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中東和平への見通し
ノーム・チョムスキー
マリーズ・マイカル第1回年次講演より
「正義なしには平和はなく、真実なしには正義はない」
於 トレド大学
2001年3月4日
0 はじめに
皆さん、有難うございます。私はこの一連のマリーズ・マイカル講演の冒頭を担うという恩典が得られたことを本当に嬉しく思っています。私はこの冒頭講演を祝賀調で始められたならばと願いましたが、それは現実的ではなかろうと思います。多分より現実的なのは例の有名な格言に固執することです。それは「我々は意志の楽観論ではなく知性の悲観論を求めて励むべきである」というものです。
論題に立ち入る前に、それについてはちょっと予備的な解説を2,3させて下さい。まず第1に、私の講演予告の演題「中東和平への見通し」を引用することから始めたいと思います。
確かに「和平」「平和」は「戦争」よりもより好ましいものですが、それは絶対的な価値ではありません。それで私達は常に問います。「如何なる類いの平和か」と。
もしもヒトラーが世界を征服してしまっていたならば平和は存在したことでしょうが、その平和は私達が出会ってみたいものだと思うような類いのものではありません。
第2は、この独特の論題「中東における和平の見通し」には多くの面があるということです。幾つもの地域
で大変な暴力が進行中ですが私は特に3つの地域について言いたいことがあります。
1つはイスラエルとパレスチナです。次はイラクで、そこでは制裁と爆撃の両方が行われています。3番目
はトルコとクルド人です。それは90年代の最も苛酷な人権への残虐行為の1つであり、事実上現在も進行中
です。
そしてその他にも沢山の問題があります。たとえば中東という地域内でイランという場所の問題があります。そしてあなた方が目にする何処の場所でも、実質的には例外なく、抑圧、人権に対する酷い仕打ち、拷問及びその他の恐怖の数々が存在しているのです。それで中東和平の問題には多くの局面があるのです。
第3のそして最後の論評は、この中東の諸問題の隅々にわたり合衆国の役割が重要であり、且つ非常にしばしば決定的であるということです。実際、私が言及した4つの特別な事例においては決定的なものです。
更に言えば、「合衆国の役割」が如何に重要な一要因であろうとも、それは私達自身の関心事の中心であるべきなのです。全く明確な理由、つまり、それは私達が直接に影響を及し得る唯一の要因だからです。
残りの諸要因については、それを私達は非難することは出来るでしょうが、それについては多くの事をすることは出来ません。
それは自明の理であり、あるいは自明の理とすべきなのです。しかしそれを強調することが大切なのです。というのは、そのことは、これまで殆ど例外なく拒絶されてきているからです。
目下支配的な教義は、レーザー光線まがいに他の人達の犯罪に焦点を合わせて、それを嘆き悲しみ、それなのに自分自身の犯罪については知らない振りをするか否定をするというものです。
或いは、より正確に言えば、私達は自分達の物の見方を己の姿は鏡には映らないような具合に、構成すべきなのです。これが現在の支配的な考え方です。それで私達自身の責任問題は絶対に発生さえしないのです。
より正確に言えば、それは只1つの関連、即ち他人の犯罪に対して我々は如何に振舞うべきかという関連においてしか発生しないのです。
それで、例えば今迄に莫大な文献が(大衆的なものも学問的なものも)この2・3年に奔流となって出てきていますが、それは「人道主義的干渉というジレンマ」と称されるものについて書かれたものです。
しかし、それは全て他の人達が罪を犯している場合で、しばしばその通りなのですが、いざ自分の祖国アメリカが大いなる残虐行為に加担している場合には、全く口を閉ざして言及していないのです。
つまり、もう1つの問題、よりずっと重要な論題である「大いなる残虐行為への参画からの撤退というジレンマ」については、これまでの出版物の中に殆ど一語も見い出すことはないでしょう。
実際には「ジレンマ、すなわち板挟みになるような板」などは全く無くて、在るのは、しっかりと鎧戸を付けたまゝにしておかなくてはならない「窓」なのです。
さもないとかなり不快な光景が目前に現れることに
なり、それは私達が目を向けてはいけないことになっているものなのです。
この中心的な論題、つまり「なぜ自分の国が犯している罪について言及しないか」の言い抜けが如何に巧妙に成し遂げられるかということは興味ある、且つ重要な論題で、それについては言うべきことが沢山あります。
しかし今日は時間の関係で、残念ながら、それは脇へ置いておきます。それは、今日の私の論題に対するある種の背景となる警告として残しておき、ここでは私達に係わる特別な諸問題、中東問題を離れずにゆこうと思います。
とはいえ、他者の犯罪のみを論じる、この恥ずべき姿勢は決して珍しいものではないということを付け加えなければなりません。実はそれは一種の文化的な普遍的特性なのです。
それどころか歴史上または現今の何処かで、この同じ主題が支配的でない事例を捜しあてるには非常な努力をしなければならないだろうと私は思います。それは人類の魅力ある特色ではなく非常に現実的な特色なのです。
1 イラクの問題
手近にある問題を選びましょう。先ずはイラクの問題です。イラクへの制裁についての唯一の重要な疑問はそれが単に恐るべき犯罪なのか、あるいは文字通りの集団虐殺なのかということです。
例えば、状況を最も詳細に心得ている人達、特に国連の計画の調停委員であり大いに尊敬を得ている国連職員のデニス・ハリディは、それを文字通りの集団虐殺だと告発しているのです。
ハリディは自身が「集団虐殺条令」と称していたものを実行するよう強要されていたことを理由に不本意ながら辞任しましたが、後継者のハンス・フォン・スポネックも同様にそれを集団虐殺と称しています。
それどころか、制裁の結果がサダム・フセインを強化し、且つ住民を荒廃させることになってしまっているということは至る所で認められています。その認識をもちながら、それでも私達は制裁を続けなければならないのです。
以上が制裁の結果であることに重大な意見の不一致はありません。
これにたいする種々の弁明が提供されていますが、それには念入りな注意が必要です。そうした弁明は私達アメリカ自身のについて多くのことを語っていると思います。
制裁を正当化する論議の最も簡単な方向はマドレーヌ・オルブライト国務長官が与えてくれました。あなた方はきっと思い起こすことでしょう。
2、3年前、全国的なテレビ番組でオルブライト長官は「50万人のイラクの子供達を殺してしまっていた事実をどう思うか」と尋ねられました。彼女はその事実に基く申立てを否定しませんでした。
彼女は「高い代価だった」と言ってその事実を認めましたが「それはその代価に値するものだったと我々は考えている」と言ったのです。それで討論は終りました。
これは重要な事実であり、私たちアメリカの反応を知るには非常に啓発的です。評言は彼女のものですが、反応は私達アメリカ国民のものです。反応を見れば私達自身のことが分ります。
次に一般的になされている弁明は、それは全くサダム・フセインの責任だとするものです。この論理は好奇心をそそります。
で、その主張を真理だと仮定しましょう。するとオルブライトの議論にしたがえば次のような結論が引き出されてくることになります。
「それはサダム・フセインの責任だ。故に我々は、彼が住民が荒廃させ、その結果彼自身の支配を強化するのを支援しなければならない。」
もしもあなた方がそれは彼の責任だと言えば論理的にそうなるということ、私たちがフセインを支援し続けなければならないということに注目して下さい。
[つまり経済制裁が続けば、老人や子供が大量に死に追いやられ、その結果、フセインに対する敵意よりもアメリカに対する敵意が住民の中で強まり、その結果、フセイン政権はますます安泰ということになるわけです。要するに、アメリカは側面的にフセインの支配強化を援助しているわけです。]
3つ目の論点は、少なくとも真実と言ってよいと思いますが、サダム・フセインは怪物というものです。
実際、トニー・ブレアやビル・クリントンやマドレーヌ・オルブライト、あるいは、このことに言及しているひとなら誰しも、みな繰返してこう言って制裁を正当化しています。
この男はあのような化け物であるから我々は彼を生残ったまゝにしておくわけにはゆかないだけだ、というわけです。
彼は究極の残虐行為を犯すことさえしてしまっています。即ち、クルド人への恐ろしい毒ガス攻撃により自国民に対して集団殺戮兵器を使用したのです。
これは全くその通りなのですが、そこには3つの言葉が欠けています。すわなち「私たちの援助で」(WITH OUR SUPPORT)という三つのコトバです。
間違いなく彼は究極の残虐行為を犯しました。毒ガスを使い自国民に対し化学戦を仕掛けたのです。ただし「私達の援助で」です。
私達の援助は事実上、継続しました。彼が相変わらず私達の好ましい友人であり、貿易相手であり同盟者
である限り、こうした残虐行為は援助と全く無関係だったのです。
そのような残虐行為は私達にとって問題ではありませんでした。そのことは私達の反応が証明しています。なぜなら援助は継続し、それどころか実際には増大さえしたのです。
興味ある実験があります。その気さえあれば実験可能なものです。それは、主流メディアの論議の中で、何処かに、この欠けている3つの言葉が付け加えられているかどうか、その言葉を見出せるかどうか検分することです。
私はそれを一つの実験として読者へ残しておこうと思います。それは啓発的な実験です。とはいえ時間の関係で、私は直にその答えをお教えすることが出来ます。
あなた方はそれを見出すことはないでしょう。そしてそのことが私達自身アメリカについても何事かを教えてくれます。その論点・議論の仕方についても、です。
ついでに言えば、同じことがフセインの集団殺戮兵器についても当てはまります。
