住宅の数を40万から4万に減らし、クリントン政権時代にはそのプログラムはすべて終了してしまった。
クリントンの1997年の就任の日の「新しい政府」の約束にもかかわらず、これらの必要性を満たす大胆な計画は何もなかった。そのような計画は膨大な予算を必要とするだろう。この資金をひねり出す方法が2つあったが、クリントン政権は(その前任者のように)企業の富の強い影響からそのような方向へ進路を変える気持ちはなかった。
その資金源のひとつは大金持ちの富であった。第2次大戦後のレベルすなわち37%ではなく70%から90%で高所得に対して課税を行えば、1年に数千億ドルが利用可能となった。その上、国の政策としてはまだ行われていないが完全に実行可能な「財産税」があれば、何十年もの優遇税制措置で大金持ちが獲得してきた兆単位のドルを回収することができた。
もうひとつの大きな資金源は軍事予算であった。1992年の大統領選挙の時、軍事費の専門家ランダル・フォルスバーグが次のように提案していた。「600億ドルの軍事予算が何年かのうちに達成されれば、冷戦後の世界の必要性と機会にかなった非武装の米国外交政策を実現することになるだろう。」しかし1996年に米国は世界の他のすべての国の合計より多い軍事費を使っていた。ロシアの4倍、中国の8倍、北朝鮮の40倍、イラクの80倍の予算であった。それは奇怪な国家の富の浪費であった。
軍事予算の急激な減少は戦争放棄つまり国際紛争を解決するのに軍隊の使用を拒絶することを要求するだろう。それは他の人々と平和に暮らす基本的な人間の要求(これは超愛国主義のスローガンの集中攻撃によってしばしば押しつぶされてきた)に訴えかけるものだろう。
そのような劇的な方針の変更への大衆の要求は、単純にして強力な議論すなわち現代の戦争の犠牲者の特徴は10対1の割合で一般市民であるという事実にその根拠をもっている。別の言い方をすれば、現代の戦争は常に子どもたちに対する戦争であるということだ。もし他の国々の子どもたちに私たち自身の子どもたちと平等の生きる権利を認めるならば、私たちは世界の問題の軍事力を使わない解決を見つける並外れた人間の創意を発揮しなければならない。
累進課税法と非軍事化によって得られる4000から5000億ドルは、すべての人々へ医療保障や働く意志があり働ける誰にでも仕事を保障するために使える資金となるだろう。爆撃機と原子力潜水艦の契約を割り当てるかわりに、住宅を建設する人々を雇用し、公共の輸送システムを建設し、川や湖を清掃し、私たちの町を住みよい場所にする非営利の会社に、その契約を提供できるだろう。(マージ・ピアシーの詩のひとつは次のような一節で終わっている。「水差しは運ぶべき水を求める。/そして人は本当の仕事を求める。」)
そのような大胆な計画に代わって行われたことは、以前のように都市の状態を悪化させ、田舎の人を負債と差し押さえに直面させ、若者に有益な仕事を与えず、絶望的な人々をより多く生み出し続けた。これらの多くの人々は麻薬や犯罪に走り、彼らの中には他人や自分に対する暴力で終わる狂信的な宗教に走る者や(1996年そのようなひとつのグループが集団自殺をした。)、政府に対するヒステリックな憎悪に走る者もいた。(たとえば、1995年オクラハマ・シティの連邦ビルの爆破で、少なくとも168人の人々が殺害された。)そのような絶望、怒り、疎外の兆候への政府の対応は全く予測可能なものだった。より多くの刑務所を建設し、より多くの人々を留置し、より多くの囚人を処刑した。そして絶望感を生み出す同じ政策が続けられた。
しかし別のシナリオが可能であった。それは新しい21世紀の始めに、市民が独立宣言が保障したこと、すなわち政府がすべての人々の生活や自由そして幸福の追及の平等の権利を守る要求の組織化をする時を心に描くことであった。これは国家の富を合理的に人道的に配分することを意味した。これは若者たちが貪欲の仮面としての「成功」に向けて努力をするようにもはや教育されないような文化を意味した。
10.新しい大衆のエネルギー
90年代中頃までは、そのようなシナリオの要素があった。世論調査は大衆がどちらの二大政党よりも、軍事費を削減し、金持ちに課税し、環境を美しくし、普遍的な医療保障を持ち、貧困を終わらせることをはるかに強く望んでいた。そして90年代にはそのような目標に向けてすでに活動をしている何千もの団体が国中の町や都市にあった。しかし彼らはまだ国民運動として一体化はしていなかった。
