無料-
出会い-
花-
キャッシング
南アとイスラエル=パレスチナ、そして現代世界秩序の輪郭
South Africa, Israel-Palestine, and
the Contours of the Contemporary Global Order
Noam Chomsky interviewed by
Christopher J. Lee
Safundi, March 9, 2004
クリストファー・J・リー(ハーバード大学)によるノーム・チョムスキーへのインタビュー、
『サファンディ』(南ア&米国・比較研究)2004年3月9日
翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2004年6月20日
T.南アとイスラエル=パレスチナ:現代的相似と相違
(「分離壁」と「バンツースタン」「アパルトヘイト」。南アとイスラエル=パレスチナの状況は似ているようだが何処が違うのか。)
U イスラエルとパレスチナ、そして南ア:紛争の起源と入植者植民地主義について
(パレスチナ問題への展望はどこにあるか。「二民族共存方式」と「二国家共存方式」は似ているようだけれど何処が違うのか。)
V.南ア:その実例とその挑戦
(南アにおける現状はどうなっているのか。「人種差別」から「階級分裂」「新自由主義体制」への移行とは、どういうことか。)
|
クリストファー・J・リー(サファンディ):
この機関誌の読者とアパルトヘイト問題や人種民族関係に関心がおありの人たちからすれば、私は特定の事件から始めたいと思います。すなわち、ハーグに於ける国際司法裁判所の審理に先立ち、2月の終わり23日から25日に、パレスチナ占領地内での壁の建設をめぐる判決について公聴会が行われました。
南ア政府の参加する代表団があり、特に外務副大臣で南ア代表団の団長アジズ・パハドは法廷前で次のように主張しました。「分離壁は安全保障壁ではない。それは占領強化のための壁であり、数十万人のパレスチナ人を家族や家や土地や宗教的場所から分離する壁である。」
彼はまた現代の南アの状況についても話しました。彼はこういいました「南アは10年間の民主主義を祝っている最中にあります。数世紀に及ぶ分割と矛盾の後、南ア人は、政治的な意志が、和解と平和共存に基づく新しい民主主義社会を建設するのだということを発見しました。」
そこで彼は双方を比較し類似点を引き出しています。
同時にパハド大臣は言いました「南アは2国間の解決に専心しています。すなわち安全領域内のイスラエル国家と同じく安全領域内の生存可能なパレスチナ国家の建設です。<分離壁>はロードマップに描かれた平和プロセスにとって呪いです。それは2国間解決の見込みを消し去るものです。」
1990年代の初頭以来、オスロ合意とアパルトヘイトの終焉に関して、あなたは南アとイスラエル=パレスチナの間の類似点を引き出していらっしゃいますが……
ノーム・チョムスキー:
多くの人がそう言っていますが。
サファンディ:
多くの人が言っているように、そしてあなたも示唆されていましたが、提案されたような2国家制による政治的解決は南アに存在していたアパルトヘイト体制に近似していますね。
ノーム・チョムスキー:
どのような2国間解決であるかによります。
サファンディ:
この種の類似点について、あなたの考えはどうでしょうか。南アとイスラエル=パレスチナの状況は一般にどのように類似しているのでしょうか。南アが支持しているような2国制解決にたいしてあなたはどのような御意見をお持ちでしょうか。あなたはそれを、彼らの側にとっても、経験にそぐわないものと思われますか。
ノーム・チョムスキー:
いいえ。まず第1に、分離壁については、あなたがなさったはじめの発言は全く正しいものです。それは明らかに安全保障壁ではありません。それは議論の余地がありません。
もしイスラエルが安全保障壁を必要とするのなら、誰も反対はしません。世界的な反対も起こらないでしょう。そして安全保障壁を必要とするのなら、どこに彼らがそれを作るのかも我々は正確に知っています。グリーンラインの内側2−3キロメートルです。
それが完璧な安全保障壁を作る方法です。かなりの高さに造り、IDF(イスラエル国防軍)に両側を巡視させることもできますので、完全に通り抜けができません。だから、もし安全保障が必要ならば、そのやり方なのです。
そうでないとすれば、安全保障は考慮すらされていないのです。その理由は、安全保障は全く問題ではないからです。問題は、壁が入植=占領地域の方向への動きを増大させていることです。ここ35年間もずっと続いていることです。これが入植のもうひとつの方法なのです。
壁が与えている唯一の安全保障は、イスラエル人不法入植者に対してです。彼らはグリーンラインの反対側、すなわちパレスチナ人の領土に居るのです。彼らはともかくもそこに居るべきではないのです。
壁のコースを辿っていくと、それがだんだんと占領地域のイスラエル入植地を統合するようなやり方で移動していることが分かります。それは彼らが常々望んでいたことです。
サファンディ:
そうです、それは1967年[第3次中東戦争] 以前の境界の東側、すなわちパレスチナ人の居住区に移動しています。
ノーム・チョムスキー:
そうです。西に移動するのは、1インチの壁だってありません。中にはグリーンラインの上にあるものもありますが、イスラエル側の上にあるものはありません。すべてパレスチナ側の上にあるのです。しかも決定的な場所の上に、です。
その大部分は水資源を支配する場所にあります。主要な帯水層はほとんど西岸地区の地下にあります。1967年以来の入植計画の多くは、長期的な水資源問題を念頭に置いて実行されてきており、イスラエルが帯水層を支配できるようにするためのものなのです。
実際、イスラエルは帯水層のほとんど80パーセントを使っているのです。イスラエルの領土に住む人はもちろんのこと、入植者でさえ、緑の芝生と水泳プールを持っている一方、その隣のパレスチナの村には水が全くありません。彼らはバケツ1杯の水を手に入れるために何マイルも行かなければならないのです。
分離壁は水資源の支配・管理を強固なものにし、最も耕作に適したパレスチナの土地を取り上げるのに役立つでしょう。それは、究極的には二−三十万人のパレスチナ人を追い出すことになるでしょう。おそらく彼らはそこで生き残ることができなくなりますから。
<参照:パレスチナを蝕む「分離壁」>
実際、法的条件でさえアパルトヘイトの南アに非常に似ているでしょう。分離壁と国際的境界線グリーンラインとの間の部分は「継ぎ目」the Seamと呼ばれています、そしてその継ぎ目のための新しい法律があります。
もしあなたがその継ぎ目に住んでいれば、そこに住む権利を申請することができます。そこで、もしあなたがパレスチナ人で、自分の家族が何世代もそこに住んでいたのならば、あなたは自分の家への権利を申請することが許されるのです。