一般的な主張は、我々は彼の生存を許しておくことは出来ぬということですが、その理由は、恐らく彼が製造中の集団殺戮兵器が危険であるから、というものです。
その危険は全くその通りです。ただし、私たちが彼に支援していた当時も危険だったということを除けば、です。
あの当時、私達は意識的に彼に集団殺戮兵器の開発手段を提供中だったのです。その時は、彼は今日彼が危険であるよりも遥かにより大きな脅威だったのです。
それでその論点については幾つかの疑問が生じます。それが次の第4の論点となります。
さてそこで、第4の論点は、サダム・フセインが、この地域の国々にとっての脅威であるという点です。
米国の支持と協力を得て最悪の罪を犯していたときとまったく同じように、彼の影響力の及ぶ範囲のどの国に対しても、深刻な脅威を与えているのは疑いのないことです。
しかし、実際は、彼の影響力は以前よりはるかに小さくなっています。そして先日の米国による爆撃などに対するこの地域の国々の受け止め方も、この第4の論点に対するそれら各国の考え方を明らかに示しています。
私が知る限り、その各国の反応が今まで述べてきた論点を語り尽くしています。
しかし、これらのサダム脅威論が逆に、たいへんきびしい制裁を課すことでイラク国民を苦しめ、サダム・フセインを補強し続ける結果となっているのです。
私にわかる範囲では、このことに対し、公正な市民として行わなければならないことが2つあります。1つは、それに対して何かをすることです。私たちが、です。
2つ目は知的なことです。制裁の本当の動機はなんであるのか理解しようとすることです。それは表面に出てくるようなものではないからです。表面的理解では意味をまったくなさないものだからです。
本題から少し離れるかもしれませんが、私はフセインの脅威を見くびりたいと思っているわけではありません。イラクとフセインの脅威を懸念するに足る深刻な理由があるからです。
ただし私たちがその脅威の形成を援助していた時期には、イラクとフセインの脅威を懸念する更に大きな理由がありました。しかし、そのことで今日も脅威を懸念する理由があるという事実が変わるものではありません。
そしてさらに一般的に言うと、この地域には極度の暴力と破壊の脅威を懸念すべき理由があります。それは私だけの考えではありません。例えば、クリントン政権下の戦略司令官であった、リー・バトラー将軍も同じ理解をしています。
戦略司令部は核戦略と核兵器使用にかかわる最高軍事機関ですが、その司令官であるバトラー将軍はつぎのように語っているのです。
「中東という敵意の温床のなかで、一国が、おそらくは何百という数の核兵器をあからさまに備蓄することや、他の国々にも同じことをする気にさせるのは、きわめて危険なことである。」
あるいは、抑止力として他の大量破壊兵器を開発することをうながすことも危険です。これは明らかに大変不吉な結果を引き起こす恐れがあるからです。
そして、バトラー将軍がこの点において正しいことは疑いがありません。実際、その脅威は他の要素を付け加えると、さらにいっそう不穏なものとなります。
それは、その国を後押しする大国が、他国に対して自らを「不合理で執念深く、もし挑発されれば極端な暴力に訴える気がある国だ」と見なされることを要求している場合です。
つまり「言うことを聞かなければ核攻撃されても仕方がないのだ」という他国に思わせることを大国自身が望んでいている場合です。それには核を持たない国への先制核攻撃も含まれています。
実は、私はクリントン政権下の高レベルの計画文書を引用しているのです。それはその当時、大統領指令によって作成された文書です。
これらの計画はすべて公文書となっていますから、米国について何か知りたいと思ったり、世界の多くの国々がなぜ米国をおそれるのかを知りたければ、必読文献となるでしょう。
実際、世界では次のように理解されているし、ここアメリカの戦略分析家もそう理解し記述していますが、要するに「他国は当然、彼ら自身の大量破壊兵器を抑止力として対応せざるを得ない」ということです。
これらは米国情報機関と戦略分析家たちによって確認されている展望であり、きわめて明らかなことです。そして、彼らはまた人間の生存に対する脅威は現在進行中の計画によって強められるだろうと、はっきりと認識していますし、彼らはそれを隠していません。
例えば、ほとんどのすべての国が先制攻撃用兵器だと考えている、アメリカの国家ミサイル防衛構想があります。現実的に見れば、これが先制攻撃用兵器であるのはきわめて当然です。従って、仮想敵国と見なされた国は、おそらく、その脅威にたいする何らかの抑止力を開発して応えるでしょう。
このことは米国情報機関や戦略分析家によって当然視されており、また、我々は他国のみならず自分たちをも破壊する脅威を引き起こすような政策を求めることになぜ固執するのかという疑問を投げかけることになります。これは誰もが投げかける、もう一つの疑問です。
話を中東に戻すと、上記の点において、中東は主要な危険を有しています。唯一の危険ではないが、少なくとも確かに高次の危険です。
90-91年の湾岸戦争直前に、このような疑問が持ち上がったことは、言及する価値があります。それらの疑問はイラクによって投げかけられたものです。
湾岸戦争が始まる数日前、イラクは次のような申し出を行いました。「再び」です。というのは、明らかにイラクは同じような申し出を以前にも何度かしているからです。
その提案というのは「クウェートから撤退するが、それは、大量破壊兵器の禁止を含めた、地域戦略の問題の決着をともなうものでなければならない」というものでした。その立場は、国務省の中東専門家によって、「真剣」であり「交渉の可能性あり」と見なされていました。
これとは関係なく、上記の立場は3分の2のアメリカ人の立場でもありました。というのは、湾岸戦争以前に、その2,3日前に行われた最終の世論調査によって、そのことが判明していたからです。
これらイラクの提案が、国務省の高官が結論づけたように、本当に真剣で交渉の可能性のあったかどうかはわかりません。というのは、米国によってそれらの申し出は即刻、拒絶されたからです。
それら提案は、ほぼ完全に、マスコミで報道されることはありませんでした。そこ・ここで若干そのニュースが漏れたことはありましたが、歴史からも、うまく取り除かれてしまいました。だから、わからないのです。
そうは言っても、この問題はまだ継続しています。まさに、バトラー将軍が言ったとおり、政策議題からも、一般世論からも取り除かれてしまっていても、その問題は継続しているのです。
そのイラクの提案は再び私たちの選択肢のひとつとして浮上するでしょうし、それらが選択肢のひとつから削除されることを私たちは強制されるわけにはいかないのです。
2 トルコとクルド人
さて、2つ目の問題を考えてみたいと思います。トルコとクルド人のことです。
クルド人は、近代トルコの歴史のなかでずっと惨めに抑圧されてきました。しかし、1984年に状況は一変しました。
1984年にトルコ政府は、クルド人に対して南東部で本格的な戦争を始めたのです。そして、その戦争は長期化し、事実、今でも続いています。
米国のトルコへの軍事援助を見てみると、それは普通、アメリカの外交政策を表すよい指標ですが、トルコはもちろん戦略上の同盟国ですから常にかなり高次元の軍事援助を得ています。
しかし、この援助は84年に急激に増えました。対ゲリラ戦が始まった年です。これは明らかに冷戦とは関係ありませんでした。これは対ゲリラ戦のためだったからです。
軍事援助は高額なまま、90年代にはピークを迎え、残虐行為も増加しました。軍事援助が最高額に達したのは97年でした。実際、97年だけで米国のトルコへの軍事援助は、50年から83年の冷戦の問題があったといわれていた時期よりも多いのです。
その最終結果はおそろしいものでした。何万人もの人々が殺され、2〜3百万人が難民となり、約3500の村が破壊されるという大量の民族浄化が行われました。これはNATOによるコソボ爆撃の被害の7倍でした。
そのとき、トルコ空軍をのぞけば爆撃をしたものは誰もいなかったのです。しかも、その爆撃は、どう使われるかを十分承知していながらクリントンが送った飛行機で行なわれたのでした。
合衆国はトルコの武器の80%を供給していました。しかも、それは重装備の武器でした。
私たち合衆国国民は唯一それを阻止できる立場にありながら、それをしなかったので、クリントン政権は自由にジェット機や、戦車、ナパーム弾等の重火器を送ることができ、それらは1990年代最悪の残虐行為に使用されたのです。
そしてそれは今も続いています。常にトルコ南東部やイラク北部国境においてクルド人を攻撃するためにさらなる戦いが繰り広げられているのです。その地域では多くの残虐行為を含む攻撃が行われています。
そのイラク北部はアメリカの定めた、いわゆる「飛行禁止区域」になっているので、クルド人は一時的に間違った圧制者から守られているはずなのですが、にもかかわらず残虐な攻撃が行われています。
イラク北部におけるトルコの軍事行動は、性格的にレバノンにおけるイスラエルの軍事行動に似ています。というのは、イスラエルはレバノン南部を占領して以来、この22年間にわたりレバノンを攻撃しているからです。
イスラエルによるレバノン南部の占領は国連安全保障理事会の決議に反しているのですが、合衆国の許可のもとに行なわれているので、だから黙認されているのです。
この間、イスラエルは多くのひとを殺してきているのですが、正確な数字が分かりません。というのは合衆国やその同盟国による犠牲者の数を数える人は誰もいないからです。
しかしレバノン筋の情報によれば、およそ45,000人の人が殺されています。どんな状況であれ、これは少ない数字ではありません。
イラク北部における軍事行動も似たようなものです。しかし、そこはアメリカによって「飛行禁止区域」になっているので、誰も実態を知りようがないのです。
詳細を述べるまでもなく、これらすべてのことは合衆国においてどのように扱われているのでしょうか。
単純なことです。沈黙です。調べてみればすぐ分かることであるし、ぜひそうしてもらいたいものです。