それでも、そのような可能性の兆候はあった。1995年100万人の黒人たちが共通の失望への団結を示すために首都ワシントンに集まった。次の年には50万人のすべての皮膚の色の成人や子どもたちが、「子どもたちのための抵抗」をするためにワシントンに到着した。米国はより多様化した人種の国になり、より多くのラテンアメリカ系市民やアジア系市民さらには異人種間の結婚が増えていた。少なくとも真の意味での「虹の連合」ができる可能性があった。これは黒人の指導者ジェシー・ジャクソンによって宣言された約束を成し遂げるだろう。80年代後半、ジャクソンはすべての肌の色の貧しく財産を奪われた人々の代弁をして、短期間の珍しい政治的興奮の高まりを国民に与えた。
その文化は消し去ることができない60年代の運動によってある程度影響を受けてきた。映画やテレビや音楽の世界で明らかにされてきた明確に新しい意識が存在した。たとえば女性は平等の権利を持つこと、男女の性的好みはその人自身の問題であること、貧富の大きくなりつつある格差は「民主主義」という言葉にウソを与えていることなどの認識である。
労働運動は新しいエネルギーの兆候を示し、ホワイトカラーの労働者、農業労働者、移民労働者を組織化するようになり、若者をこの組織化の助けとなるよう誘い込んで彼らの理想主義を引き出すようになっていた。従業員たちは企業犯罪に「警告を発していた」。
公民権運動やベトナム反戦運動への関わり以来沈黙を守ってきた宗教指導者たちが経済的不平等について意見を述べ始めた。1996年の夏には、ニューヨークタイムズは次のように報じた。
「過去数十年のどの時よりも、宗教指導者は労働組合と共同戦線を作り、労働者搾取工場を非難するために彼らの道徳的権威を貸して、より高い最低賃金を支援し、用務員と家禽労働者の組織化を手助けしている。1970年代の魅力的な農業労働者の指導者セザール・チャベスの全盛期以来、それほどまでに聖職者が労働者と手を組むことはなかった。そしておそらく世界大恐慌....」
少なくとも企業の富によるマス・メディアの支配に対する反乱が始まっていた。(財政上の合併がテレビや新聞や出版業の超独占を作り出していた。)1994年サンフランシスコのテレビ局は最初に、ジェネラル・エレクトリック社の核兵器産業との関与を暴露したアカデミー賞受賞のドキュメンタリー映画『致命的な詐欺』を放送することを拒絶した。活動家たちがテレビ局の建物のわきにこの映画全部を映し出して、地域の人々に見てもらうために案内をした。テレビ局は屈服して、映画を見せることに同意した。
民主共和両党への幻滅によって、90年代半ばには独立した政治運動を生み出そうとするいくつかの試みが生まれた。テキサス州では、「民主主義のための同盟」の設立協議会が行われ、それは米国における反企業の新しい大衆運動を始めることを望んでいた。中西部においては、保守的な候補者に代わる候補を有権者に保障するため、新党が出現した。全国からの一般の労働組合員が1996年に労働党を結成するために集まった。
これらの集団は次の新しい世紀にその約束を成し遂げるために団結するのだろうか。誰にもそれは予測できない。人々ができることは、何もしなければいかなる予測もできず暗い将来があるだけだということを知りながら、可能性に向かって行動することだけだった。
もし民主主義に何らかの意味が与えられ、資本主義と国家主義の限界を超えられるならば、歴史が示すように、そういったことは上からは決してやって来ないだろう。それは市民の運動、組織化、扇動、ストライキ、ボイコット、デモを通じて、権力者たちが必要としている安定を混乱させ脅かすことによって、やって来るのだろう。
1992年、共和党は資金集めのためにディナーパーティーを開いた。このパーティーに出るためには、個人や企業は40万ドルまで支払った。(民主党のディナーパーティーの料金はわずかに安かった。)ホワイトハウスのスポークスマンは質問するレポーターに「これは体制へのアクセス権を買うものだ。」と言った。あまりお金を持っていない人々のことを尋ねられた時、彼は答えた。「その人たちは他の方法でアクセス権を求めなければならない。」
これは本当の変化を望んでいる米国人への手がかりだったかもしれない。彼らは自分たち自身の方法でアクセス権を求めなければならないだろう。
(小見出しは原文にはなく岩間が付けたものです。)