そんな権利を申請する必要のない二つのカテゴリーの人々があります。ひとつのカテゴリーはイスラエル人で、そんな権利を申請する必要がありません。そしてもう一つのカテゴリーは、イスラエルで絶えず使われている習慣的方法です。
そのもう一つのカテゴリーとは、イスラエル人ではない人々ですが、もし移住することを彼らが選ぶなら、イスラエルへ移住可能な人々のことです。すなわちユダヤ人です。
誰でも直接にやって来て、そこで「ユダヤ人は許可される」と言うことはできませんが、「イスラエルに移住ができる人間である」と言うだけでよいのです。法律的システムをよく見れば、それが主にユダヤ人なのです。
それがずっと使われてきた習慣的方法であり、それが人種差別主義者であると率直に言うことを回避するためなのです。しかし、事実は、イスラエル人と他のユダヤ人はそこに住めるということであり、おそらく彼らが許可さえ与えれば、その他の人々も可能なのです。
そこで、それは本質的には東側にイスラエル国家を拡張することであり、重要性な方法だということです。そこで問題が幾つか出てきます。提案されている長期的計画は、残っているパレスチナ人を文字通り、檻=壁で囲い込む・閉じこめるものだからです。そこには東側の壁が同様に計画されていますから。
サファンディ:
ヨルダンとの間の壁ですね。
ノーム・チョムスキー:
そうです。彼らはでもまだそれについてはあまり大きなものは作っていませんが、計画中です。そして、彼らはシャロンが少なくとも10−15年前に発表した計画を本格的に実行中です。
それはパレスチナ国家に西岸地区の領土のおそらく半分以下を与えるという計画で、それにはガザ地区もおそらくは含まれるでしょう。
私が思うに、シャロンはガザを去ることを真剣に考えています。ガザは地獄の穴ですから。彼らにはそんなものは必要ないのです。
そこで、二つの檻(ガザの檻と西岸地区の檻)とおそらく東エルサレムの幾分小さな区域を手に入れるでしょう、それはどうにかこうにか他の地区と連結しているといったものです。
しかしシャロンの計画は労働党の計画ともそうかけ離れているわけではありません。実際労働党(ラビンやペレスなどのように)は決してパレスチナ国家を認めるところまで行ったことがないのです。
サファンディ:
それで、これが長期的プロセスの一部なのですね。
ノーム・チョムスキー:
そうです、これが長期的プロセスの一部なのです。今、南アがa two-state settlement「二国家共存方式による講和」を支援している限り、それはほとんど無意味です。1970年代中期以来、全世界がa
two-state solution「二国家共存構想」を支持してきたのですから。
1970年代中期以来、全世界で非常に広範囲の国際的合意がありました。それにはほとんどすべての国、主要なアラブ国家・PLO・ヨーロッパ・東欧・ソビエト連邦・ラテンアメリカが含まれ、実質的に全人類が含まれていたのです。
アラブ世界には、それを受け入れない、いわゆる「拒否戦線」Rejection Frontという一種の周辺部諸国がありました。しかし主要諸国では、皆がそれを受け入れていました。にもかかわらず、それは1970年代中期以来、米国によって妨害されてきたのです。
米国は1976年1月、妨害するために国連安全保障理事会決議に拒否権を発動し、そのとき以来、米国は毎年のように動議が呈す津されるたびに妨害し続けています。オスロ合意は実質的「二国家共存構想」の土台を崩すものでした。
合意の内実は一般に考えられているほど良くはありません。しかし事実はそのとおりなのです。
湾岸戦争の後、ブッシュ(父)政権が認識したのは、今や米国自身の解決策を一方的に実行する好機にあるのだということでした。というのは、イスラエル=パレスチナ紛争に対して、世界中が「二国家共存方式」に対して弱腰になっていたからです。そしてブッシュ政権は米国の解決策を実行したのです。
湾岸戦争直後に、米国の支持の下、マドリッドでの交渉を再開しました。そのときはロシア=ソ連が辛うじて存在していたので、名目的にロシアも引き入れました。しかしそれは国際的体裁を繕うためのものでした。しかしそれは実際には米国によって運営されていたのです。
パレスチナ交渉団は、パレスチナ共同体で多分もっとも尊敬される人物:ハイダー・アブドゥル・シャフィに率いられていました。彼は伝統的な民族主義者で、非常に潔癖な人物でした。彼は堕落しておらず、まじめで、とても尊敬される人物です。彼は実際1996年の議会選挙で高い投票を得ました。
その彼がパレスチナ交渉団長であり、入植問題解決のためにワシントンで会議をしたのですが、袋小路に入ってしまったのでした。
袋小路は、パレスチナ交渉団が「合意は占領地域に於ける入植の集結を意味する」と主張したことにありました。イスラエルと米国はこれを拒絶し、袋小路に入ってしまったのでした。その時点でヤセル・アラファトが登場してきました。
パレスチナ人は部内者と部外者の2グループ、すなわち領土内の人々と領土外の大物「チュニス」グループとに分けられました。占領地域と難民キャンプの人々はアラファトを支持しませんでした。
実際、彼をやめさせろといういくつもの要求がありました。そして彼は明らかに、自分が交渉に復帰することができる唯一の方法はパレスチナ交渉団を無効にすることしかないと、認識していました。
そこで彼らはオスロに於ける抜け道を設定しました。ノルウェーが自分たちのやっていることを理解していたかどうか私には分かりませんが、はっきりしていたのは、彼らが抜け道を設定したのだということです、その中で交渉は、クリントンの注意深い監視下で、チュニスのパレスチナ人(アラファトとPLO)とイスラエル指導者の間で進行することができました。
そして彼らは芝生の上でのあの有名な握手に到達しました。それがオスロ合意という解決策です。それに対してアブドゥル・シャフィは出席を拒否しました。なぜならその合意は入植の終了を主張しなかったからでした。それでお終いでした。
サファンディ:
アラファトはそれ以来ずっとその地位を維持していますね。
ノーム・チョムスキー:
いいえ、そうではありません。アラファトの地位はトランスカイ(アパルトヘイト時代の南ア)の黒人指導者のようなものです。オスロ合意の下での彼の責任は、パレスチナ人を統制し、彼らが如何なる意味でもオスロ合意に反対しなよう確実にすることでした。そして彼は全く暴力的でした。オスロ合意後に最初にやったことはオスロ合意を批判する人々を逮捕することでした。そして米国はそれを良しとし、イスラエルもそれを結構だと考えました。
御存知のように彼は堕落していました。彼の友人たちはガザで別荘を買っていました。彼は隠し資産を持っていました。誰も、米国もイスラエルも、そんなことは気にかけませんでした。ちょうど南アと同じです。