時には沈黙に同意できないひとによってその問題が持ち出されることがあり、それが無視できない程になると、いつもの反応があります。
つまり、自称「人権擁護者」が、いわゆる「クルド人を保護することに失敗した」などと言って嘆き悲しむだけなのです。
実際のところ、その「失敗」はロシア人が「チェチェン人の保護の失敗」と言っているのと何ら変わらないのです。
ロシア政府がチェチェン人を弾圧してきたのは自明のことだからです。
もしくは「合衆国政府は何が起こっているか知らなかったのだ」と主張するものもいます。
そうであるとするとクリントンが莫大な量の武器をトルコに送っておきながら、彼のアドバイザーは、その武器が使用されることを知らなかったということになります。
実際、トルコはこの期間に合衆国の軍事援助を世界で最も多く受ける国になっていますし、それはすぐ証明できることです。
合衆国はトルコの武器の80%を供給しながら(それは戦争拡大に伴い増加しています)これらの武器が戦争において実際に使用されることなど思いもつかなかったということになります。
実際に行われていた戦闘と、ほとんど時を同じくして武器が流れていたにもかかわらず、これらの武器が実際に使用されることなど思いもつかなかったということになります。
「沈黙」に同意できず、この問題を取り上げたにもかかわらず、「合衆国政府は何が起こっているか知らなかったのだ」と主張するひとは、「微妙な感覚」が欠けているのです。しかし世慣れした批評家は、ちゃんと気づいて知っています。
また「合衆国は何が起こっているかを知ることは不可能だった。実際、それはアメリカからかなり離れたところのことだ。」と主張する人もいます。
偏狭の地、トルコ南東部で何が行われているか、我々アメリカ人に、どうして知ることができようか、というわけです。
たまたまそこには米国空軍基地があり、核搭載航空機を保有しており、したがって厳しい監視の元にあるはずなのですが。
しかしそこで何が行われているかどうして知ることができようか、というわけです。もちろん誰もが人権報告書を読むことをできるわけではありません。
しかし、その報告書には何が起こっているかが詳細に記されていますし、他の多くの研究もあります。しかし、これが一般的反応なのです。
私は先に、トルコは世界でもっとも多く米国の軍事援助を受けている国であると述べましたが、それは正確には正しくありません。
世界でもっとも多く米国の軍事援助を受けている国は別格なのです。それはイスラエルとエジプトです。両国は常に最も軍事援助を受けています。
しかしその両国を除けば、トルコは対ゲリラ戦争の間に最も多く軍事援助を受けた国になったのです。
一時期その座はエルサルバドルに奪われました。自国民を大量に虐殺した時期に、エルサルバドルが最も軍事援助を受けた国となりました。
しかしエルサルバドルが虐殺に成功をおさめると、再びトルコが第1位になったのです。
こうして、トルコは1999年まで1位であり続け、1999年にはコロンビアが1位になりました。コロンビアは現在、南半球で人権に関して最悪の記録をもつ国です。
コロンビアは過去10年間にわたって(その間、人権記録の最悪状態を維持してきましたが)米国から大量の軍事援助や軍事訓練を受け入れてきました。その50%を占めています。
ついでに述べさせていただくならば、アメリカからの軍事援助と援助を受けた国における人権侵害とは極めて密接な相互関係にあることが、このトルコとコロンビアの例で分かるはずです。
ところで、なぜ1999年にコロンビアがトルコを抜いたのでしょうか。
私たちは知らないことになっていますが、1999年までにトルコは国内の反抗勢力を抑圧するのに成功したからなのです。
ところが、コロンビアは内部の弾圧に成功しておらず、その年にコロンビアへの武器の流れがたまたま増加し1位になったのでした。
但し、先ほども述べたように、イスラエルとエジプトという「別格」「多年生植物」の2国を除けば、の話ですが。
これらすべては特に注目すべき事実です。なぜなら、全ての皆さんは次のことを御存知のはずだからです。
というのは、私たちは全員、この数年、自画自賛の洪水に浸されてきましたし、これは私の知る限り、かつて一度もなかったことでした。
その自画自賛と言うのは、歴史上初めて我々アメリカは人権擁護のために「原理と価値」を追い求めつつあり、とりわけ困難な事例に対処しているのだから、アメリカは如何に崇高な国であるかというものです。
クリントン大統領の言葉を借りると、「NATOの境界近くで人権蹂躙が行われていることに我々は我慢できない。したがって、それを阻止すべく立ち上がらねばならない」というわけです。
ここでも一般の報道で欠けている幾つかのコトバがあります。確かに私たちはNATO の近くで人権蹂躙が行われていることに我慢できません。
しかし、私たちは我慢できないだけでなく、実のところ 、「NATOの境界内で」(WITHIN NATO’s borders)、すなわちトルコで人権蹂躙を励まし人権蹂躙に参加することさえしているでのす。
この欠けているコトバが主流メディアに見出せるかどうか、探してみてほしいのです。どの新聞やテレビでも、この欠けたコトバ「NATOの境界内で」を見出せないでしょう。そのことが皆さんに新たな事実を教えてくれるはずです。
[NATO軍は、コソボでの人権侵害を理由にユーゴを爆撃していますが、ユーゴは「NATO内」ではありません。イラクでの人権侵害を理由にイラクを爆撃していますが、イラクも「NATO内」ではありません。しかしトルコは「NATO加盟国」なのです。]
これが第二のケースです。
3 イスラエルとパレスチナ問題
次に第三のケース、イスラエルとパレスチナを見てみましょう。まず現在の実情から始めます。後で背景にもどりますが、現状から見てみることにします。
現在の戦い、 ある・アクサ Al-Aqsaにおける「インティファーダ」と呼ばれている戦いと、それに対する米国の反応を見てみましょう。
それが、私がもっとも気になっているところであり、あなた方も、最も気にしているはずだと思うからです。
米国の公式な立場というものがあり、それは昨日も米国大使マーティン・インディク Martin Indykが繰り返していました。
彼によれば、「私たちは報復的暴力を是としない」というものです。それはパレスチナ人への厳しい警告でしたが、似たような警告は他にも多くあります。
その主張の妥当性を評価するのは簡単です。従って明白なやり方で評価してみましょう。
インディクが慨嘆している暴力、アル・アクサにおける「インティファーダ」は、200年9月29日に始まりました。
それは現首相のアリエル・シャロン が約千名の兵士を連れてイスラム教の聖地「神殿の丘」(イスラム名「ハラム・アッシャリフ」)
に行った次の日のことでした。
一行は驚くことに、ほとんど事件もなく進んで行きました。しかし、翌日の金曜日にパレスチナの人々が礼拝から帰ろうとすると、相変わらず大量のイスラエル兵士がいました。
だれかが石を投げると、すぐにイスラエル兵や国境警備隊が発砲して5・6名のパレスチナ人を殺し、100名以上が負傷しました。それが9月29日のことだったのです。
10月1日にはイスラエル軍ヘリコプター、正確にはイスラエル人のパイロットが乗ったアメリカ製ヘリコプターがさらに暴力行為を強化し、ガザ地区で2名のパレスチナ人が殺されました。
10月2日には軍用ヘリコプターが10名の人を殺し、35名の人を負傷させました。10月3日にヘリコプターは、集合団地や一般市民をターゲットにしました。
そのように殺戮行為が続きました。11月初めには軍用ヘリは、政治家の暗殺にさえ使われたのです。
この事態に米国はどのように対応したでしょうか。その対応は興味深いものです。それは、アメリカが望みさえすれば、事態を制御できるだ、ということを思い出せるものでした。
9月中旬、戦争が始まる前に、米国は最新鋭の攻撃用ヘリコプターを新しくイスラエルに送ったばかりでした。
また同じ時期に、米国海軍とイスラエル軍の先鋭部隊(IDF)は合同軍事訓練を行い、かって占領した地域の、奪還訓練を行いました。
米国海軍の役割はイスラエル軍が保有していない最新の装備を供給し、その使い方を教えることでした。それが9月中旬のことです。
10月3日――この日に報道機関は軍用ヘリコプターが集合団地を攻撃して何十人もの住民を殺していると報道しました。
この10月3日にイスラエルの報道機関は次のように報じ、その後、国際的な報道機関も同じことを繰り返して報じました。米国とイスラエルは過去10年間で最大の取引高に達した、米軍ヘリコプターのイスラエルへの売買は最大規模に達したと報じたのです。
次の日、主要な軍事専門雑誌はこの売買には新型の高性能攻撃用ヘリや旧型ヘリの部品も含まれていると報じました。それは民間人を殺傷する能力を高めるものです。
付け加えて言いますと、イスラエルの国防省は自分たちではヘリコプターは生産できないと発表しています。自分たちでは生産する力がないので米国から調達しなくてはならないのです。
10月19日には、アムネスティ・インターナショナル(人権擁護活動をしている国際的なNGO)は報告書を出し、現状においては米国に軍用ヘリをイスラエルに送らないようにと要請しました。これはアムネスティ・インターナショナルが出している一連の報告のひとつなのですが。
今現在のことを述べますと、2月19日に米国国防省ペンタゴンはイスラエルと米国は追加の売買契約、すなわち高性能攻撃用ヘリ=アパッチのための5億ドルもの売買契約をしたと発表しました。
そんなことが現在私たちに起こっているのです。もちろんこれはほんの一例を挙げたにすぎませんが。
さてここで、このことがメディアでどのように扱われているか見てみましょう。
実際にわたしは自分の友人のひとりにこの件に関して情報分析をしてもらうように頼みました。
すると、この事件の全容はフリー・プレスという新聞では見落とされずに報道されていることが分かりました。
ノースカロライナ州ローリーの新聞の意見欄でもそのことに触れてありました。