サファンディ:
だとすれば彼は、アパルトヘイト政府と彼の地方の支持基盤との間を綱渡りしていたインカタ自由党党首マンゴスツ・ブテレジMangosuthu Buthelezi に比肩する人物です。
<参照:[PDF] 第1章 南部アフリカにおける紛争、政治暴力
...>
ノーム・チョムスキー:
多分そうでしょうが、バンツースタンの上層部のほうがもっと似ていると思います。彼らの仕事は人々を黙らせることでした。
彼らは堕落し尽くしていました。思うがままに暴力をふるい、望むがままの贅沢をしていました。実際、帝国主義は全歴史を通じてそのように機能してきたのです。
英国の下で誰がインドを運営したのでしょうか。インド人です。ナチの下で誰がヨーロッパを運営したのでしょうか。フランス人とノルウェー人等々です。クレムリンの下で誰が東欧を運営したのでしょうか。ポーランド人、チェコ人です。そのようにして物事は機能するのです。
一方、入植settlementは続きました。占領地域への侵入を続けたのです。それは非常にはっきりしていました。
私が言わなくてはならないのは、オスロの直後に、私はすぐに論文を書き、それはオスロ合意の1ヶ月後に公になったということです。
その論文で私は、これは解決settlementの終焉であると言いました。なぜなら、それは2国家共存方式を実現させる可能性の土台を壊してしまうからです。そしてまさにそのとおりになってしまいました。
入植計画は着実に続いていました。実際、入植の頂点はクリントン政権最後の年、2000年でした。それは、クリントン=バラクの年であり、キャンプデービッドの年でもありました。
その年、入植はオスロ以降の最高に達しました。そしてそれが継続しようとしていました。
サファンディ:
そこで、2国家共存方式が議論されていたのですね。
ノーム・チョムスキー:
2国家共存方式という考えは起こりませんでした。それは神話です。国際社会では1970年代中頃から、事実上それは変わっていません。そこで、その一部としての南アの存在はそう大きな意味を持たなかったのです。すべての人がその一部だったのです。
米国は2国家共存方式に反対し、イスラエルもそれに反対しました。そしてオスロ合意の期間ずっとそれに反対し続けました。実際、パレスチナ国家に言及した最初のイスラエル内閣はベンジャミン・ネタニヤフの政権でしたが、極端な右翼政権でした。
彼らはそれに言及しましたが、ただあざ笑うためでした。彼らは次のように言いました、「いいでしょう、彼らがそれを国家と呼びたいんですね。よろしい。彼らがそう呼びたければそれをフライドチキンと呼ぶことだってできますよ。」それがコメントでした。
そして1999年から2000年の約1年、米国とイスラエルはパレスチナ国家について話し始めました。その後キャンプデービッドの提案が出されましたが、それがバンツースタン制度だったのです。
サファンディ:
そうです、そのときが基本的にはパレスチナ国家がバンツースタン制度の隠れ蓑となったのです。
ノーム・チョムスキー:
隠れ蓑です。そしてそれは1993年からは明瞭です。実際にもし複雑な詳細を見てみるならば、インティファーダ以後、今や事態は変わっているのです。
サファンディ:
第2次インティファーダですね。
ノーム・チョムスキー:
第2次インティファーダです。第1次インティファーダはすべてのものを始動させました。それ以前は、誰も全く注意を払おうとはしませんでした。
しかし第1次インティファーダは、何かをしなければならないのだということを明らかにしたのです。それで人々はオスロに至ったのです。
その後、第2インティファーダが起こり、ことが重大になった後…初めてイスラエルが実際に占領地域で組織的抵抗に出会いました。
ほとんど何の事件もなく、彼らは厳しい軍事占領を35年間も続けてきたのです。パレスチナ人は「耐えて」きたのです。抵抗とは耐えることを意味していたのです。
頭を上げずに、ただそこに留まっていろ。入植地から追い出されることはするな。それが抵抗でした。いくつかの例外はありましたが、それが基本的なものでした。
第2次インティファーダは認識の仕方に衝撃を与えました。2000年12月、クリントンは任期の終了時、大統領選挙後に、いわゆる「非公式のパラメータ」を提案しました。それは、一度も公式には公表されたことのないものですが、それがどんなものなのかはハッキリしていました。
その直後、2001年1月にエジプトのタバで、イスラエルとパレスチナの高官たちの間で交渉が行われました。それは公式ではありませんでしたが、高官レベルのもので、彼らは実際にキャンプデービッドを超える改善案を携えてきていました。
それでもそれは受け入れられませんでした。というのは、イスラエルの入植地が西岸地区を分割しているのを放置するものだったからです。しかし、それは大きな改善案ではありました。
その後イスラエルは大統領選挙前に交渉者を呼び戻し交渉を中止し、その後シャロンが登場しました。そして公式のテーブルに戻ることは決してありませんでした。
しかし他方では、知られていませんでしたが、非公式の交渉が続いていました。それは現在のジュネーブ合意と呼ばれているものにつながっていたのです。
<訳注:参照『ジュネーブ合意の実相』、ジュネーヴ合意:時空を超えて>
昨年(2003)12月のジュネーブ協定は、前イスラエル政府の高官とパレスチナ自治政府の高官との間では公式のものとされました。しかし、どちらも相手を公式には受け入れていません。
パレスチナ自治政府は、多少は曖昧に相手を受け入れてきましたが、それがいつものやりかたです。イスラエル政府は相手を真っ向から拒絶しています。米国は無視しています。
しかし、それが2国家共存方式による解決(settlement)の土台になっていて、ここ30年ほど国際的な合意を得ていたものとさして変わりはないものです。
難問は、米国がそれを受け入れるのか、ということです。分離壁は、受け入れることを不可能にするための、まさにもう一つの手段なのです。そしてそれが現在の状況なのです。
コリン・パウエルや政権の他の人たちを含め、米国政府は、政治的解決を拒否するのだけは止めています。彼らは少しは認めるでしょうが、それはバンツースタンになるでしょう。
サファンディ:
そのときは「アパルトヘイト」という用語がこの状況に対する正確な用語だと思われますか。
ノーム・チョムスキー:
南アのアパルトヘイトはまた違ったものを意味しています。アパルトヘイトはバンツースタンであるだけではありませんでした。アパルトヘイトは南ア内部での処置でした。
バンツースタンはそれだけで十分に悪いのですが、アパルトヘイトとは少し違ったものです。それは単独では存続できない領域内に人々を押し込めるものでした。インディアンを保留地に押し込めたように。
それをアパルトヘイトとは呼びません。それは何か別名で呼ぶべきです。
サファンディ:
しかし、その用語がイスラエル内にいる人々によって使われてきました。学者の間でも同様です。
ノーム・チョムスキー:
そのように使われてきましたが、それは異なる理由からです。
サファンディ:
その理由は何でしょうか。
ノーム・チョムスキー:
その理由はイスラエルそのものと関係があります。ウリ・デイビスは1960年代以来、市民的不服従の運動に関わってきて、イスラエルにおける市民的不服従活動家の中で第1人者でした。
1960年代に彼はイスラエルの中で真のアパルトヘイトに抗議しました。これがその国の全史にわたって続いてきたことでしたが、それは1967年と1968年の頃に、特に劇的でした。
イスラエルは非ユダヤ系イスラエル市民の財産を没収する技術を持っています。それがアパルトヘイトです。それを行う方法のひとつは、ある地域を軍事地帯だと宣言することです。
そこで安全上の理由から人々は出て行かなければなりません。そしてそれが決してユダヤ人地区ではなくてパレスチナ人地区だということが、常に明らかになるのです。
その安全地区が宣言された後、入植地を建設するのです。そしてそれが続いてきているのです。パレスチナ人の村は、こうして土地を奪われたのです。
サファンディ:
それでしたら、南アで起こっていた強制移動と酷似していますね。
ノーム・チョムスキー:
そうです、同種です。そしてその後、人々がそれについて忘れ去ってしまった後で、中に入り、ユダヤ人だけの町を作るのです。そしてそれが起こってきたことなのです。
パレスチナ人の村は禁止され、ユダヤ人だけの町、カルミエルを作り始めました。これは閉ざされた地区です。そこにウリ・デイビスが入っていき、起こっていたことに抗議するために、法を破りました。それが市民的不服従の初めての重大な行動でした。
サファンディ:
これはいつのことですか。
ノーム・チョムスキー:
60年代のいつか、正確な時を忘れました。我々は何年間も友人でした。その後、彼は「アパルトヘイトのイスラエル」と彼が呼ぶものについて学術的な仕事をし始めました。それは社会の内部構造の問題なのです。
実際、私もそれについて書きましたし、またイアン・ラスティック(ご存じのことと思いますが、ペンシルバニア大学の教授です)もそれについて書きました。イスラエル自身の内部では、占領地区のことを忘れてしまっていますが、極端に差別的な体制があるのです。
それは巧妙なものです。ご存じのように。「ユダヤ人だけ」という法律などありませんが、現に極端に差別的な体制があるのです。
サファンディ:
とすれば米国南部のジム・クロウ(黒人差別)と同じですね。
ノーム・チョムスキー:
それ以上ですらあります。南部のジム・クロウは非公式のアパルトヘイトの類ですが、ここではそれが公式化されているのです。
ですから例えば、もし土地法を見て、それをきちんと解読すれば、結局はイスラエル内の約90パーセントの土地が「ユダヤの人種・宗教・生まれの人々」と呼ばれる人に確保されていることが分かります。
サファンディ:
彼らは「人種(race)」という用語を使います。
ノーム・チョムスキー:
「人種・宗教・生まれ」です。それがイスラエル国家とユダヤ民族基金the Jewish National Fundのあいだの契約に書かれている文句です。ユダヤ民族基金は非イスラエルの組織でありながら、様々な官僚的手続きを通じて土地を管理しています。そこで、それが土地管理当局において主要な役割を担っていることが分かるのです。
このすべては十分に隠されているので、「見てご覧なさい、ここにアパルトヘイト法がありますよ」などと誰も言うことができません。様々な規則と実例からそれを引き出さなければならないのですが、現にそこにあるのです。事実上、土地の約90パーセントが色々なやり方でイスラエルのユダヤ人市民のために保留されているのです。ベドウィン[アラブ系遊牧民]に与えられた短期契約というケースも時折はありますが、それも[無]に近いものです。
事実その件は、とても進歩的で社会主義的な立法として提示されています。土地は国有化されていますので、それは私有権の下にはありませんし、これが非常に進歩的で、西洋的で、左翼的だと見なされているのです。だから、ご存じのように「これはすごい」ということになるのですが、土地がユダヤ人市民に保留されていてアラブ人市民にではないのだということを保証するための、ぴったりの技術なのです。
その後、想像できる限りのあらゆる方法でそれが登場してきます。村の開発、学校、下水など、ごく日常のものに、はっきりと差別が表れているのです。その意味では、ある種のアパルトヘイト構造があるのです。そしてそれは体制に組み込まれているのです。またそれは出入国管理法や他のあらゆる種類のものに組み込まれているのです。
<訳注:参照イスラエルの基本法、ユダヤ民族基金>
サファンディ:
この用語「アパルトヘイト」をどう思われますか、この用語は、底辺に持つ意味として、どのような願いを喚起しますか。
ノーム・チョムスキー:
私は自分ではそれを使いません、本当のことを申し上げますと。それは私が「帝国」という用語を[しばしばは]使わないのと似ています。
なぜならこれらは煽動的な用語だからです。ただ状況を描写しさえすればそれで十分だと思います、他の状況と比較する必要もありません。すべての国は自分流のやり方で行おうとしています。ジム・クロウは南アのアパルトヘイトとも異なります。
私は極端な反ユダヤ主義の時代に、ここ米国で成長しました。1930年代私が子供だった時、父は中古の車を買うためにお金を何とかかき集めました。そして週末に住んでいた市近郊の丘まで一緒にドライブしようとした時、モーテルをチェックしなければなりませんでした。
もしモーテルが「規制されています」と言えば、我々はそこには行けませんでした。なぜならそれは、ユダヤ人は許可されていないことを意味していたからです。これは黒人のことではありません。ユダヤ人のことなのです。
そして1950年代初期に私がハーバード大学に行った時まで、そこには実際にユダヤ人の教授陣は居ませんでした。非常に反ユダヤ主義的だったからです。MITが大きな大学になった理由のひとつは、他のユダヤ人教授陣がハーバードで職が得られなかったということなのです。そこで彼らは通りを下ったところにあった工業技術学校MITに行ったのです。
それは南アのアパルトヘイトと同じではないのです。それにどのような名前をつけたらよいのか分かりませんが、とにかくそれは何か別のものです。それが何なのかを描写・記述しなければなりません。
米国内の反アラブ人種差別は風土的なものです。極端です。実際、ある意味ではそれは唯一の合法的な人種差別です。ハーバードの教授なら公然と人種差別主義的アラブ人非難に関する論文を書くことができます。それは注視されないからです。