今までのところ、それだけがいま私がちょうど述べてきた内容を報道した全てなのです。このことはかなり印象に残ることだと私は思います。
上記のような状況は、その事実が知られていないからではありません。もちろん既知のことです。その件を全く完全に知らないという報道機関はこの国にはありません。
アムネスティ・インターナショナルの報告書を読むことが出来る人は誰でもそのことが分かります。実際にそのことを知りたいと思う人なら誰でも分かるのです。
その報告書とは無関係に、そのことは少なくともひとつの主要な米国の日刊紙、最もリベラルな新聞と評判の日刊紙の、編集者の関心を明確に引いたのです。
そして、それに高いニュース価値があるということに、どの編集者も新聞社も、わずかな疑問すら、確かに持たなかったのです。
しかし情報をコントロールする人たちは明らかにそのことを知りたくないし、読者に知らせることも望んでいないのです。そして彼らにはそうしたくない十分な理由があるのです。
国民に自分たちの名前で行われていることに関する情報を与えることは、窓を開けることになるからです。その窓は閉じたままにしておいたほうがいいからです。もし効果的に国民をマインドコントロールしようとするなら。
というのは、「民間人を攻撃したり政治的指導者を狙って暗殺を遂行する米国ヘリのことに時々言及するこれらの報告書」と「暴力をやめるようにどちらの側にも厳しく忠告する米国に関する報告書」の両方を並べて公表することは全く意味をなさないからです。
以上のことは、私たちが「意味のある暴力」などは信じないという原理に従っていかに生きるかという場合の、ひとつの実例、多くの中の、ひとつの実例なのです。
そして再びそのことは誠実な市民に二つの課題を残します。重要なひとつの仕事は「上記のような状況において何かをすること」です。
そして二つ目の仕事は、どうしてそういった政策が自分の国によって行われているかの理由を見つけ出そうと努力することです。
さて、その後者の問題に関しては、基本的な理由は明白で、実際には異論を差し挟む余地はないと私は思います。
と言うのは、湾岸地域が世界の主要なエネルギー資源を持っているというふうに長い間理解されてきているからです。それは比類ないほど重要な戦略的資源であるし巨大な富の源でもあります。
そしてその地域を支配するものは誰でも巨大な富にアクセスできるだけでなく、世界の諸問題においてもとても強い影響力を与えることが出来ます。なぜならエネルギー資源の支配は世界の諸問題においてとても強力な手段・梃子(てこ)になるからです。
だから、ここは、他とは比べられないくらいに重要なのです。少なくとも、たやすくアクセスできる資源として、私たちが知っている限りにおいてですが、はるかに重要なのです。
さらに言うと、中東のエネルギー資源の死活的重要性は当分は持続すると予想されるし、むしろ今後数年間は強まる、おそらくは急激に強まると予想されます。
石油を支配することの重要性、それは第一次世界大戦の頃までにはすでに分かっていました。その当時イギリスは世界の大国・強国でその地域の多くを支配していました。
しかしイギリスは第一次大戦後、その地域を軍隊で占領して直接的に支配するような兵力を維持できませんでした。そういった支配が出来ないほどにまで力が衰えていたのです。
だからイギリスは他の手段を用いることに転じたのです。そのひとつが空軍の力を使うことで、もうひとつが当時究極の残虐兵器と考えられていた毒ガスだったのです。
それらの手段を用いることを熱心に支持したのがウインストン・チャーチルでした。彼はクルド人やアフガン人に対して毒ガスを使うことを要求しました。
イギリスが毒ガスを使ったことは長年の間、隠匿されてきました。1980年頃になって、チャーチルがそれに熱心だったという事実も含めて、記録が公開されました。
私がイギリスに行って何かの話題で話すときはいつでもそのことを必ず取り上げることにしていますが、誰もそのことを聞こうとしないのに気づくのです。
湾岸戦争のときまでに情報は漏れ始めていたのですが、どんなふうにしてイギリス軍隊がチャーチルの指令に従ったのかという詳細に関しては相変わらず封印されていました。
1992年になってイギリス政府は国民から迫られて「開かれた政府」という方針を実施しました。その方針は、自由で民主的な社会においては、国民は自分の政府に関する情報を入手できるということを意味しています。
しかし情報公開政策の下で最初にとられた行動は、公文書保管所からイギリスがクルド人やアフガン人に対して毒ガスを用いたことやそこでのチャーチルの果たした役割に関連した全ての書類を削除することでした。
そんなわけでその件は、私たちが多くのことを知ることができない情報なのです。それは、私たちがあふれるばかりに自画自賛している、自由と民主主義への献身のおかげなのです。
[その「自由と民主主義への貢献」という名目を維持するために、逆に重要書類を隠匿したり摩擦したりして、自由と民主主義を押しつぶさなければならないというわけです。]
支配のための軍事的構成部分と並んで、政治的な計画配置もありました。それは何らかの方法で今も続いています。
第1次戦争中のイギリス植民地省は彼らが呼ぶところの「みせかけのアラブ国家」という計画を立案しそれを実行しました。
それは地元住民を管理する柔軟で適応性のある国家です。事態が手におえなくなった時には最終的にはイギリスが統治するものなのですが。
当時フランスもその計画に加わっていました。フランスはまあまあ強国といっていい存在でした。そしてアメリカは世界の諸問題においてまだ指導的な強国ではなかったものの中東において一定の関わりを持つに十分な力を持っていました。
この三つの強国が1928年にレッド・ライン合意に参加し、それによって中東の石油埋蔵量を三つの強国の間で分配したのでした。
その地域に住む人たちは明白に無視されました。しかし、そこの住民はその背後に強国の圧力を持った「傀儡国家」によって支配されていたのです。
第2次世界大戦までにはアメリカが圧倒的に支配力のある強国になり、中東のエネルギー資源を一人占めしようとすることは明白になりました。そのことは疑う余地がないことです。
フランスはそこから乱暴に撤退させられました。またイギリスも不承不承、「下級の相棒」junior partnerという役割を引き受けるようになりました。その「弟分の相棒」という言葉はイギリス外務省の役人が用いている言葉なのですが、哀れをもよおす言葉です。
いずれにしても、正常な力関係を基準にして見ると、イギリスの役割は時間が経つにつれて次第に小さくなっていったのです。今やイギリスはいわばアメリカのための攻撃犬のようなもの、つまり世界の諸問題において重要ではあるが従者の役割を演じる存在になっているのです。
さらに付け加えて言うならば、アメリカはまた西半球の石油資源の大部分を支配しました。北アメリカは戦後のおよそ25年間も最大の石油産出国でした。ウイルソン政権が主要な石油産出国ベネズエラからイギリス人を追い出してからは、アメリカは、とりわけ効率的に西半球の石油を支配したからです。
アメリカはイギリスの体制を引き継ぎました。基本的な原則は残ったままなのです。
その基本的原則とは、西洋(主にアメリカのことです)が、そこでおこることを管理しなければならないということです。その上、地域の富は西洋へ流れなければならないということです。
それはアメリカとイギリスにとって次のことが第1ということです。エネルギー会社や投資家が第1なのです。なぜならアメリカの富は、循環するオイルマネーや輸出業者や建設会社になどに著しく依存しているからです。
それが重要な点なのです。富は西洋へ流れなければならないし、支配力は西洋に、主にワシントンにできる限りとどまっていなければならない。それが基本的原則なのです。
そのことがすべての問題を引き起こしています。
ひとつの問題は、石油産出地域の人々は知恵遅れで無学だから決して石油取引の論理や基本的公正さを理解できないという点です。
石油産出地域の富は、そこで苦しんでいる人々のために使われるのではなくて西洋に流出すべきだということが、住民の遅れた頭では理解できないように[西洋人、とりわけアメリカ人には]見えるわけです。
そんなわけで、発達が遅れている人々に、これらの単純で明らかな原則を理解させるには絶えず強制力がいります。これが遅れた人たちに常に付きまとう問題だというわけです。
ところが[上記の原理を理解できない]「保守的・民族主義」の政府は、1953年に、その制度からイランを救い出そうと試みました。
しかし、この政府はイギリスとアメリカに支援された軍隊のクーデターですぐに転覆させられ、王制が復興しました。
この過程でアメリカは、それまでイランを支配していたイギリスを追い出し、イランの石油からイギリスを大きく遠ざけることに成功したのです。
その直後、次に問題になったのはエジプトで、イラン民族主義政府なき後は、ナセル Nasser大統領が影響力が大きい人物となり、すぐにアメリカにとって脅威とみなされるようになりました。
彼は独立民族主義のシンボルでした。彼とエジプトは石油を持っていませんでしたが、彼は西洋植民地からの独立を唱える民族主義のシンボルであり、それが脅威となったのです。
彼は他の人々に病毒を撒き散らす、いわゆる「ヴィールス」と見なされたのです。独立民族主義というヴィールスを撒き散らす危険人物というわけです。
「独立民族主義」「ヴィールス」「他者への感染」という用語は、アメリカが国際的な計画を立てるときの伝統的一般的な専門用語で、単なる中東政策の用語ではないのです。
この時点で、アメリカは先の原則をさらに発展させていました。「イギリスの軍事力を背後におきながら、アラブの傀儡国家を前面に押し出す」というイギリスのシステムを、さらに修正拡大したのです。
つまり、周辺地域にヴィールスが感染しないよう「防疫線」を確立しつつあったのです。それは後に、ニクソン政権が「地域の巡廻警察」と呼んだものです。
警察本部はワシントンにあるが、見回りの「地域警察」もある、というわけです。当時の「地域警察」の主なものは、トルコの大軍隊と王制下にあったイランでした。