私は時折ハーバード大学で講演をしますが、そこで彼らの言説を取り上げ、その中に「アラブ人」の代わりに「ユダヤ人」を入れ込みます。すると人々は言います。「まあ何てことでしょう、恐ろしいこと。誰がこんなことを言えるでしょうか。」
そこで、彼らに言ってみてご覧なさい、それが実はアラブ人であって、ユダヤ人ではないと。すると彼らは安心するのです。[アラブ人であれば、論文で人種差別をしても許されるのです。つまりある意味では合法なのです。]
人種差別は米国の風土的なものです。あなたがそれを正確にはどう呼ぶのか分かりません。そのための法的土台はありませんが、それは確かにここ米国に存在しています。またイスラエルは自らの形態を有しています。多くの他の国々もそうです。
サファンディ:
物事をすべて普遍的概念に関連づけたいと思っているわけではありませんが、あなたが提案していらっしゃることは、多くの場所で、この種の人種的文化的差異が、ある種の権力状況に連結しているということですね。
ノーム・チョムスキー:
あらゆる場所でそれを見られますよ。
サファンディ:
ですから「アパルトヘイト」がそのための用語としてぴったりだと思うのですが。
ノーム・チョムスキー:
アパルトヘイトはある特別な体制で、特に醜悪な状況における制度でした。デイビスは良い友人ですので、もし彼がそれを使うなら私は気にしませんが、個人的にはそれを使いたくはありません。
それは、状況を簡単に描写することが十分にできるときに赤旗を振る[煽動だけをする]ようなものです。
しかし私が言わねばならないのは、アパルトヘイトはパレスチナ占領地域のものとは全く完全に異なっているということなのです。
サファンディ:
イスラエル国内における問題としてのアパルトヘイトと、イスラエルと占領地域の間に広範囲に広がっている状況とを、あなたは対照的なものとして区別されていますね。
ノーム・チョムスキー:
はいそうです。
サファンディ:
だとすればあなたは「アパルトヘイト」をそのようなイスラエルと占領地域の間に広範囲に広がっている状況を説明する用語として適用するということですか。
ノーム・チョムスキー:
私はそれを「バンツースタン」的解決と呼びたいのです。占領地域に広範囲に広がっている状況は「バンツースタン」に非常に似通っています。
その処置は決定的に米国の資金で行われています。米国の外交的・軍事的・経済的援助が決定的なのです。それなしでは実行されることは不可能です。
サファンディ:
そしてそれは、1980年代ずっと、アパルトヘイト時代における南アへの米国支援に類似していますね。
ノーム・チョムスキー:
そうです。あなたはご存じだと確信していますが、レーガン政権は(コリン・パウエルを含め、基本的に現政権の人たちですが)、彼らは議会の縛りを回避する方法を発見し、アパルトヘイト政権を支援し続けました。そのほとんど最後まで。
サファンディ:
それは[イスラエルに]繋がっていますね…
ノーム・チョムスキー:
イスラエルの場合、「米国議会で決めた」経済制裁がないので、彼らはそれを隠す必要はありません。
サファンディ:
それが私の質問です。アパルトヘイト政権に反対する重要な手段のひとつは、最終的に経済制裁の使用でした。イスラエルに対する手段として、それは可能性があるのでしょうか。
ノーム・チョムスキー:
いいえ、わかりません。実際、イスラエルの場合について私は強くそれに反対してきました。いくつかの理由からです。
ひとつには、南アの場合ですらも、経済制裁は実に問題のある戦術であると思っています。南アの場合には、それらは[究極的には]合法的でした。というのは南アの大部分の人がそれを支持しているということがはっきりしていたからでした。
経済制裁は人々を傷つけました。人々が望んでいない限りそんなことを課してはいけません。それはモラルの問題です。だからイスラエルの場合、第1のポイントはつまり、人々がそれを求めているのかという点です。それで、明らかに否なのです。
しかしまた別のポイントがあります。南アに対する制裁が課されたのは、最終的に何年も後になってのことで、[アパルトヘイト反対のための]組織化と行動の数十年後でした。そして遂に南アが何故それを望むのかを人々が理解できる地点に至ったのです。
そこで経済制裁が課されるときまで、アパルトヘイトを支援する国際企業があったのです。それを支援した理由で何人かの市長が逮捕されました。
そこで、制裁を要求することは、自分たちが何をしているのかを大多数の人々が理解していないときには、たとえそれが道徳的には正しくても、戦術的には不合理なものです。それを正しいとは私は思いません。経済制裁を課されることになる国民が、それを要求していないとすれば。
<訳注:参照「経済制裁と南ア・デクラーク政権」、南アの弁護士らが、アパルトヘイトへの加担で多国籍企業34社を告訴>
サファンディ:
パレスチナ人は制裁を要求していないのですか。
ノーム・チョムスキー:
そうですね、制裁はパレスチナ人に対してではなく、イスラエルに対して課される[べき]でしょう。
サファンディ:
それが正しいですが…イスラエル人は制裁を要求していません。
ノーム・チョムスキー:
そのうえ、その必要がないのです。われわれは米国に対する経済制裁を要求すべきなのです。もし米国がこれに対する大規模な支援をやめなければ、終わりだ[と言うべきなの]です。
だからイスラエルへの制裁を行う必要はないのです。それはポーランド人がやっているからといって、ロシアの支配下にあったポーランドに経済制裁をするようなものです。
それでは意味がありません。この米国では私たちがロシア人の役割を果たしているのです。
イスラエルはもちろん米国が許可する限り出来うることは何でもやるでしょう。米国がノーと言えばすぐに、それは終わりです。
力の関係は非常に直接的です。気持ちの良いものではありませんが、それが世界の動き方なのです。
U イスラエルとパレスチナ、南ア、そして政治紛争の起源:入植者による植民地主義という論点について
サファンディ:
この討論を、「アパルトヘイト」の代わりの、別のカテゴリーについて考えることに変えたいと思います。カテゴリーとしての「入植者植民地主義」について考えたいと思います。明らかに入植者植民地主義は世界中の多くの場所、北アメリカ、南ア、アルジェリア、オーストラリア、など多くの場所で経験された現象です。
ノーム・チョムスキー:
ほとんど世界中です。入植がどれだけ過去にさかのぼれるかに依ります。
サファンディ:
その通りです(笑い)。1967年以降の期間にそれを適用している学者も何人かいます。このカテゴリーをこの期間に適用することについてどのように考えられますか。
ノーム・チョムスキー:
1967年以降の期間は[事情が]異なっています。入植者植民地主義の概念は1948年以前の期間ならば、適用されるでしょう。それは、明らかに外部の人が入ってきて、基本的には先住民の土地・財残を没収するものでしたから。