1958年までにCIAは忠告しました。その言葉を引用すると、アラブ民族主義に反対する「論理的結末」は「中東でただひとつの西洋を支持する国として、イスラエルを支援することになるだろう」という忠告です。
この論法によってイスラエルはこの地域のアメリカのための主な基地になることができたのです。しかし、そのことは提案されたが、しかし、まだ実行されていませんでした。それが実行されたのは1976年です。
1967年イスラエルはアメリカのために大きな貢献をしました。つまりイスラエルは、エジプトのナセル大統領の軍隊を打ち破り、民族主義というヴィールスを破壊したのです。そしてアラブ連合軍に打撃を与え、アメリカに中東の支配権を与えたのです。
そして、この時点で本質的にイスラエル、イラン、サウディアラビア三者の同盟が確立されました。サウディアラビアは法律専門語ではイラン・イスラエルと戦闘状態にあったのですが、それは問題ではありませんでした。
サウディアラビアは石油をもっています。イランとイスラエルは(もちろんトルコは当たり前ですが)軍事力を持っていました。それは国王の統治下にあるイランです。パキスタンもその当時は、同じ支配体制の一部でした。
以上のことはハッキリと認識されていました。それについてはアメリカの情報機関の専門家も書いていますし、上記の計画を立案した中枢の人物も、それを良く認識していました。
たとえば、中東と石油についての専門家で上院議員のヘンリー・ジャクソンが指摘しているように、イスラエルとイランとサウディアラビアは、「周辺のアラブ国家の無責任で急進的な要素を阻止し抑制する役割をはたしていました。」
「もし、その周辺のアラブ国家が自由に振舞えば、中東におけるアメリカ第1の石油資源に重大な脅威になるであろう」とジャクソンは指摘しています。
(要するに、そのことは、彼が知っているように、主として、利益の分配と世界を統制する手段にとって、重大な脅威になるという意味です。)
サウディアラビアは、まさに資金の提供と大量の石油備蓄によって利益の分配を行なっていますし、イランとイスラエルはトルコとパキスタンの助けで地方の軍隊を提供することで、アメリカによる世界の統制に貢献してきました。
しかし、彼らは単に地方の「見廻り警備」にすぎないということだけは、覚えておいて下さい。だから、もし事態が本当に悪くなれば、親分(アメリカとイギリス)を呼び出すことができる、というわけです。
それが彼らの描いた青写真です。しかし、1979年に問題が起こりました。柱の一つが崩壊したのです。イランに政変が起き、独立民族主義のもとに政権が打ち立てられたのです。
カーター政権はすぐにイラン王制を復興させるために軍事クーデターを起こさせようとしました。カーターは北大西洋条約軍を送りました。
しかし、それは成功しませんでした。彼はイラン軍の中でアメリカに味方する者、その支持を得ることができなかったのです。
その直後、まだ残存しているふたつの柱、イスラエルとサウディアラビアは、イランにクーデターを起こそうとするアメリカの企てに参加しました。
それは、いつのも手段を使って、つまりイランの軍部に武器を送って、古い体制を復興させようとする企てでした。
その事実と目的は即座に暴露されましたが、すばやく隠蔽されました。その後、ガラクタの事実のみが公けになりましたが、それは隠蔽するのが不可能になったからにすぎません。
そのとき、それは「人質と交換するための武器」だとされました。それには人道的な響きがあったからです。たとえそれが「間違い」であっても。
というのは、レーガン政府はレバノンで拘束されているアメリカの人質を解放する方法を探していたからです。
しかし、実際に起きていたことは、アメリカがイランへ武器を送っていたことなのです。といっても、イランの軍部の特別なグループに対してですが。
しかも、その武器はイスラエルを経由して送られていました。というのは、イスラエルはイラン軍部と密接な関係があったからです。その上、その資金はサウディアラビアが調達したものでした。
それは人質解放のための武器ではありませんでした。その理由は単純明白です。なぜなら、そこには人質などいなかったからです。
最初にレバノンで人質が捕らえられたのは、イランに武器を送った後のことです。(しかも、その人質は、はたまたまイラン人でした。)
実際それは、アメリカがいつも行なう普通の作戦手順にすぎませんでした。
もしあなた方の誰かが外交的任務につくことを決意し文民政権を転覆させたいのであれば、そのやり方を知りたいのなら、単刀直入のわかりやすい方法があります。
その方法は、どこかで幾つかのコース・課程にわけて教えるべきだとおもいます。しかし、実は、それは実に単純明瞭なので、どんな学習も必要ありません。
もしあなたが文民政府を倒したいなら、誰がそれを実行しようとするでしょうか。軍部です。だから、あなたは軍部との関係を築き、彼らに資金を与え、彼らを訓練するのです。
そして、彼らと良い関係を確立し、政府を転覆させるよう彼らを説得すれば、あなたは成果を獲得できます。それは理にかなったことで、その作戦は、普通は成功しています。
インドネシアとチリは、最近うまくいった二つの事例です。インドネシアの何十万もの虐殺された人たちやチリの拷問で殺された人たちにとっては、上手く行ったなどとはとても言えませんが、その死者の数を数えている人たちにとっては大成功だったのです。
ですから、その同じ方針でやってみようと言うのは、全く理にかなっていたことなのです。
実際それは全く公けになっていたことでした。それは秘密というわけではなかったのです。だから、米国駐在のイスラエル大使モッシュ・アレンズを含むイスラエル高官は、米国のメディアにどんなことが起きているのか報道したのです。しかし、彼はすぐに沈黙させられました。
内容的に重要で、また卓越したやり方で提示されたBBCドキュメンタリーの中で、ウリ・ルブラニは、彼は王制のもとでの事実上のイラン駐在イスラエル大使でしたが、その彼が次のように述べているのです。
「もし何千人もの人々を路上で喜んで撃ち殺す人物を私たちが見出すことができれば、おそらく、私たちは王制を復興できるだろう。」
この発言に対して、イスラエルと米国の、元諜報機関の高官者は、次のように言って反応しました。「確かには分からないが、それが執るべき自然の方法のように思われる。」
明らかに、それが武器を送った目的でした。なぜなら、何度も言いますが、人質などいなかったからです。それは米国の人々を除いては衆知のことでした。だから、その計画はうまくいかなかったのです。
イラン政府はその陰謀を発見し、軍部内における米国とイスラエルへの内通者を見つけて、彼らを処刑しました。そして、次の局面になったのです。すなわちオリバー・ノース中佐の事件です。
この事件については、あなた方はお聞きになったことがあるでしょうが、それは第1局面の単なる延長線であり、そう考えてもよい十分な理由がありました。
もし、そうであるなら、また事実そうだと思われますが、ノース中佐によるイラン・コントラ事件は全く理にかなった、型どおりの政府転覆作戦でした。
第1の決定的局面を事実上、隠蔽するのも理にかなっていて型どおりのものですが、いずれにしても、この第1局面における「人質解放のための武器売却」は決して正当化できないものです。
それと同時に、米国はイラクによるイランへの侵略を支持しました。すなわち、イラクによるイランへの侵略に際し、米国の盟友サダム・フセインを支持したのです。
この場合も同じ目的でした。つまり、独立国家という災害を取り除こうとするものでした。イランはアラブの国ではありませんが、アメリカから独立した石油産出国を許しておくことはできなかったのです。
サダム・フセインのイラクも、あまりにも独立していたので、アメリカにとって余り心地よいものではなかったのですが、イランは中東地域における米国の政策の最も堅固な支柱のひとつだったので、その独立は決して容認できるものではなかったのです。
そのこととは無関係に、イランは重大な許しがたい犯罪を犯していました。なぜなら米国に支えられた軍事クーデターを帳消しにしたからです。25年前、そのクーデターはイランが独立の方向へ動こうとするのを阻止したものでした。
そのような(イランの米国に対する)不服従は、がまんできないものでした。そのような行動を放置しておくと、米国の「信頼」は脅かされることになるからです。
以上のことは80年代半ばまで私たちを連れ出すことになります。
イラクの侵略への米国の支援はたいへん真剣に行われました。それは、大きな残虐行為の全てを通じてサダム・フセインへを支援するものだっただけでなく、それを大きく越えるものでした。
たとえば、イランがイラクの石油積み出しを封鎖してしまわないように、湾岸をパトロールする軍艦を米国は派遣し始めました。それが如何に重大問題であるかは後で分かりました。
米国のサダム・フセインに対する関わりの深さは次の事実でも例証できます。
イラクは、イスラエルは別として、全く罰を受けずに米国の船を攻撃し船員を殺す権利を与えられている唯一の国でした。この事件の場合、37名が殺されました。そんな罪を犯して許される国は多くはありません。
1967年にイスラエルはそのようなことをしたし、1987年にイラクが同じようなことをしました。しかし、その他の例はありません。そのことが(米国のイラクへの)関わりの深さを示しています。
事態はそれ以上でした。翌年の1988年に、米軍の駆逐艦ビンセントは、イランの領空内でイラン航空654便の民間旅客機を撃ち落し、290人の乗客を殺しました。
実際、その駆逐艦はイラン領海内にいたのですが、その基本的な事実に関する真剣な論争はアメリカではありませんでした。しかしイランはそのことを大変に重大に受け止めました。
サダム・フセインが勝利するためには米国はどのようなことでもするつもりだろうとイランは結論を下し、その時点では彼らは降伏したのです。[こうしてイランは国連の停戦決議を受け入れる決意をしたのです。]