サファンディ:
だけど、そこにもユダヤ人社会がありましたが…
ノーム・チョムスキー:
そうですね、小さなユダヤ人社会がありましたが、ほとんどは反シオニスト(シオン復興運動主義反対者)でした。
エルサレムやその他2−3の場所には伝統的な正統ユダヤ人社会がありました。しかしヨーロッパからの入植者が入ってくる以前は、強力な反シオニストでした。彼らの子孫は今でも反シオニストです。これが今ではかろうじて残っている小さな集団です。
彼らは正統なユダヤ人で、エルサレムで祈ることを望み、信教の自由を持つことができるように、ヨルダンがエルサレムを譲り受けるようにと要求さえしました。なぜならイスラエルの下では信教の自由がないと考えたからです。しかしこれは別の物語です。
また彼らの100%は反シオニストだったわけでもないのです。彼らの中にはシオニスト賛成派もいました。しかし、その大多数、いわゆるアリヤー(「土地に上がる」ことを意味する)と呼ばれる人たちは、ヨーロッパから入植者が来るまでは、反シオニストでした。
1948年までに入植していないと、入植者植民地主義の概念の議論の対象にはなりません。そこには、良かれ悪しかれ、国家がありましたから。その国家は国際的システムにおける国家としての権利を持つべきです。それ以下でもそれ以上でもありません。
1967年以後、全く異なった状況になりました。つまり軍事征服です。
サファンディ:
入植者達はその地域の或る部分を占拠してきました。
ノーム・チョムスキー:
67年以前は違います。彼らはできなかったのです。殺されたかもしれないからです。
サファンディ:
しかし1967年以来…
ノーム・チョムスキー:
1967年に、いわゆる「占領地域」が(それにはシナイ半島を含めてですが)征服されて後、軍事占領下にあった地域にゆっくりと入植プログラムが始まりました。
実際、主要な入植地はシナイ半島にありました。1971年にイスラエルはエジプトから満足のいく平和条約の提供を受けました。エジプトは、国連決議242号を受け入れると言いました。
国際的境界線までの退却、満足のいく平和条約、中東地域国際水路の航海自由の保障などです。しかし彼らはイスラエルが北東のシナイ半島で入植するのをやめるよう望んでいました。その当時は労働党政府だったのです。シャロンではありません。
イスラエルは何千人もの農夫を追い出しました。彼らはベドウィン族と呼ばれていましたが、彼らは北東シナイ半島で農業に従事していたのですが、イスラエルは彼らを砂漠に追いやって、ユダヤ人だけの都市を建設したのです。
エジプトは激怒しました。サダト大統領はシナイ半島での植民(セトゥルメント)を終わらせる完全な政治的解決を要求しました。彼の主要な関心はエジプトの領土でした。イスラエルと米国はそれを拒否しました。
そういうわけで依然として軍事的紛争が継続していました。最終的に1978年に、キャンプ・デービッドで、イスラエルと米国は、サダトが1971年に作った提案を受け入れました。その当時は拒絶したものです。その理由は1973年の戦争[第4次中東戦争]でした。
他方、イスラエルは既に西岸地区とガザに植民を始めていて、入植者が増加していました。まさに組織的なプログラムでした。<訳注:参照「簡単なパレスチナの歴史」>
サファンディ:
それが長く続く一連の流れとなったのですね。
ノーム・チョムスキー:
それは長く続く一連の流れの一部なのですが、軍事占領下の地域における違法な入植(セツゥルメント)なのです。それは、どのように叙述しようとも、1948年以前に起こっていたことと全く異なっています。
あなたは私の意見を求めていますが、子供時代の1930年代以来、私はこれに関わってきたのです。私はシオニスト運動に関わってきましたし、実際、シオニストの青年リーダーでもありました。当時私はユダヤ国家に反対していました。
それはシオニスト運動の一部でしたが、主流派ではありませんでした。しかしシオニスト運動の傘下にあると考えられていました。そこで、私は活動的シオニストの青年リーダーでいられたのです。10代の私の人生においては大きな位置を占めるものでした。
が、私はユダヤ国家には反対していました。1948年までのことです。
サファンディ:
その理由は、ユダヤ国家というものが、世俗的な社会主義原理と衝突するだろうと考えていたからなのですね。
ノーム・チョムスキー:
ごらんのとおり、私はイスラム国家に、白人国家に、キリスト教国家に反対しています。その私が、どうしてユダヤ人国家に賛成すべきでしょうか。
定義から明らかなように、それは差別的国家なのです。もしそれが「日曜日には学校へ行かない」という程度の象徴的なものならば、それほど問題はありません。
しかし、ユダヤ人国家ができれば、それは象徴以上のものになることは明らかでした。たとえば土地[収奪]法のようなかたちで、露骨に表れるだろうと思っていました。
そうです、それはひどい考えだと私は思いました。しかし一旦それが1948年に確立すると、それは現存するものとなりました。実際に私はしばらくの間キブツに暮らしたのです。
したがって、もしこの従来のシオニスト運動の一部として自分を見なし続けたいのなら、イスラエル内部の非常に差別的な要素を排除することに賛成しなければなりませんし、もちろん外国人による征服=入植に反対しなければなりません。
サファンディ:
そこで、それはある意味で公民権運動になっているのですね。
ノーム・チョムスキー:
そうですね、イスラエル内部においてはね。しかしながら1967年における私の印象は、67年[第3次中東戦争]以後、イスラエルは妄想的な考えを持つに至ったというものでした。
努力すれば、エジプトやヨルダンのような主要なアラブ諸国とともに平和へと移行することもできたのです。基本的には2−3年のうちに平和に同意するという動きです。
私の意見では、ヨルダンからこちら側、すなわちヨルダンから地中海への地域に、二つの民族による一種の連邦国家、つまり二国家による一種の連邦制国家をつくるべきだったのです。そのうちのひとつは基本的にはユダヤ人で、もう一つは基本的にアラブ人です。
それぞれの内部ではユダヤ人あるいはアラブ人だけという点では差別的ですが、それ以外の方法はありません。しかしペアになる社会があるという事実によって埋め合わせがされるでしょう。こうして将来、両者が統合されることも可能になるでしょう。
非国境[連邦]ラインに沿って交流が発展すればするほど、更に大きな統合が進行し、究極的には或る地点で何らかの合意が達成され、人々はある種の非宗教的世俗的国家を形成することができるのです。
今、それは法律を制定することによって出来るものではありません。それは自然に成長していくべきものなのです。そしてそれを成長させることができる可能性は、先ず連邦制をつくることから生まれるだろうと思います。