それは、彼らにとっては小さな出来事ではありませんでした。しかし、ここアメリカでは小さな出来事に過ぎません。なぜなら、それは我々の残虐行為であり、定義によると大国の行為は道義的責任を免れているから、したがって罪を犯すはずもないからです。
これは私の推測だということを強調しておきますが、パンアメリカン航空103便が爆破された事件は、報復のためだとするのは、あり得ることだし妥当な推測だと思います
西側の諜報筋がすぐに推測したことは、これはイラン航空654便が撃墜されたことに対するイランの報復だろうということでした。そして、それ以降起きたことから判断して、そのことはもっともな推測であると思います。
リビアに責任があるという証拠は未だに大変あやしいものです。すでにリビアは、数年前に、中立の場所での裁判なら訴訟を認めても良いと申し出ていたのですが、米国と英国がついに訴訟手続きをすることに同意しました。
ハーグでの奇妙な訴訟手続きは、その事件を綿密に調べた人々の間でただ疑惑を増やしただけでした。しかし、それはアメリカでは議論の対象とすることが許されませんでした。私たちはそのことをかなり確信できます。
例えば、「オランダのロッカビー裁判に関するレポート」を完全に隠蔽することが必要だと判断されていたことは明らかです。このレポートは、安全保障理事会決議1192(1998)に従って国連のアナン事務総長によって指名された国際的な立会人によって作成されたものです。
彼のレポートは1ヶ月前に発表されていますが、訴訟手続きに対する鋭い非難が述べられていました。だとすると、また次のような推測も成り立ち得ます。
つまり、もし彼が米国と英国の公式的立場を認め確認していたならば、そのリポートは新聞で何らかの論評を受けたかもしれないし、見出しにも載ったかもしれない、ということです。
[アメリカの立場を鋭く批判するものであったからこそ、そのレポートはメディアでは抹殺され、公けの目から隠蔽されることになったわけです。]
もし、その航空機爆破に対してイランに責任があったなら、彼らは「それに関係なかったとする、もっともらしい理由」を探していたでしょう。それはCIAがホワイトハウスに提供するのと同じ類いの仕事です。
そして、彼らはそれを実行するために代理人を使っていたでしょう。1985年のベイルートで最悪の国際的なテロリズムのお膳立てをした時に、CIAが明らかに行ったと同じ類いの仕事です。
そのテロはモスクの外での自動車爆破で、人々が帰ろうとする時間帯にタイミングを合わせ、80人の人々を殺害し、その他の数え切れない多くの人々に怪我を負わせたものでした。それは米国による残虐行為ですが、いつものしきたりに従って、犯罪とはならなかったのです。
だとすると、イランはリビア人を代理人に選んだという可能性もあります。しかしこれはあくまで推測です。おそらく私たちは決して事実を知ることができないでしょう。と言うのは、これらのことは調査に適さないことになっているからです。
これらすべてのことにもかかわらず、イラクはある種の例外にとどまっていました。1958年にイラクは米国の支配システムから逃れていました。
それは例外であり、そして別の点においても例外でした。イラクは、その政権がいかに恐ろしいものであろうと、実質としてはその資源を国内開発のために使っていました。
だから、イラク国内での実質的な社会的経済的発展がありました。これは米国の支配システムが機能する正しい方法ではありませんでした。と言うのは、その富は西側に流れ込むのが当然と考えられていたからです。
したがって、イラクとアメリカには、ずっと複雑な例外的な関係があったのですが、そのことを述べる時間は、今はありません。しかし、今やその関係は終わったのです。
現在、湾岸戦争と、特にその後の経済制裁の効果は、本質的に、これらの「良い形態」からの出発をくつがえすものでした。
そしてイラクは米国の支配の下で国際的な枠組みに再び入ることを許されるでしょう。それは、ほとんど確実でしょう。
しかし、その時点で、イラクが自国の発展のために自分の資源を使うという、アメリカにとっての「重大な危険性」はもはや消滅しているでしょう。
イラクが生き残り、部分的に回復できるのは、アメリカにとっても幸運なことでしょう。だから問題はおそらく多かれ少なかれ、終わっているのです。
それが経済制裁の目的の一部だったかどうか議論の分かれるところです。しかし、それが制裁の結果であることは間違いないようです。
こういったすべてのことは次の疑問を引き起こします。
「我々アメリカによる伝説的な人権に対する貢献はどうなっているのか。」「中東の事件における様々な役者・登場人物に対して、人権はどのように割り当てられるのか。」
答は全く単純です。米国の支配システムを維持することに対する貢献の度合いに従って、人権への貢献度合いも割り当てられるのです。
この定義に従って米国は当然、人権を持っています。英国も米国の忠実な攻撃犬である限りは人権を持っています。
アラブの「前衛」も、自分たちの民衆を統制し富が西側に流れることを保証している限りは人権を持っています。地方の巡廻警官は、彼らが仕事をする限りは人権を持っているのです。
それでは、パレスチナ人はどうなのか。彼らには富もなければ、力もありません。従って米国の国政術の最も初歩的原則によって、彼らにはいかなる人権もないということになるのです。
それどころか、実際、彼らは負の人権を背負っているのです。その理由は、彼らは何も所有していないし、彼らの苦難はその地域で抗議や反対運動を引き出すからです。
だから彼らはゼロにみなされるどころか、有害であるとさえ見なされているのです。
このようなことを考えると、米国の、このおよそ30年の政策を予測することは、とても簡単なことです。その基本的な要素は、極端な拒絶主義であったし、今もそうです。
ここで、私はこの拒絶主義という用語を従来の意味では使っていないということを明らかにしておきたいと思います。すなわち、人種差別の意味で使っているのではないのです。
この「拒絶主義」という用語は、西洋的文脈では、一般的には純粋に人種差別主義の意味で使われています。その用語はユダヤ人が国を持つ権利を拒絶する人々を指します。彼らは「拒絶主義者」と呼ばれています(実際にそうであるように。)
しかし、もし私たちがその用語を非人種差別的意味で使うならば、今度はその用語は以前のパレスチナの地で、勢力争いをしている一つの、またはもう一つの国民の権利を拒絶する人々を指すことになります。
だから、パレスチナ人が国家を持つ権利を拒絶する人々が、今度は拒絶主義者ということになります。そして米国は、この30年間、非人種差別的意味での拒絶主義者の陣営で主導権を取ってきました。
実際、米国が導いてきた、また今も導いている拒絶主義者の陣営の中で、アメリカこそが唯一の重要メンバーなのです。
1967年の戦争(第三次中東戦争)は危険なものでした。核による対峙まであと一歩というところまでいったのです。そして外交的和解がなされるべきだという合意に達しました。
主としてアメリカ、そしてその他の大国が提案した外交的和解案はUN242(国連安保理決議第242号)と呼ばれました。これが明らかに拒否主義的であることに注目していただきたいのです。
この決議は、承認された境界内でイスラエル人が平和的に安全に暮らす権利を認めるよう求めています。しかしパレスチナ人の権利については、難民問題について漠然と間接的に言及していることを除けば、一言も触れていません。
UN242は中東に存在する国家間の和解を要求しています。この決議は簡単に申しますと、パレスチナ自治区の占領地からイスラエルが完全撤退する見返りとして、完全和平を実現するというものです。これがUN242です。
そしてそれはその当時、アメリカの公式の政策でした。イスラエルの撤退は、イスラエルとパレスチナが互いに境界線をちょっと調整するといったことを含むものでありえたはずです。多分、あちこちのくねくねとした境界線をまっすぐにするといったようなですね。しかしそれ以上のものではありませんでした。
そしてもちろん、自治区占拠地の中では、いかなる入植もそれにともなう開発も禁止されています。占拠地での入植がジュネーブ条約の侵害であるという事実には疑いの余地がありません。これについては、アメリカとイスラエルを除いて、世界の意見は一致しています。
この件に関してアメリカは、国際法やジュネーブ条約に自分が敵対していることを公的に言明することに、当然ながら、ずっと消極的でした。それらの条約や国際法はナチスによって行われたような犯罪を禁じるために制定されたものですが。
そういうわけで、アメリカは、イスラエルの反対、アメリカの棄権を除けば、満場一致で国連を通過している解決案に対して、それを拒否しているのです。
それでもアメリカは、UN242に対するこの解釈を公式的には1971年まで守っていました。1971年にたいへん重要なできごとが起きました。サダト大統領がエジプトで政権を握ったのです。
そして彼は、UN242に書かれたとおりの--和解策、アメリカの公式政策に書かれたとおりものを提案したのです。つまり「イスラエルの完全撤退の見返りとしての完全和平」ということです。
それどころか、サダト大統領の提案は、アメリカに対して、より協力的でさえありました。
それはパレスチナ自治区の占拠地とゴラン高原の現状には手をつけず、エジプトの自治区からイスラエルが撤退する見返りとして完全和平を実現するというものだったからです。
もちろん、サダト大統領の提案も、また確実に拒否主義的でありました。それはパレスチナ人について一言も触れていないからです。
さて、アメリカは選択を迫られました。サダト提案を受け入れるか、それともUN242を否決するか。
サダト大統領の提案は、イスラエルが主張したと同じもので、「正真正銘の和平案」であり、それはアメリカにも理解されていました。当時アメリカ大使であったイスラエルのイツハク・ラビンが回想録の中で述べているように、それは「和平への一里塚」である、ということも分かっていました。
アメリカは決定を迫られました。アメリカ国内では対立がありました。ヘンリー・キッシンジャーが勝利を得、アメリカ政府はキッシンジャーの「手詰まり(ステールメイト)政策」を採用しました。交渉なし、実力行使あるのみというものです。