サファンディ:
しかしそれは…
ノーム・チョムスキー:
パレスチナ人がそれを受け入れたであろうことは確かですし、アラブ諸国もそれを受け入れたしょう。世界も反対しなかったでしょう。しかしイスラエルは受け入れようとはしませんでした。
サファンディ:
そのような選択肢は、もう一度、浮上する可能性はあるでしょうか。
ノーム・チョムスキー:
そうですね、チャンスを失ったと思いますね。何が起こったのかは興味深いですね。
1967年から1973年までは、その選択肢はまだ生きていました。その選択肢について話した人はほとんどいませんが、私はそのわずかのうちの一人でした。そしてわれわれは両陣営から憎まれました。誰も私たちに話しかけようとはしませんでした。1973年にそれは終わりました。
1973年に[第4次中東]戦争が起こりました。とても重大な戦争でした。イスラエルにとってそれは非常に危険なものでした。戦後、彼らはエジプトをただ追い出すことはできないのだということを認識しました。そして米国とイスラエルはそのときエジプトとの和解の方向へ動き始めました。
<訳注:参照「中東戦争」>
しかし、そのときまでにパレスチナ問題(パレスチナ社会でさえ)が、国際的な問題になってしまっており、1973年からは唯一の真の選択肢は[連邦制ではなく]二国家共存方式となりました。今、失われたチャンスへと戻ることができるでしょうか。私はできないと思います。
実際、米国とイスラエルの状況を見ることは、ある種興味深いことです。連邦制二民族共存国家Bi-nationalismについて話すということは、今では或る種の合法性を持っていますが、67年から73年の期間には、その話題は禁忌だと考えられていたのです。何が変わったのでしょうか。変わったのは、それが今や不可能だと考えられるようになったということです。
従って、もし誰かが『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』に記事を書きたいと望むなら、そんなことはもはや問題ではありません。それが実行可能なとき、それは許され得なかったのです。実際、その話題は軽蔑されました。私がアメリカの知識人の中で大変興味深い位置にいる理由のひとつは、私がその当時それについて話していたからなのです。
今は誰でもその話題について話すことができます。それは実行不可能だからです。イスラエルが現在いかなる形式でも連邦制二民族共存国家に合意する可能性はありません。そこでオーケー[OK]なのです。もし知識人がそれについて話すとしても、何の問題もなくなったというわけです。
サファンディ:
エドワード・サイードはそれについて話していましたね。
ノーム・チョムスキー:
エドワード・サイードは旧友ですが、それは30年前のことです。1990年代後期では遅すぎました。そして『ニューヨークタイムズ』でさえ、それについて書くことを彼に許しました。
もし彼が実現可能だった当時それを暗示しようとしていていたら、彼は実際に言論界から締め出されていたでしょう。しかし1990年代後期では、それはオーケーだったのです。
なぜなら、それはもう可能性の範囲から出ていたからです。エドワードは、二国家間解決の支持者だったのです。
サファンディ:
しかし彼は結局、一国家主義の支持者になりました。
ノーム・チョムスキー:
1990年代後期です。オスロ以後です。しかしその期間を通して、彼は二国家間解決のPLO正式受諾を始めた人々の一人でした。私たちは旧友でしたが、彼にはそれ以外の選択肢はなかったのです。
多分、彼の心には一国家主義[連邦制二民族共存国家]を良しとする気持ちがあったのかもしれません。しかし彼は一般的な国際的合意の一部であり、二国家間解決を支持する指導的パレスチナ人となっていました。
1990年代後期までは、二国家間解決は[おそらく可能]でした。しかし、オスロ合意の後、それが何処に向かって進行しているかは、御存知の通りです。
彼はオスロ合意に直ちに反対しました。彼はオスロ合意が何をもたらすかを正確に知っていたからです。彼はオスロ合意が正に売り尽くしセールになるのを直ちに見て取った非常に少ない人の一人でした。だから彼はそれに初めから反対しました。
そしてその後オスロ・プロセスが進行して行くに連れて、二国家間解決を放棄するように呼びかけ始めました。しかし実行可能な期間は1967年から73年でした。ただし当時はそれについて簡単には話すことができなかったのです。現在の討論を見ても、決してそれに触れていません。
彼らはそれを行うチャンスがありました。しかし、そのチャンスは過ぎ去りました。おそらくいつかそれは戻ってくるでしょうが、しかし今ではないのです。現在の唯一の実行可能な解決は国際的な合意を得ている二国家間解決あるいはそれと似たものです。国際的に合意を得ている境界線に基づいて(あるいはその近くで)解決をはかるものです。
サファンディ:
入植者植民地主義について言えば、それはアルジェリア方式から南ア方式への移行だということでしょうか。
ノーム・チョムスキー:
イスラエル内部とパレスチナ占領地区とを区別しなければならないと私は思います。
占領地区では、それはまさに完全に違法な領土征服なのです。
サファンディ:
南アのように。
ノーム・チョムスキー:
いいえ。なぜなら南アは国際的合法システムの中で動いていたからです。南アは自国領土内で支配をしていると見なされていたからです。
イスラエルは占領地域に対して何の権利も持っていません。それはサダム・フセインがクウェートに対して何の権利も持っていないのと同じです。それは全く異なった事態です。
サダム・フセインのイラク内部で起こっていることとクウェート内で彼が行っていることは、全く別のことです。パレスチナ占領地域はクウェート征服のようなものなのです。
イスラエルがレバノンの半分を征服し(従ってそれは侵略なのですが)、レバノン内部で入植を行い始めたのであれば、それはイスラエル内部で進行していることとは全く異なったものになっていたでしょう。その区別は非常に決定的なのです。
V.南ア:その実例と挑戦
サファンディ:
南ア自体に話を移したいと思います。あなたがそこに行かれたことがあり、UCT(ケープタウン大学)その他の場所で講演されたことを存じ上げております。
私は劇的変化を遂げた国家としての南アについてどんな展望をお持ちかに興味があります。御著書『運命的三角地帯』新版の一部を読みました。その中であなたはそれを成功であると評しています。
それは、あるレベルでは成功だということですね。
ノーム・チョムスキー:
あるレベルにおいては、です。
サファンディ:
ANC(アフリカ民族会議)についてのあなたの意見に興味があります。長く続いた抵抗集団としてPLOに似ていますね。