アメリカは1971年2月に、実際上、UN242を拒否し、それは「アメリカとイスラエルの決定する範囲における撤退」を意味するものであると主張しました。これは1971年以来、アメリカによる国際統治のもとでのUN242の実効的な意味となっています。
公式的にはアメリカはクリントン政権になるまではUN242を支持していました。クリントン大統領は、アメリカの解決策は無効であると主張した最初の大統領です。
しかしそれまでは、少なくとも言葉の上ではアメリカはUN242を受け入れていたわけです。言葉の上でだけですが。
実際上は、アメリカはキッシンジャーの解釈に従いました。アメリカのどの大統領にとっても、UN242は、実際的にはアメリカとイスラエルの決定する範囲内での部分撤退を意味しました。
例えばカーター大統領は、アメリカはUN242を支持すると力強く繰り返し、実際それを支持し続けましたが、しかし同時にイスラエルへの援助をアメリカの援助合計の半分にまで増やしました。
これはキャンプ・デービッド合意の一部でしたが、そうすることによってイスラエルが、自国内の占領地区の統合を進めたり、UN242の意味ある形での履行を妨げたり(そして、北方の隣国を攻撃したり)する保障をしたのです。
これはまさに予想されていたことであり、イスラエルはその通りのことをしたわけです。
拒否主義者の国際体制へのかかわり方は70年代半ばまでに変化しました。
70年代の半ばまでには、非常に広い範囲の国際的な合意によって、事実上すべての人々によって、パレスチナ人の国家樹立権が認められるようになりました。イスラエルの国家樹立権と同時に。
1976年1月、国連安全保障理事会は解決策を討議しましたが、この討議にはUN242の表現を盛りこみ、さらにイスラエルが撤退する自治区内のパレスチナの国家樹立権を追加しました。
アメリカはこれに対して拒否権を発動し、従ってこれは歴史からも抹殺されました。そのためごく稀な例外を除いてこのことに関しては、歴史の本で見つけることさえできません。
1971年2月のできごとについても同じです。根気よく調べれば事実を発見することはできるでしょうが、それらは実際上、歴史的な記憶から締め出されてしまっています。
同じ事が続きました。私は記録すべてに目を通すことはいたしません。アメリカは1980年にも同様の安全保障理事会決議案に拒否権を発動し、同様の国連総会の決議案にも毎年のように反対しました。
たいていは単独で反対しました(当然、イスラエルは反対でした)が、時には幾つかの他のアメリカ寄りの国を仲間に引きずり込んで、反対することもありました。
国連総会決議案に対するアメリカの一方的な拒否は、事実上、二重の拒否にあたるということを思い起こして下さい。つまり、決議案は無効となるだけでなく、それは歴史からも抹殺されてしまうからです。記録に残ることさえ稀なのです。
アメリカはまたその他の交渉努力をも妨害しました。ヨーロッパやアラブ諸国によるもの、PLOによるもの、実際、誰が提案したものであっても妨害したのです。これは湾岸戦争まで続きました。
この平和的な外交的解決に対する妨害の過程には1つの名前があります。これはまさにオーウェル的な名前です。それは「和平への過程」と呼ばれています。
[ジョージ・オーエルの小説『1984年』を読むと、この命名の意味がよく分かるはずです。]
湾岸戦争によって状況は変化しました。その時点で世界各国はアメリカがひじょうにはっきりした声明をおこなっていることに気づいていました。
「アメリカはこの地域を武力で支配する。だからじゃまをするな。」ということです。それが世界各国の認識でした。
そこでヨーロッパは手を引きました。アラブ世界は混乱を極めていました。ロシアも去りました。その他の国はものの数には入りません。
アメリカは直ちにマドリッド交渉に入りました。そこでアメリカは拒否主義的な枠組みを一方的に押し付けたのです。それは、20年間、国際的孤立のなかでアメリカが守ってきたものでした。
このマドリッド交渉からオスロ合意への様々な道が開け、また1993年9月13日のホワイトハウスでの交渉へとつながりました。そこではマスコミが「畏敬の日」などと書きたてた宣伝とともに、原則の宣言(DOP)なるものが受諾されました。
この宣言はよく調べてみる価値があります。それはどのような曖昧さもなく、はっきりと、来るべきものについて述べています。
ちょっと申し上げておきたいのですが、私はこれを回顧録として言っているのではありません。私はこの宣言についてすぐに論説を書き、それは1993年の10月に掲載されました。
それ以来、驚くべきことはほとんどありません。[なぜなら、事態は私が書いたとおりになっているからです。]
原則の宣言(DOP)は「永久的な状態」、すなわち将来の究極的な和平は、UN242に基づくもの、そしてUN242だけに基づくものであると述べています。
これは非常に重要なことです。中東外交に詳しい人ならだれでも、その日、正確に、前途に何が待ち受けているかわかったのです。
第一に、UN242は「アメリカの決定に基づく部分撤退」を意味します。キッシンジャー案を修正したものですね。
そして「UN242のみに基づく」というのは、UN242だけを意味し、それ以外のどのような国連決議案、イスラエルと並んでパレスチナの権利を要求する如何なる決議案をも排除しているのです。
UN242それ自体が確固とした拒否主義的なものであるということを思い出して下さい。
1970年半ば以降の主要な外交問題は、外交的解決案が「UN242のみに基づくものであるか」それとも「その他の決議案によって補足されたUN242に基づくものであるか」でした。
その他の決議案は、アメリカが安全保障理事会で拒否し、(実際上は)国連総会においても拒否したものでした。
第二の問題は、UN242には本来的な解釈があるのか、それともアメリカが1971年のサダト大統領の和平案を拒否したあとの実効的なアメリカの解釈が正しいのかということでした。
DOP(原則の宣言)では、アメリカは断固として明確に、永久的解決はUN242のみに基づくと述べていますが、これはアメリカ政府の一方的な拒否主義的姿勢に従うものでした。他のどんな解釈も交渉のテーブルから排除されたのです。
そして、これは一方的な力の政策ですから、UN242は「アメリカの決めたとおりにやる」ということを意味します。これは非常にはっきりしています。
しかし、人は進んでだまされることができます。多くの人がその道を選びました。しかし、それも1つの選択ですが、賢い選択とは言えません。特にその選択の犠牲となる人々にとっては。
というわけで、この問題は継続しています。細かい点を除いては、オスロ合意を侵害したといってイスラエルを責めるわけにはいきません。
確かに、イスラエルはパレスチナ自治区占拠地に入植を続け、そこを自国に統合し続けています。しかし、これは私やあなたがそうしたということです。
なぜなら、アメリカは承知の上で入植のための資金を提供し、これらのはなはだしい国際法の侵害に対して決定的に重要な外交的かつ軍事的支援を行っているからです。
UN242の後に続く合意(オスロ合意など)は解決のための細目について述べています。これらは詳しく調べてみる価値があります。
もし興味がおありなら、私は1996年に印刷され入手可能になった合意の主要なものの一つについて論評しております。
この合意における細目は、そのなかに組み込まれた意図的な屈辱も含めて、注意をひくものであります。そして、これらの細目はかなりしっかりと実行されております。
強力な顕微鏡を用いてよく見てみますと、(アメリカと同様に)イスラエル国内の二つの主要な政治的グループの違いを見分けることができます。
これらのグループに対するアメリカの態度にはあきらかな違いがあります。しかしその違いの理由は、本質的なものと言うよりはスタイルに基づくものであります。
そこで、ほんの2−3日前に国防相に任命されたベン・エリーザーをとりあげてみましょう。エリーザーは、今は「労働党のタカ派」と言われています。
しかし、エリーザーは、シモン・ペレス政権では住宅相を務めましたが、当時は、労働党のハト派として歓呼して迎えられた人物です。
1996年2月、ペレス首相の任期が終了に向かっていた時期で、「ハト派」のピーク時に、エリーザーは入植地拡大計画を発表しました。
今ここで読み上げてみましょう。なぜならこれは今まさに起こっていることだからです。これは1996年2月のことなのです。エリーザーは次のように言っています。
「政府の立場は、究極的には我々の要求となるものであるが、それは秘密でも何でもない。エルサレム地域については、具体的には、マール・アドゥミム(Ma’al Adumim)、ギヴァト・ゼ‘エヴ( Givat Ze’ev)、ベイタール( Beitar)、ガッシュ・エツィオン(
Gush Etzion) などはイスラエルの将来的な地図に統合される部分だと考えている。これについては疑いの余地はない。」
エリーザーはまた、イスラエルがハル・ホマ(Har Homa)と呼んでいる入植建設地では―これはエルサレム近辺での最後の地区なのですが―ほとんどアラブからその所有権を取り上げたと発表しています。
これはナタニエフ政権下にあっては、国内外の強い反対にあって保留とされていたことです。しかし、このペレス政権による計画はバラク首相によって再度取り上げられ、反対なしで進められました。
ちょっとエルサレム地区の地図を見てみますと、この意味するところがよくわかります。「エルサレム地区」は―これはオスロ合意のあとラビン首相によって既に定義されているとおりですが―実際的に西岸を分割しています。
マール・アドゥミム(Ma’al Adumim)の市街は主としてこの目的のために開発されました。そして、これに他の「エルサレム地区」を加えることは、単にこの実際的な分割を強めるにすぎません。
エリーザーはまた1996年2月に次のように説明しました。
「労働党は首相の保護のもとに“静かに入植を進める。” 野党のリクード連合のように、相手を刺激しながら、これ見よがしに入植することはしない。」
ペレス首相でもラビン首相でもバラク首相でも、または誰でもいいのですが、しかし「静かに入植している」のです。(バラク首相の場合は入植記録のすべてを破ったほどです。)
「静かに入植する」、これは重要なフレーズであります。そしてそれが、アメリカが常にリクード党より労働党を好む理由なのです。労働党は静かにやる。彼らは「ハト派」であります。
リクード党はこの件に関しては傲慢で騒々しい傾向があります。そのためアメリカは、自分達が実際にやっていること、そんな政権を援助していることを知らない振りをするのが難しくなるのです。そういうわけで労働党は常に好ましいわけです。
この理由は選挙における支持層の違いに遡ることができます。労働党は管理者、専門家、知識人を支持者とする政党で、一般的により現世的で西欧化された階層ですから、西欧的偽善の規範をたいへんよく理解していまし、従って扱いやすく、それ故、西欧諸国により評価されるのです。
だから労働党の政策はリクード党と幾分ちがいます。注目されているとおり、労働党はリクード党よりしばしば入植に(軍事行動にも)攻撃的です。時として、これは逆になることもあります。しかしそれは二次的なことで、あまり重要ではありません。
詳細な項目に立ち入らなくても、次のようなことがわかります。
注目すべき交渉における最近の討議のすべてにおいて、あるいはクリントン大統領とバラク首相の「協力的な」「気前のよい譲歩」の全てにおいて、明らかに幾つか漏れている報道があります。
一つは地図です。新聞で地図を探してみてください。何が起こっているのかについて書いているアメリカの新聞のどれをとっても地図がありません。地図が全く見つからない理由は多分次の通りでしょう。
キャンプ・デービッドで提案されたこと、すなわちクリントン大統領の最終案とバラク首相案のもとで履行されつつあることは、既にエリーザーが述べたこととかなり同じだからです。
私がエリーザー案として先に申しあげた場所は、他の場所と並んで、既に、かなりイスラエルに併合されているのです。
報道で欠けている第二の重要な点はは、「気前のよい譲歩」などあり得ないということです。なぜなら占領地の譲歩など全くあり得ないからです。これはロシアのアフガニスタン撤退、またはドイツのフランス占領からの撤退などが譲歩などではなかったのと全く同じことです。
エルサレムと呼ばれている街は、すべての方向に大きく広がっています。北のラマラと南のベツレヘムを切り離し、事実上、西岸を分割しているのです。
東部の街、マール・アドゥミム(Ma’al Adumim)は、アメリカの報道機関では「エルサレムの近郊」と呼ばれています。確かに、マール・アドゥミム(Ma’al Adumim)は主としてオスロ合意の時代に、アメリカとイスラエルによってエルサレムの東側に広範囲にわたって建設された街です。
マール・アドゥミム(Ma’al Adumim)に計画されている国境線は、エリコから数キロメートルのところまで届くはずです。エリコ自体も今は人々の出入りを防ぐため、7フィートの深い壕で囲まれています。
そして他の都市にも同じことが計画されているのです。この意味するところは次の通りです。
この「エルサレム」突出部、つまりマール・アドゥミム(Ma’al
Adumim)の街は、実に効果的に、西岸地区を南と北に二分し、パレスチナ自治区を二つの飛び地に分割する、というわけです。
こうして、パレスチナ自治区全体は、エルサレムにおけるパレスチナの生活の伝統的な中心から切り離されるのです。現在、エルサレムの街は大規模に拡大しています。それは全てイスラエル人の入植のみによるものです。
別の突出部、すなわちギヴァト・ゼ‘エヴ(Givat Ze’ev)の街がエルサレムの北部にあり、それもまた効果的に、エルサレムの北部と中央の地域を分割しているのです。
ガザに関する討議はあいまいですが、これまでの入植と開発のパターンから判断すると、何か同様のことが計画されているようです。
覚えておいていただきたいのは、すべての入植地は大規模な基幹整備計画の一部であり、この計画はそれらをイスラエルに統合して、パレスチナ人を西岸から見えないところへ移動させ、飛び地へ閉じ込めるようになっているということです。
これらが「協力的で気前のよい譲歩」なのです。それらはアメリカにもイスラエルにもよく理解されていることです。
私はイスラエルにおけるハト派の指導者の一人、シュロモ・ベン・アミのコメントでこの講義をしめくくりたいと思います。
ベン・アミはバラク首相のもとで交渉代表を務めました。そして実際、労働党ハト派―かなり極端な―のひとりです。
1998年ヘブライ語で書かれた学術的な本の中で―これはベン・アミが入閣する前のことですが―完璧に正確に次のように指摘しています。
「オスロ交渉の最終目標はパレスチナ自治区の占領地において『永久的新植民地的依存状態』を作り出すことであった」と。
イスラエル国内では、それはバントゥースタン的解決策と呼ばれています。南アフリカの政策を思い出していただければ、本質的にはあれと同じものだということが御理解いただけると思います。
バントゥースタンの地図
この解決策を支持する人々のなかにイスラエルの産業資本家たちがいることは注目に値します。
およそ10年ぐらい前、オスロ合意の前に、彼らはパレスチナ国家が大体このようなものになるように要求しました。
これは彼らにとってかなり合理的なものでした。産業資本家にとって、永久的新植民地的依存状態というのは非常に道理にかなったものでした。
アメリカとメキシコとか、アメリカとエルサルバドルのようなもので、パレスチナの国境沿いにマキラドーラ(組み立て工場)があるわけですね。
これは非常に安い労働力と過酷な労働条件を提供します。そして利益追求の過程で、汚染の心配とかその他のうるさい制約に気を使う必要がありません。
また、永久的新植民地的依存状態においては、このパレスチナ人の労働者をイスラエルに連れてくる必要もありません。それは常に危険なことですからね。
誰にわかるでしょうか。誰も知らないのです。
いわゆる「美しい魂」といって嘲られている人々が、自分たちがどんなふうに扱われるかに気づき、最小限、人並みの労働条件と賃金を要求するようになるということが。
イスラエルの支配者にとっては、パレスチナ人が国境を越えて自分たち自身の「国」にいることは、はるかに望ましいことなのです。南アフリカ共和国におけるアパルトヘイト時代の黒人居住区トランスカイのように。
この制度は人権保護に対する脅威を和らげ、利益を増大させるばかりでなく、イスラエルの支配者たちが自国の労働者たちに対して闘うための有効な武器にもなるのです。
なぜなら、この制度はイスラエルの労働者の賃金や福祉を掘り崩す手段を提供するだけでなく、更にそれはスト破りの手段ともなります。
これはアメリカの製造業者がよく用いたものですが、国内でのストを破るために国外の余剰施設を開拓しておくのです。数年前のキャタピラー社のストはこれの良い例です。
例えば、港を民営化しようという試みがあり、イスラエルの組合がストを行ったとしましょう。産業資本家は困ります。ストを破るため、エジプトかキプロスの港を使うこともできますが、そこは遠すぎます。
一方でもしガザに港があれば、それは理想的です。新植民地的依存主義の政府の協力を得て、港湾作業はそこに移すことができます。イスラエルの労働者のストは破られ、港は数え切れない私企業の手に移行されます。
それは永久的新植民地的依存状態におけるパレスチナ国家に賛成する格好の口実であります。この筋書きは、このスペインのトレドではおなじみのものであるはずです。
イスラエルそれ自身は―これは驚くにはあたりませんが―非常にアメリカ的になってきています。
イスラエルは、はなはだしい富の不平等、ひどい貧困、賃金の停滞または減少、悪化する労働条件などをかかえています。
これは、むしろアメリカ以上の深刻さです。他のどの産業社会よりも、イスラエルにおける富の不平等、悪化する労働条件は深刻です。
アメリカ同様、経済は決定的に流動的な国家のセクターに基づいているのですが、時として軍事産業の名目で隠蔽されています。
アメリカがイスラエル産業における前哨部隊の配置を好んだとしても驚くにはあたりません。それはアメリカに非常に似通ったものなのですから。
アメリカがまた「二重封じ込め(政策)」と呼ばれる政策を遂行してきたことも驚くにはあたりません。
これはイランとイラク―国際的なアメリカの支配構造に従わない二国ですね―を孤立させるものでした。
しかしながらこの政策は崩壊しつつあります。それは維持できません。この地域の国々は最早この政策を受け入れていないからです。
アメリカの国外では、また一定程度において、イギリスの外側でも、この政策に対する支持は非常に少ないし、逆に反対は強いからです。
他方、アメリカ国内では重要な分野で反対意見が強まっています。ライバル企業に主要な機会を奪われて面白くない産業界です。
思い起こしていただきたいのですが、イラクは世界第二の石油保有国であり、イランもまた多くの資源を持っています。
したがって、ぜひ何とかしてこの二つの地域がアメリカの支配の下に再編入されないだろうかと期待するのは無理のないことです。
これは簡単にはいきません。なぜなら、それは非常に多くの問題を含んでいるからです。事実この地域全体は非常に不安定で危険であります。
この地域の政情安定にアメリカの役割が重要であり、恐らく決定的なものであり続けるだろうということには疑問の余地はありません。
それは私たちにとって望ましいことでもあります。なぜなら、それは私たちが世界の平和に影響を及ぼすことのできる一つの要因にもなりうるということだからです。これは私たちアメリカ人に非常に重い責任を与える事実なのです。
(翻訳:寺島隆吉 + 福田裕三郎、久代宮子、久保田勇人、山田昇司、北村しおり、岩間龍男、南野利枝)
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