PLOは長い間、特に米国によって周辺的弱小集団だと見なされていた組織で、その後に権力を握り、米国に受け入れられました。あなたのご意見はどうでしょうか。
ノーム・チョムスキー:
そうですね、ANCはPLOと異なります。私はANCについて多くを読みましたし、私はそこに行きました。その旅行は、読んで推測していたことに対して個人的な豊かな経験を与えてくれました。
ケープタウンを例にとって見ましょう。私が行った場所です。もしあなたが壁の内側にいるならば、ケープタウンの内側にいるならば、進歩的な都市に見えます。黒人白人はともに入り交じり、白人がリムジンに乗っているのと同じように黒人もがリムジンに乗っています。
貧しい地区もありますが、とにかくそこにはたくさんの黒人の顔があるように見えます。そこでケープタンは人種が統合された都市であるかのように見えるのです。
一方、もしあなたが壁の外に一歩踏み出ると、それはホラー小説そのものです。そこには、私の人生で見たこともないほどの最も恐ろしいスラム街がいくつもあります。私はかろうじてそこに入っていくことができました。なぜなら1997年に活動家が私をそこに連れて行ってくれたからです。さもなければ怖くて入れなかったでしょう。
そこでは本当に深い貧困状態におかれた人々が多数いたのです、もちろん全て黒人です。私がそこに行ったとき、電気は通っていませんでした。今は、電気は通っているのかどうか私は知りません。それが南アの別の側面です。
そこで基本的に起こったことは、大きな秘密でもないことだと思いますが、人種システムが技術的=法律的に消滅し、階級システムが残ったことです。今や裕福な階層の中に黒人の顔が見えるようになったということです。
そして階級システムは人種システムに非常に近似しています。厳密に同一ではありませんし、形式的=法律的な人種差別ではありませんが、実際のところ、多くの人にとっては、アパルトヘイト下よりも悪くなっているかもしれません。
しかもANCは世界標準となっている新自由主義的なプログラムを採用しています。それは大多数の人々にとって破壊的なのです。世界中の至る所で強要されているように、南アでも強要されているのです。そして、その理由は御存知の通りです。それがシステムに組み込まれているからです。
米国内ですら同じです。しかし新自由主義的な政策が押しつけられて以来いったい何が起こったのかをあなたが見るならば、米国内の状況は第3世界でと比べてそれほど厳しくはありません。なぜなら人々は決してそれを許さないからです。これらの施策が主に弱者対象であり、金持ちは決してそれを受け入れないからです。
しかし米国のような富裕国でさえ、レーガン政権のように、いくらかの動きがありました。クリントン政権も大して違いがありませんでしたが、レーガン政権の場合はもっと極端だっただけです。彼らは、企業資本主義体制による歯止めなき破壊から、この1世紀の間、民衆を多少なりとも守ってきた法律や制度を、どうにかして取り除こうと頑張っているのです。それは大変厳しい動きです。
サファンディ:
南アも同じ道を歩んでいるというわけですね。
ノーム・チョムスキー:
そうですね、それはもっと極端です。なぜならそれは第3世界だからです。
南アは更に極端なケースです。これらの新自由主義プログラムは、民衆が多くの自由を勝ち取っていない国で、更に大きな厳しさで強要されるのです。
米国では人々が多くの自由を獲得する2百年間の闘争がありました。第3世界に押しつけるのと同じ施策を、彼らに押しつけることは非常に困難なのです。
これについて何も新しいことはありません。第1世界と第3世界との間の違いは、主として18世紀以来大きくなってきました。いま第3世界と呼ばれている国と第1世界と呼ばれている国との違いは、18世紀にはそれほど大きなものではなかったのです。
たとえば当時の英国は、本質的にはインドや中国と比べると後進国でした。当時のインドや中国は世界の主要な商業と工業の中心地でした。英国は、優れたインドの繊維メーカーと競争して自国の産業を発展させるために、高い貿易保護障壁を課さなければなりませんでした。
実際、当時の英国はアイルランドの毛織物生産を力ずくで破壊しなければならないくらい弱体だったのです。その破壊以来、いくつかの非常に順調な発展がありました。要するに、市場規制を強制された諸国は第3世界に転落しまし、市場規制から自らを守った諸国が第1世界になったのです。重要な例外はひとつもありません。
Christopher J.
Lee teaches South African history in the Department of History at
Harvard University.
Our journal, Safundi: The Journal of South African and American
Comparative Studies, is the centerpiece of our online community.
Safundi 、"S" represents "South
Africa," "a" stands for "America," and
"fundi" comes from the Xhosa word, "umfundi,"
which translates as "scholar."
Safundi is an online community of scholars, professionals, and
others interested in comparing and contrasting the United States of America
with the Republic of South Africa.
|
On behalf of Safundi, Christopher J.
Lee interviewed Professor Noam Chomsky on March 9, 2004, in his office at the
Department of Linguistics and Philosophy, the Massachusetts Institute of
Technology. They spoke on the occasion of the tenth anniversary of the end of
apartheid, the building of the so-called "separation wall" in
Israel-Palestine and its comparison to apartheid measures, and his general
resurgence as a critical voice against U.S. foreign policy since September 11,
2001.
[PR]動画